第76期 #8

春はめぐる

 血のように赤い着物をひらめかせ、不吉なほどに美しい少女が歩みよる。春の激しい風に、さくらが舞い、その長い髪に纏わりついている。歳のころは十二ばかり。私は桜並木の小川の堤防に腰掛けて、彼女を見上げた。
「兵隊さん、わたしを綺麗とお思いでしょう」
 上から降ってきた言葉と裏腹に、その声音におごりはない。素直に、私が思ったことを言い当ててみた、というだけの、ただそれだけの言葉。
「ええ、お綺麗ですよ」
 ゆるやかに微笑むと、少女はどこか、苦い笑みをうかべて小首を傾げてみせる。
「お父様のおかげなんです」
 こんどは私が首を傾ける番だった。
「お母様は、さしてお美しい方ではないので」
「そう……ですか」
 私は少女をまじまじと見てしまった。少女のきらきらとした瞳は、よくみれば奥にほの暗さを帯びているのだ。
「でも、お父様もちっとも美しくはないわ。わたし、お父様のこどもでもないのです。だからお父さまは人殺しなんだわ」
 私は彼女の話が飲み込めず、あいまいに笑んだ。少女が焦れたように下唇を噛んだ。そのとき、私は胸の奥に、なにか詰めものがあるような感覚にみまわれた。なにか、あるはずなのだ。大切な、何かが……。
「そろそろお暇(いとま)せねばなりませんね」
 口がそう勝手に動き、少女にそう告げていた。少女の目が赤くうるみ、みるみる涙がふくれ、零れおちる。
「兵隊さん、また行かれるの? まえはわたしが微笑みかけたらサヨナラしたわ。そのつぎは、わたしを美しいとおっしゃってから。その次は、わたしを美しいと言ったあと、お母様がお元気か聞いてから……。五度目にお会いしてもこれだけよ」
「あなたとは、初めてお会いしたような気がしますが」
 いいえ、と激しく首を振る彼女を見て、私はもう、思いださねばならない、思い出して伝えねばならないと、私の心ではないような、俯瞰する私の心が告げた。
「お嬢さん、それならばお聞きなさい。あなたはこう思っているのですね。あなたのお父様は、お母様への愛情のあまり、それまで夫であった、ほんとの父を殺して彼女を奪ってしまったと。いいえ、私は、戦争に行きたくなくて自害したのです。あなたのお父様は、そのうえ私の尊厳すら守ろうとし、私の死についてのいっさいを、口止めしてくださったのです」
 それを伝えるために、私はこの世に残り、この世に残りたいがために、真実を忘れた。
 春がめぐれば、愛しい娘に出会うために。



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