第75期 #5
顰め面のオフィス街に時折開く笑窪の様な小ぢんまりとしたカフェで、午の微睡に抱かれながら、私はS子を待っていた。狭い店内は中央に向かって急傾斜しており、客達は傾いたテーブルと椅子にしがみ付いて時間を過ごす。床が平らかになると、街は次第に戦場の如き慌しさを帯びていく。私は塹壕に身を潜めて、戦場に鳴り止まぬ銃声に怯えていた。致命傷を負った友が隣で、譫言の様に恋人の名を幾度か呟いて事切れた。止め処無く垂れ流されるその譫言は、私の右斜め前に座す四十恰好の女二人の、自動機械ばりに開閉する顎関節から出来していた。と、螺子が緩んだのか、背を向けている女の下顎部がテーブルで跳ねてから向かいの女の足許へ落ちた。顎の無い相手と対峙する女は石像と見紛う程冷然たる面持ちであり、疾風舞う大通りに居並ぶ石像群のその横顔に窓ガラス一枚向こう見惚れながら、私はゆったりと過ぎ行く時間を撫でるが如く珈琲を啜った。私の這わせた指に、時間は頬に朱みを湛えて身震いし、水の様にするりと流れ去った。ウェイトレスがアルミポットから注ぎ出すその水が、空になった私のグラスを満たす。蒼白い細面に似合わず、グラスを握る指は太った芋虫の如くに張り詰めていた。五匹の芋虫は彼女の手首を這い降りようとしてテーブルに零れ落ち、薄橙の腹を見せてのた打ち回った。内一匹は珈琲の中へ沈み、忘却の彼方に浮かぶ孤島さながらに、強い毛の生えた頭部を水底から覗かせた。島全体を覆う藻玉の森を劈いて、鳥が一羽、空へ舞い上がった。鮮やかな群青に彩られた胴の先に伸びた長い首を擡げ、遥か地上を見下ろすその顔は、どこかS子に似ていた。S子は私を見とめると、少し浮き上がった後両の翼を畳み、カフェの入口目指し急降下したかと思うと、その圧によって自然開いた薄橙のドアから一陣の疾風よろしく店内に切り入り、そのまま店奥に置かれていた隠れ蓑の鉢を、恰も子の頭を撫でる母の様に柔く揺らして掻き消えた。母は屈んで何も言わず私の頭を撫でてくれたが、私は心内を螺子の様に渦巻かせた顰め面で唯黙立していた。私は足許に転がっていたその螺子を拾い上げ、池へ放り投げた。隣に座っていたS子が、あ、と声を上げた。螺子は羽を休めていた水鳥の横を掠め、水底へと吸い込まれていった。鮮やかな群青の水鳥は静かに面を上げ、S子を凝っと見詰めていた。午の微睡を想わせるS子の横顔には、深い笑窪が刻まれていた。