第76期 #12

糸電話

伊達さんが遠くへ行ってしまう。それは私の本意ではない。しかし行かないでと縋るのも私の本意ではない。第一、私と伊達さんはそんな関係ではない。
伊達さんは私の働いているバーの店長だった。伊達さんは自分のことを多く語らない。というより私は伊達さんのことをまるで知らない。ただ、伊達さんと私は、何かで繋がっていると思う。いや、繋がっているというのは嘘だ。例えば伊達さんと私が片方ずつ糸電話を持っていて、気が向いたときに伊達さんはそれを手にする。私はそれにいつでも答える。
そんなことを言うと私が伊達さんのことを好きなようなのだが、それは全く違うのだ。正しく言えば「好きと勘違いしていた」のだ。
勘違いは肉体関係からだ。伊達さんと寝たのは暑い夏のことだった。私と伊達さんは仕事の後、始発を待つ間に店で酒に手を出していた。二人きりだった。店内は無音。時折伊達さんのロックの氷がカランと鳴った。
私は酔っていた。でも理性はあった。悪戯心が働いて、伊達さんの肩にもたれて「手相見てあげますよ」と右手を取った。伊達さんは明らかに嫌そうな顔をして「それって女の子が男にボディタッチして喜ばそうっていう常套手段」と言った。それから「手相なら左手だよ」と笑った。その後伊達さんは「早く脱いだら?」と言って私の顎を持ち上げ「やりたいんでしょ」と意地悪な顔をした。
ソファの上で遊戯した後、私は伊達さんに「好き」の気持ちを持った。それも、偽者の。伊達さんは靡かない。暖簾に腕押し、とはこのことだろう。私は一人相撲をとっていたのだ。はっけよい、のこったのこった。一人ぼっちの土俵。
「恵子ちゃんは、もっと大人になった方がいい」
秋が来る頃、伊達さんは言った。
「空気読んでよ」
私はあれやこれや言い返した。私だって大人です、空気くらい読んでます、私のどこが駄目ですか、私だってもう26歳なんです。
「頭の中は16歳だね」
伊達さんはそう言うと、
「俺が恵子ちゃんの気持ち面倒くさいって思ってるって気付いてる?」
ショックなりに、それから考えて悟った事。私は伊達さんへの気持ちを脳内消去した。好きではない。嫌いではない。ただ「気ままな相手」。
楽だった。そうやって、平行線上で生きることが。今までの気持ちが馬鹿らしくなった。
伊達さんは明日アメリカへ行く。私は伊達さんの居なくなったバーで働き続ける。そう、それだけ。
ただ、伊達さん。
糸電話、まだ繋がっていますか?



Copyright © 2009 森下萬依 / 編集: 短編