第76期 #19
夕日が差し込む教室は茜色に染まり、昼間の喧騒が嘘みたいに静かでよそよそしい。見慣れているはずの黒板が他人行儀な顔をして放課後を見下ろしている。
私の席から、ひとつ左でふたつ前のこの机。
「いいよね」と呟き、椅子を引いて座ってみる。
すると、いつもより少しだけ高い位置で辺りを見渡せた。
「ふうん。こんな感じなんだ」
彼に近づきたくて、同じ目線に自分を置けば、なにかが変わると思った。でも彼の素心までは解らない。
手もとに視線を落とすと、落書きが幾つかあった。ここは彼の時間そのものなのね。ぼんやりと眺めていた机の端に、小さく刻まれた名前をひとつ見つけた。ほんとうに目を凝らして探さなければ見落としてしまうくらいに小さく、その名前は刻まれていた。
「紗希」
見たくなかった名前。いちばん聞きたくなかった名前。幼馴染で唯一の友達。
授業中も昼食時間も、彼はこの名前と一緒なのね。
私は、この憎たらしい名前をぐしゃぐしゃに塗りつぶしてやりたくなった。でも、よく見ると、とても丁寧に書かれている。きっと、想いを籠めて書いたのね。この落書きを汚すことは、なんだか彼自身を辱めるような気がして。手に持った鉛筆は床をころがった。
なにやってんだろ、私……。
振り返り、斜め後ろへ目を向けた。そこは私の居場所。彼からは、こんな感じに映っていたんだなあ。
自分の席を見詰めていると、今日あった様々なことが思いだされてきた。がらんとした教室に再現フィルムが上映され始める。無人の教室に、半透明なイメージだけの人間が行き交う。ふざけあう男子に、ゲラゲラ笑う友達。なにがそんなに可笑しいのかな。暖色系の空気に充ちた教室。なのに、ひとりだけ褪めた瞳をした生徒がいる。それは私。
誰とも話さず独り、もみじの葉をつまみ眺めている。鮮やかな色に染まった葉は、弛んだ指の隙間を滑り、真っ白なノートの上を舞った。どこか、滴り落ちた涙の跡のようにも見える。
それは、流れた私の血そのものだったのかもしれない。
不意に、廊下から足音が響いてきた。
まどろみかけた幻想は粉々に霧散し、慌てて立ち上がろうとしたが足がもつれ思うにまかせない。
振り向くと、ドアの外にアイツが立っていた。
「そこ……俺の席」
とたんに頬が熱くなり、胸の鼓動が跳ね上がる。もう言い訳なんてできない。
私は直視することもできず「さよなら」と、ひとこと残し、教室をとびだした。