第77期 #31
暗闇だと思ったら、それは青空だった。
「あなたのこと、知ってるわ」その女は僕に言った。「遠い昔のことよ。あなたって、何一つ変わらないのね…」
僕は空を見上げていた。雲が一つもなかった。ずっと眺めていたら、僕の眼球に、青空がペッタリと貼りついた。目を閉じると、僕は青空の中にいた…
「変わっていったさ。何もかも」
ついさっきのことだ。僕はその女を、ナイフで殺したような気がする…。確信はない。ただ柔らかい何かに、硬いナイフがグッと押し込まれていった感触だけが、この手に残っている…
「なつかしい気持ち、分かるでしょ?」女は言った。「それは、人が何かを失ってしまったときに感じる気持ちなの。もう二度と戻ってこないものを、いとしく思う気持ち…。あなたには、どうしても耐えられないのよ。何かを失うことが…」
まるで時間が止まったみたいだった。女の腹部には、ナイフが真っ直ぐに突き刺さっていた。でも女は、ただ春風のように微笑んでいるのだった…
「ほら見て…」女は空を指さして言った。「鳥が飛んでる。名前は知らないけど…」
「君は死んでるのかい?」
「あれはきっと渡り鳥ね。一羽だけ、仲間とはぐれたのよ…」
「僕は君を殺したのかい?」
そう僕が尋ねると、女は腹に突き刺さったナイフを手で引抜いた…
「なぜそれを知りたいの?」
「大切なことだからさ。人を殺したら、人じゃなくなる」
女は僕に、ナイフを手渡した。
「人殺しだって、同じ人間でしょ…」
なつかしいな/君と一緒だった頃が…/君は僕で/僕は君だったよね…/僕らは手を放すべきじゃなかった/決して…/僕は次第に君を忘れていったけど/あるときふと気付いたんだ…/どうしても埋まらない/大きな空白に…/もしこの世に希望があるなら
僕を殺してくれ
「人を殺すことは、世界を殺す希望なの?」
「悪魔になる希望さ。悪魔には不安も、迷いもない」
孤独な悪魔/孤独な人間の/希望?
「違う」
女は言った。腹部の傷口から、赤い血を流しながら…
「人は絶対、悪魔になんかなれない。人は弱いの。人は柔らかくて、あたたかくて、せつないの…。誰だって、どんな人だって、帰るべき場所はあるのよ。それでもあなたの空白は、埋められないかもしれないけど…」
僕は、手に持ったナイフを見つめた…
「ねえ見て…」女は言った。
僕は眼球に貼りついた青空を、ゆっくりと、はぎとった…
あなたにも、見える?