第75期 #26
古ぼけたマンションの一室の扉を開けた途端に、ひどく香ばしい空気がどっと溢れ出てきた。
「危ないとこだな遅刻魔タカハシ。もうちょっとで年が明けるところだったぞ」
その声に、悪い、と苦笑しながら頭を下げた。
そしてすぐ匂いについて尋ねようとしたが、それを遮ってさらに言葉が続けられる。
「おい、ついに会に新メンバーが来たぞ。奥で会長と料理をしている」
そう言って彼は道を空けるように壁際に寄った。部屋の真ん中には畳が二枚並べられており、その上にはなんとコタツが載っている。
軽い驚きに足が止まるが、それよりも新人とこの匂いが重要だと奥に進む。
台所では会長と見知らぬ青年が鍋をかき混ぜていた。声をかけると、青年は右手を一瞬差し出しかけたが、それを引っ込めてぺこりと頭を下げる。
「初めまして、サトウです。オノ会長の紹介で来ました」
爽やかな笑顔を浮かべた彼に、歓迎するよとお辞儀を返した。
「いや安心した。タカハシが気に入らなかったらどうしようと思っていたんだ。なにしろ彼で最後だからな」
会長の言葉を耳にしつつも、匂いへの好奇心を抑えきれずに鍋を覗き込んだ。
「味噌汁か!」
「ご名答。サトウは味噌を持っていたんだ。世界で唯一の貴重品だぞ」
青年は、祖母からの直伝です、と微笑んできた。
「さあできたぞ。ほら、お前も畳に上がってコタツにつけ。どっちも俺の手作りだぞ」
部屋に戻り、畳の前で慎重に靴を脱いで、コタツに足を潜り込ませた。会長が味噌汁を四つの木彫りの椀に分けて、天板の上へと置く。
「もうすぐ年が明けるな」
こう呟くと他のみんなも畳へと上がり、四人がぴったりとコタツに収まった。
「ところで、彼が本当に最後なのか?」
そう尋ねると会長は、ため息と共に深く頷いた。
「調査機関に全世界で照会してもらったけど、サトウが正真正銘の最後だった」
その言葉で部屋の空気が重くなった。何も悪くないサトウがすみませんと謝る。それを見て、全員の顔に笑みが戻った。
やがて部屋の外から、新年へのカウントダウンが聞こえてくる。
「さあ、もうすぐだ」
ゼロ、という声が聞こえると同時に、コタツの四人はみそ汁の碗を掲げた。
『今は亡き祖国に』
そう、全員が唱和した。
外では新世紀の訪れを祝う歓声に続いて、タイムズスクエアからの花火の音が鳴り響いている。
西暦2101年のニューヨークで、最後の日本人達は味噌汁の香りを胸一杯に吸い込んだ。