第77期 #32
「範囲は何ページから」
どうしよう。ノートの文字が暗号のように私を拒む。いくら指でなぞっても、ただの模様にしかみえない。隣に座る彼と触れた肩から温もりが伝わってくる。華奢にみえて意外とがっしりしているのね。いけない、またノートがうわの空になってる。
どうして今日なのか解りますか。勉強をみてもらおうと部屋まで押しかけてきたのはただの口実で本当は鞄の中のものを渡したかったのです。
「伊藤先生はノート中心でテスト作るから楽勝だよ」
ここまで辿り着くのに、どれほど勇気が必要だったか……でも無理。私なんかが先輩とつりあうはずないもの。あれほど思いつめた決心だったのに、先輩の笑顔を前に脆くも崩れてしまいました。たぶん、もう勇気を使い果たしちゃったんだと思います。今日の先輩を独占できただけで満足です。せっかく作ったチョコ君なのに、ごめんね。
「そうそう、ここの公式は俺らのとき出題されたんだぜ」
耳元で響く先輩の低い声に、瞳が潤んでしまいそうになる。
黙り込んだ私を不審に思ったのか「どうかしたの」と、顔を覗き込んできた。
「頬が赤いよ。風邪ひいたの」
そう言うと、いきなり私の前髪をかき上げ、手のひらで額を覆った。
あたたかくて大きな手。その温もりに平衡感覚が乱され天地がぐるりと回りそうになる。
跳ね上がる鼓動が痛いくらい胸を叩く。私の心臓って、なんて正直なんだろう。
「熱はないみたいだけど。今日はこの辺にしとこうか」
いやっ! もう少しふたりっきりでいたい。
凶暴なまでに揺さぶられる私の理性。なのに追いつかない行動力と空回りするチョコレート。
たった一言「これ貰ってください」の言葉が声にならず溜息にかわる。
そんな煮え切らない私を横目に、先輩はケータイを取り出した。
「もしもし俺。なんだよお前かよ」
友達からなのかな。
「駄目だって。今年もチョコゼロ個。笑うなって」
嘘。ゴミ箱の銀紙はなによ。
「じゃあな」
電話を切った先輩は「誰かチョコくれないかな。めっちゃチョコ欲しいよな」と、ひとり言を呟く。
優しい先輩の優しい嘘。針が落ちる音だって聞こえるくらい静かなこの部屋のこと。マナーモードでも着信があればバレちゃうのに。沈黙したケータイ相手にひとり芝居を打ち、チョコを渡すチャンスを与えてくれた先輩。
震える手で鞄を開け、一生分の勇気を振り絞って声にかえる。
「あの……恵まれない先輩にボランティアです」