第78期 #15

忘れるを知る

 きっと始めは些細なことで、だから今でも理解できないのだと思う。
 教室を二分してしまっている現実。その両端にいるのが、私と美紗。
 休み時間、美紗はクラスメイトたちとお喋りをしている。それは私も同じだ。笑い声が聞こえる。私も笑う。でもそれは見せかけの安定。天秤の両側に分銅が乗っているときのような、触れれば揺れてしまうような状態。ふと向こう側と目が合っただけで笑い声が途絶えてしまう、それが今の私たちの教室だ。
 耐えられずに、ごめんなさい、と言ってしまいたくなるときもある。でも美紗の隣にいる子は私が悪いと言ってとりあわず、私の前にいる子は美紗が悪いと言って譲らず、それは叶わない。動けない私たちの代わりに仲をとりもってくれようとした子も同じ目に遭って、仲間はずれにされることを怖れてやっぱり動けなくなる。そのうちに緊張は通常になって、でもやっぱりそれは見せかけの通常だ。
 その証拠に、私はつまらないという感情を覚えた。それは私の顔から笑いを消す。そんなときは何を見ても面白くないし、何を聞いても耳に障る。そしてそんなときに限って、美紗の笑い声がよく聞こえる。よく聞いた、でも多分違う笑い声。視線を合わせないように目の端で美紗を見ると、それは私に向けられている。私の前の子が気づいて向こう側に威嚇の目を向けて、また笑い声が途絶える。
 下校が遅くなった夕方、早足の帰り道で美紗の後姿を見つけた。数軒先が美紗の家で、美紗は一人で歩いていた。見つかっては気まずいと歩調を緩めた私の目を、何かに反射された夕日の光が刺した。かばんに留められた、まだ新しい缶バッジ。そうだった。これが始まりだったんだ。たったこれだけのことで、と後悔と憎悪の目で私はバッジをにらみつけた。でもバッジが応えてくれるはずはなく、美紗はそのまま家に入っていった。
 美紗に電話をしたくなった。でも何を言えば良いかわからなくて、私は美紗の電話番号を抹消した。もう忘れよう。バッジのことも、仲違いしたことも、美紗を嫌っていることも、それから美紗が好きだったことも。
 二分された教室。両端にいる私と美紗。天秤の皿は下に降ろされ、見せかけと思っていた通常はいつしか本当の日常になり、私は私、美紗は美紗で気兼ねなく笑えるようになった。これが大人の態度というものだろう。いつか誰かがけんかしてしまったときは、今度は私が忘れることを教えてあげようと思う。



Copyright © 2009 黒田皐月 / 編集: 短編