第75期 #12

ありがとう

 会社で大変なミスを犯し多大な損害を与えてしまった亮輔は、死んで詫びようと考えふらふらと道を歩いていた。すると突然後ろから「今にも死にそうな顔をしているな」と声がする。慌てて振り返ると、コートを羽織った見知らぬ男が残念そうな表情で亮輔を眺めていた。
 「これから死にます」とでも顔に出てるのかと、一瞬混乱した亮輔は思わず頬や額を触ったが、そんなバカなと気がつくとムッとして男の正面に立った。男はそれにたじろいだかに見えたが、すぐににやりと笑い口を開く。
「バカだなあ、人生は三万日しかないんだよ。たとえ80年生きたとしてもね。だったら死ぬ気で生きてみろよ」
 何でもお見通しさと言わんばかりの口調に、だんだん腹がたってきた亮輔は「分かったような口をきくな!」と怒鳴ると、男に背を向け予定を変更することなく近くのビルへと歩きだした。

 屋上に到着すると乱暴に靴を脱ぎ、揃えもしないでフェンスによじ登る。
「どいつもこいつも二言目にはバカだのアホだの」
 もう変な邪魔が入るのは御免だった亮輔は、息巻いた勢いでそのまま身を投げた。
 途端に目の前は暗転し、今までの思い出がぐるぐる廻りだす。「これが走馬灯のようにってやつか」と呑気に眺めていたのだが、そこに出てくるのは自分をバカにする同僚や、上司に叱責されて頭を下げる自分の姿ばかりだった。

「俺の人生ってなんだったんだろう」
 このまま最期まで虚しい気持ちで終わるのか。そう諦めかけた時、やっと思い出らしい映像が流れる。
「チャオ!」
 それは全身白い毛で、尾だけ茶色の昔飼っていた犬だった。
「懐かしい……お前と小屋で一緒に寝たこともあったよなぁ」
 幼い頃に思いを馳せる。一人っ子の彼にとってその犬は兄弟も同然だった。
「お前との思い出が最後で本当に良かったよ」
 落下しながら涙が溢れたが、拭うことも出来ぬまま体に衝撃が走る。

「痛っ!!」
 こんな状態でも声が出るんだなと、不思議に思いながら息絶えるのを待っていた。しかし一向に痛みが治まらず恐る恐る目を開けてみると、なぜか自室のベットの下に転がり落ちていたのだった。
「あれ……どうして」
 
 打った頭をさすりながら亮輔が起き上がっている頃、ビルの下にはあの男が居た。そして豪快なくしゃみを一つすると、その拍子でコートから飛び出した茶色のしっぽを慌てて隠しながら、鼻歌まじりにどこかへ消えていった。

 

 



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