第76期 #5

乾燥胎児

もう戻れない。涙は音もなく流れて、見える世界は歪んでいる。叩かれるドアの音に耳を塞ぐ手に力が入る。もう選ぶべき道は一つしかない気がしていた。授業の度に胸が苦しくなる。でも四限目の途中で息も出来なくなった。思わず席を立っていた。足には力が入らなかったが、とにかく教室から出ようとした。呼ぶ声を振りきって、気づいたら階段を降りて、トイレに入ると内側から鍵をかけた。「頑張らなくていい。」そう言ってくれた担任は私がトイレの中にいると気づいてしまったようだ。でも頑張らないと、この学校ではやっていけないんだよ、先生。扉の外の声に私は決して応えなかった。優しい声をどうしてもこれ以上困らせるわけにはいかなくて、泣きながら鍵を開けた。見えなかった、何も。涙で霞んでいただけではなくて、顔を上げることが出来なかったから。もうだめなの。一緒に私を探してくれた先生は私を中庭に連れ出してベンチに座らせてくれた。誰も私を責めたりしなかった。叱りもしなかった。優しさが痛かった。傷に塩を塗るように、心がずきずきと痛んだ。こんなに優しくされても決して私は何も返せない。それがつらくて目を見ることもできなかった。それから私は学校に行くのが怖くなった。スクールバスを無理やり途中で降りてしまうこともあった。階段は苦痛に続いていて、一段上がる度に足は重くなり、呼吸は苦しくなった。喉が渇いて、息が出来なくなる。教室は四階。3階とちょっと昇るとどうしても足が動かなくなった。なんで私はこうなんだろう。どうしてこうなってしまったのだろう。なんで普通に過ごせないのだろう。自分に腹が立った。進めない。戻れない。道は一つ。死。私はそれしか考えられなくなっていた。追い詰められていた。家にも学校にも居場所なんてなかった。頑張らなきゃこの世界では生きていけない。でももう私は頑張り続けてきた。頑張ることにもう嫌になっていた。解決のない道をこれ以上進む方法を私も誰も知らなかった。十七年間の間に頑張っても無駄なことがあると知ってしまった。私は絶望だけを抱いて泣いていた。



Copyright © 2009 Azu / 編集: 短編