第75期 #11
「花筏っていうんですよ」 あ、はいと俺は答える。 白い煙草の煙、満開の花が覆う桜色の天井。その隙間から覗く、空色としか言えない快晴の空。雲。
都会の中にも、川は流れている。車が絶え間無く行き交うバス通りにも、花は咲く。川は何も問題なくコンクリートを流れる。コンクリートに守られた桜の木は毎年見事に花を咲かす。破壊にも似た保護のもと、都会で自然は営んでいる。
俺は煙草を吸いながら、毎日見事なことで有名なその桜並木を散歩する。しばらく歩くと、惨めな姿になった川と桜並木は直角に交わる。
橋から見下ろすと、川の上流にもある桜の木から散った花びらが流れてくる。それを見るのが、好きだった。
「花筏っていうんですよ」 不意に女の声がして、俺はその方向を見る。年は二十代半ばというところか。OL風の女が、隣で川を見ている。
「散った桜の花びらが川に浮かぶ様を筏に例えた春の季語です」
落ち着き払った声で女が話す。
「あ、はい」
それが自分に向けられた言葉と気付き、咄嗟に返事をする。よくみれば、女は質素ながらもそれなりに美人だった。
「知りませんでした。博識ですね」
数年前に禁煙を決め、その決意の証に肌身離さず持ち歩いている携帯灰皿を、初めて使った。
「昨日の天気予報で得た豆知識です」
と、女は微笑んで花筏を見る。
「でも、筏といってもあんな筏に乗ってたらすぐ沈んじゃいますもんね」
「まぁ、そうですね」
何なんだ?この女は?
「いつもね、気になってたんですよ」
「はい?」
一瞬、身構えて、そんなことはないとすぐ考えを打ち消す。
「私、いつもバスに乗ってるんですよ。でも、渋滞してるでしょう?だからバスも動かないんです。もういっそ歩いた方が早いんじゃないと思って」
「結果、どうでした?」
「花筏を見る余裕すらあります。歩いて正解です」
「そうですか」
「では、これで。バスに乗ったのと同じ時間がかかってしまうので」
女が腕時計を見ながら言った。
「それは急いだ方がいい。また…」
「え?」
「いえ、なんでも」
また、会えますかね?
本当はそう言いたかったのだが、それは野暮というもの。
俺は煙草をくわえ、花筏を眺めながら、散歩を続けた。