第75期 #17
何だって気の持ちようだ。生きるか死ぬかだってそうだ。
雪は止んでいるが、寒さで感覚が麻痺している。このまま死ぬかもしれないし、それを望んでこの山へやってきたのも覚えている。でも今は死にたくない。自分のどこにそんな力が残っているのか不思議に思いながら、私は歩き続けた。
気の持ちようでもどうしようもない時もある。五ヶ月前に妻が死んだ。眠れぬ夜が続き、酒に溺れ、何にも手が着かなかった。
そこで比婆山連峰に来た。ヒバゴンを探しに。
見つけるまでは絶対に山を下りないと決めた。本当に気の持ちようで、ヒバゴンを見つけたら妻に会えると思えてきた。だがヒバゴンなんてここ三十年目撃情報もない。どうせ熊か何かの見間違いだ。信じてもいない雪男を探して、私は山へ入った。
要するに死にたかったのだ。比婆山はイザナミの墓らしい。ここは女の墓。おあつらえ向きな舞台だ。おまけにイザナミは黄泉の神。妻の待つ黄泉の国へ誘ってくれるだろう。
いよいよ食糧も尽きた二日前、奇妙な足跡を見つけた。私が知る限り熊とも猿とも違う、奇妙な足跡が雪の中に続いていた。数メートルほどで途絶えてしまったが私は興奮して、足跡の方向へ歩いた。翌日には何かの声を聞いた。近づいている。そう確信して私はさらに歩いた。もう帰り道を失っていた。だが構わず歩いた。
足がもつれて雪の上に倒れた。疲れは感じなかったが、身体が悲鳴を上げていたのだ。
死にたくない、か。
さっき心で叫んだ言葉を、凍てついた唇からはき出してみた。生きたくなったところでもう遅い。立ち上がる力もなければ、遭難しているのだから。
その時、全身に柔らかく何かが触れるのを感じた。顔を上げると、雪が降っていた。
このまま埋もれてしまおうと思った時、前方に違和感を覚えた。よく見るとあの足跡だった。意識するより早く、私は足跡に駆け寄っていた。近くであの鳴き声がして、その方向へ目を凝らした。
いた。
その影は熊というよりゴリラに近く、二本足で歩いていた。私はただ、雪の中で立ちつくしていた。
気の持ちようだ。あの影は私の深層心理が見せた幻だろう。しかしそう考えるのは無粋に思えた。せめて妻が、いや、ヒバゴンが見せた幻とでも思おう。ヒバゴンが見せたヒバゴンの幻。可笑しくて私は笑った。久しぶりに笑った。
山を下りることにした。道などわからないが死にはしないだろう。要は気の持ちようなのだから。