第77期 #17

叶わない願い

「ねえ。良かったら今日、明日でも良いんだけど、一緒に食事しない?」
 繁忙期の残務処理がようやく終わった頃、主任から声をかけられた。おかしい、と私は直感した。しかし独身女の性癖か、その直感を顧みることなく私はその申し出を受け、いそいそと帰り支度を始めた。
「良いんですか?」
 ずっと一緒の部署で仕事をしてきて形式張ったことなど意味を成さない間柄のはずなのに、私が主任の家族に遠慮を示したのは、直感の名残だっただろうか。何かの折に一度だけ会った顔立ちのはっきりした奥さんと主任の間には、ふたりの娘さんがいる。確か下の娘さんもそろそろ中学生になる年頃のはずだ。
 主任の返事はあいまいだった。その上、主任から私を誘ってくれたのに、主任はあまり私に話もせずにコーヒーのお替りばかりしていた。これは調子が悪いときの主任の癖だ。いつもの主任がやや強引で見るのも嫌になることさえあるだけに、こうなるとかえって見ていられない。これが直感の教えたことだったかと合点して、ここが出番と私は口火を切った。
「お家の方は、良いんですか?」
「良いんだ。帰っても、居場所がないし」
 主任のため息に、言葉が混ざっていた。カップのコーヒーを空けてまたお替りして、また何度もため息をついた。娘が父親を避ける年頃になってきて家族の中で男一人だけで孤独だと、ため息の中で主任はつぶやいた。
 重ねられるため息の重さに時間さえもその流れを妨げられたかのようだったが、それでもいつしか時間は過ぎ、そろそろ帰宅の心配をするべき頃になって、ようやく主任は重い腰を上げた。
「また、一緒に食事してくれるかな?」
「主任……」
 自分が認める人に認められることは幸福だ。私だってそんな幸福が欲しいと強く思う。だけど……私の直感はさっきと同じく、危ういものを感じていた。目の前に幸福があるのに、さっきは的中したこの直感が身をよじるほどにいやらしくて憎らしくて煩わしかった。乾いた雑巾をしぼるような思いをしてやっと、私は次の声を出すに至った。
「駄目です。それでも主任はお家に帰ってください」
「そうか」
 見るからに肩を落として、主任は私に背を向けた。その後姿に手を伸ばそうとして、私は理由もなく知った。この手が主任に触れれば、私が主任を駄目にしてしまう。幸福をこの手で壊してしまうことになる。私は幸福を手にすることはできないのか。伸ばそうとした手は力を失い、脇へ落ちた。



Copyright © 2009 黒田皐月 / 編集: 短編