第78期 #18

ニルヴァーナ

 ガタン、と郵便ポストに何かが入れられた音がした。
郵便ポストを開けると、「解脱」と書かれたラベルの巻かれたペットボトルが一本横にしておいてあった。
疑問よりも先に好奇心が腕を動かした。手に取り、ラベルをはがし、中の液体を確認する。
薄い灰色、言うならば工業廃水のような、つまり、飲むには値しなさそうな液体が揺れていた。
キャップを開け、中学校の時に習った塩酸を嗅ぐ時のような恰好で手で扇いだ。線香。瞬時にその単語が思い浮かんだ。
まさに線香そのもの。この、実家の仏壇の前で飽きるほどに嗅いだ、この匂い。キャップを締め、振ってみる。
どうやら粉末のようなものが溶かしてあるらしく、液体の中を濃い塊がうようよと移動した。


 コップに注ぎはしたが、どうしようか。
誰かの面白半分の悪戯である可能性は九分九厘。しかし、もし、そうでなかったとしたら。
誰がこのペットボトルをポストに入れたのか。そしてこれは何の液体なのか。
……どうやら、これらの疑問を取り払うには、飲んでしまうのが一番手っ取り早いようだ。
俺はコップを手に取り、埃を溶かしたような水面を眺めて一気に流し込んだ。


「新家さんっ。新家さん」
大家が部屋の戸を叩いて自分の名前を呼んでいる。
「新家さん、入りますよ」
鍵がまわる音がして、大家が部屋に入る。シギリ、と床が音をたてた。
目の前に、大家が現れた。
「新家さん、二週間も部屋から出てこないなんて、何考えてるんですか?」
言って、大家は目を見開いた。おそらく私の恰好に驚いたのだろう。
無理もない。長かった髪の毛を剃って坊主にし、
麻物の着物のようなものを来て坐禅を組んでいたのだから。
大家は怪訝な顔を隠そうとはせず、続けた。
「……お家賃、頂けます?本当は一週間前には払わなきゃならんのですよ」
「まあまあ、わざわざどうも。座って、お茶でもどうですか」
私は坐禅の体勢を解いた。
「何言ってるんですか。早く払ってくださいな。まあ、頂きますけれど」
大家はそう言うと自分の出したものを飲み干した。
「おいしいですか」
「これ、なんですか?とてもおいしいですわね」
「まあ、いいじゃあないですか、何でも。それで、お話はなんでしたかな」
大家は、ほっこりとした表情で言った。
「ああ、お家賃の催促に来たんですのよ。でもまあ、よろしいですわ。
人には人のペースというものがありますものね。ゆっくり、自然に身を委ねて、お待ちしてます」
「ええ、承知致しました」



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