第75期 #3

東京タワー

 この春、上京することになった。
 それは新たな暮らしに胸を躍らせるようなキラキラしたものではなかった。通訳の勉強をするために留学をしたいという小学生のころからの夢は消えた。
 ぽかぽかとした陽気に包まれた駅のホームには私だけがポツンと立っていた。
 三か月前母さんががんで亡くなり、もともと母子家庭だった私の家はまだ弟と私の二人だけになった。母さんがいない家は妙に広く感じた。アナウンスが流れて、東京行きの列車がホームに到着した。12歳の弟を祖父母の家に預けて私は一人、誰の見送りもなく東京へと向かう列車に乗り込んだ。
 今まで一度も東京へは行ったことがなかったから、東京タワーはひどく高くみえるだろうと私は思っていた。なぜだかわからないけれど、私はそのときもう2度とここに戻ってはこない気がした。それじゃあ何のために高校を中退してまで東京まで行かなくてはならないのかと、よく分からない感覚に囚われていた。今まで感じたことないような変な感じのする感覚だった。
 『自分の好きなように生きなさい』。自分の死を告げるかのように、青白くなった顔で必死に笑いながら母さんは息をひきとった。それはとても静かで、母さんはまるでおやすみ、と寝るかのようだった。人が生まれてくるには大変な時間と力がいるのに、消えていくのはあっけないんだな、と私は拍子抜けした。
 ただそのとき、頭の中にあった母さんとの記憶が一瞬で消えて、思い出に変わっていく気がした。タイヤからシューッと空気が抜けていくみたいに体中の空気がぬけて、人間じゃなくなっていく気がした。
 人は何のために生きるのだろうか。
 そして、私はどうして今ここにいるのか。
 毎日大切な人が隣にいて、温かい布団で寝て、たまにはおいしいものを食べて、私の好きだと思うことをして生きていればいい。ただ人が生きるのに理由はいらなくて、人は、私は、幸せになりたいだけなのだ。
 失うものなどない。失くして困るものなんてないと思っていた。
 私はこの春、大きなものを二つも失くした。
 ふいに携帯電話を覗きこむ。もちろん着信履歴も新着メールもない。孤独になったときひとは、誰かを求めたくなる。
 窓から見える桜が満開で嫌になるほど外は眩しくて、少しだけこれからの生活に期待したくなる。私はどうやって明日を生きていくのだろう。
 外には無数の桜の花びらで霞んだ、東京タワーが見えた。



Copyright © 2008 暮林琴里 / 編集: 短編