# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 赤い目 | 立花 プリン | 951 |
2 | いつまでも、貴方のもとに。 | のい | 756 |
3 | マッチ箱より | 藤舟 | 864 |
4 | たまねぎ | アンデッド | 899 |
5 | 魔法使いレイリー・ロット | 八海宵一 | 1000 |
6 | ペプシコーラと死 | 壱カヲル | 1000 |
7 | 雨の日に | 暮林琴里 | 845 |
8 | 蟻 | ヤリータ | 930 |
9 | 無限大はどこまでも | ゆりあやこ | 610 |
10 | 10時5分ちょっと前 | 尚文産商堂 | 766 |
11 | 結して開す | くわず | 1000 |
12 | 擬装☆少女 千字一時物語40 | 黒田皐月 | 1000 |
13 | 雷 | 野田 京介 | 875 |
14 | ゆめ | べっきー | 336 |
15 | 大森ヨシユキの恋 | yasu | 501 |
16 | 夢の中 | euReka | 978 |
17 | 遠い彼女 | スナイダー | 999 |
18 | FUSE | K | 1000 |
19 | ホテルオンザヒル | 田中彼方 | 988 |
20 | レインコート、ゴオゴオ! | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
21 | 犬 | わら | 1000 |
22 | 雨の日 | たこやき | 616 |
23 | 坂のウエの景色 | 芥川ひろむ | 896 |
24 | 白線 | qbc | 1000 |
25 | 虫満ちる地の夢 | えぬじぃ | 1000 |
26 | ケイタイ貴族 | 心水 涼 | 983 |
27 | 蟻と作曲家 | クマの子 | 1000 |
28 | 眼鏡 | 川野 | 1000 |
健二は校庭で飼われている3匹のうさぎの飼育委員をやっていた。学校から一番家が近いという理由で、半ば強引に押し付けられたのである。見ているだけなら可愛いうさぎも、その世話となれば率先して手を挙げる者はいなかった。
健二は小屋の掃除や餌の準備が嫌でたまらなく、なによりあの大きな前歯で噛みつかれはしないかと、気が気ではなかった。うさぎに慣れようと毎日抱いてみようとするのだが、彼らは狭い小屋の中をバタバタ逃げ回りまったく懐かない。そればかりかあの赤い目で健二を見上げながら、ぽろぽろフンをまき散らす始末だった。放課後遊びに行きたいのを我慢して小屋に寄っていた健二は、うさぎ達の態度に心底腹をたてていた。雨の日はドロドロになりながら掃除をしてやり、寒い日は寝床の草を増やしてやったのに、彼らとの距離は一向に縮まらなかったからである。
頭にきた健二はある日の夜、家をこっそり抜け出してうさぎ小屋へと向かった。彼らが居なくなればこの煩わしさから解放されると考えたのだ。小屋に着くと健二はドアを開けたままにして帰路についた。明日の朝になれば一匹残らず逃げているはずだ。そうすればもう彼らの世話をしなくて済む。段々小さくなっていく小屋を尻目にそう思っていた。
しかし歩きだして少し経った頃だった。ピタン、ピタンと背後から小さな音が近づいてくる。
「まさか・・」
はっとして後ろを振り返るとうさぎ達が懸命に健二の後を追って来ていた。まるで僕たちを捨てないでと言っているかのように、まっすぐ健二の元へ走ってきていたのだ。
「ああ・・」
健二は必死なその赤い目を見て声を詰まらせる。急いでうさぎ達の所へ駆け寄りその場にへたり込むと、泣きながら謝った。
「ごめん、ごめん、ごめんよ」
うさぎを抱えるようにして、健二は地面に頭をつけた。うさぎは耳をパタパタさせながら黙ってそれを眺めている。そして安心したように鼻先をむずむずさせていた。
「お前たちは僕を怒ってないのかい?僕が嫌いだったんじゃないのかい?」
うさぎ達の顔を見ながらそう言うと、すり寄ってくる3匹をそっと抱きしめた。
きっと彼らは毎日、健二に言っていたはずだ『いつもありがとう』と。いたずらした時には『ごめんなさい』と。言葉を話せない代わりに、全身で伝えていたのだから『大好きだよ』と。
白い部屋には、私と小鳥がいた。
小鳥は足に怪我をしていて、白い小鳥の足の怪我だけが嘘のように浮いていた、私は小鳥が好きだった、だけれどそれは、かごの小鳥ではない。
「飛んでおいで」
ガチャッ ドアが開く音がした。
「何故逃がしてしまったの?あの小鳥、足を怪我しているからすぐに死んでしまうよ。」彼は首を傾げていた
「どうせ、死んでしまうなら広い空のほうがいいんじゃないかと思って、…駄目だったかしら?」私は少し不安になった。
「いいよ、君の鳥だもの。」彼はニコリとした、でもすぐにしょんぼりと怒られた犬のように「君も自由になりたい?」と俯き私に聞いた、狡いと思った、彼は可愛い、閉じ込めているのは彼だというのに「いいえ、私はここにいるわ。」彼は瞳を輝かせた、日に何度も彼は私にこんな質問をする、いつでも私は同じ答えを返す、彼は子供のようだ
いつだって、不安で私が返す言葉を待っている。
白いベットの上で私は彼に膝枕をする、安心しきっている彼の柔らかな髪を私は撫でた「ふっ…んっ」とまだ子供のように私の上で身じろぐ、16歳の彼は私を閉じ込めている、だけど私は彼が好きだ。
彼に顔を近付けて頬にくちづけた、寝ぼけた彼は開ききらない目で「…何?」と私に聞いてきた、「なんでもないよ」と私が答えると、彼は柔らかく笑った。
チチチッチチッっと私の小鳥が帰ってきて彼の肩にとまった「この子も貴方が好きみたいね」彼は微笑んだ
「そうだ、君の次の誕生日のプレゼントは何が良い?」と突然聞いた、あまりにも真面目に聞いてきた彼の言葉に私は笑った、首を傾げて私を見る彼が可愛くて仕方ないから、「貴方がいてくれるならそれでいいわ」と言ってしまう私は彼に甘いと思う、「…じゃあ、花…花をあげる。」「うん、じゃあ楽しみにしてる。」私はこの次の誕生日で28になる。
マッチ箱より少し大きい象が瞼の下を逆さに歩いていった。それは日の入り直後のうす明るい暗闇の中で僕は疲労困憊して幻を見た。二次関数を「より速く」解くことに僕が意味を見出すはずもなく、何よりも徒労な受験勉強に没頭するのもある意味才能だった。何もしていないのが嫌いだった。何もしていないと死にたくなる。何の意味もない作業より、充実したやりがいのある仕事のほうが比較的いいけれどもそれよりも大切なことは、大変だってことだった。それ以外は割とどうでもいいんだ、どうでもいいんだよ。と象に言うと、象がつぶらな瞳でで語ることは、「そろそろ夕御飯が食べたいわ。」というようなことで、やはり無言のまま、彼女は左睫毛の茂みに消えていった。
「僕が生きていくのは君ほど簡単じゃないんだ。泳ぐのをやめると死んでしまう魚みたいなものなんだ。」と言おうとしたけれど、僕はタイミングを逃した。
僕らの自習室には僕の他にもう一人緑色のロングコートを羽織った女の子が残っていて、僕は彼女が廊下で一人でスキップしているのを見たことがあった。それで僕は少し彼女のことが好きになった。あれは春だったか、窓の外は新緑であふれていた。
「西堀はまだ帰らないの?」
「うん…まだ、もう少し。西村さんは?」
「お腹減ったから帰る。西堀もお腹減らないの?」
「僕もお腹減ってるけど、お腹が減った状態を維持するのが嫌いじゃないからもう少し我慢するよ。」と言いたかったけど変だからやめた。
「ダイエット中なんだよ」
「いやみだったらコロス」
「いやみじゃない」
彼女は帰って行き、僕はひとり残される。単純作業が僕を死への渇望から救ってくれるはずなのにさっきからうまく集中できない。左睫毛の茂みをさっきから象が鼻でつかみ寄せては食い、寄せては食い。している。「おなか一杯になると死にたくなるよね、何もしたくなくなるからね。」
彼女の忘れていった社会科の参考書にはこの目が可愛い象が載っている。アフリカゾウだった。一時は乱獲により絶滅が心配されていたが、保護活動の成功で現在では個体数が増加しているのである。
ピキューン。ピキューン。
光線とその音の数だけ、人類が消える――。
二○××年、彼らは世界中に現れた。
突如として現れた恐怖の権化は、世の中に死と混乱を巻き起こした。
大きい球根のような身体に、人間の手足を生やしただけの謎の生物。腕毛が生えたその手には、未知の光線銃が握られている。
ピキューン。ピキューン。
光線銃が人にむけられ光を放つと、人間はたまねぎになった。
人間が減って、たまねぎが増えた。
ピキューン。ピキューン。
彼らの問答無用で迅速な攻撃は、一切の反撃の隙を与えない。
すね毛の生えた足がいくつもの街を悠々と練り歩けば、たまねぎの個数はどんどんと増していった。
理不尽で不可思議な暴力を前にして、なすすべのない無力な人々は、ただただ逃げまどうしかない。
哀れな子羊達は、もう神に祈るしかなかった。
――そんな中で、勇気ある子羊が、ふと雄叫びをあげた。
「こいつら、食べれるぞー!」
つられて誰ともなく、彼らに抱きつき始めた。
子羊の皮を被っていた狼は、追い詰められてその本性を現し、捨て身で獲物を捕らえていく。
それだけでは飽きたらず、餓えた狼達は増えすぎたたまねぎも食べだした。
同胞やたまねぎが人間に食われているのを見て、彼らはとても怯んだ。
こうして大阪から広がった、一連のたまねぎ食い倒れブーム。神に祈りが通じたのか、狼達のその狼煙は、瞬く間に世界中に広がった。
食べる。食べる。
ある者はカレーに、ある者はスープ或いはシチューに、ある者はグラタンに、ある者はハンバーグにして食べた。
中には和風として肉ジャガや味噌汁、戦場でわざわざ鍋料理に入れて食すグルメもいた。
またある者は、そのまま食らいついた。それはもう、大粒の涙を流しながら。
食べる。食べる。
辛い。苦い。
それでも彼らの攻撃は続き、両者共に犠牲者は増え続けた。
人が減り、たまねぎが増えて、そのたまねぎも合わせて、人々はまた食べ続ける。
その異様な光景に耐えられなくなったのか、彼らはいつの間にか、いずこかへと消え去っていった。
こうして、世界には真の平和が訪れた。
そして、世界中の食料危機は全て解決した。
レイリー・ロットは有名だった。
酒場“愉快なゴブリン亭”の片隅でジンを舐めている彼は、まだかけだしの魔法使いで、冒険の経験はあまり多くはなかったが、知らない者はいなかった。
その理由は、くしゃみだ。
彼はくしゃみをするたびに、途轍もない魔法が使えた。くしゃみの勢いを利用すれば彼はなんでもできた。
ダンジョンの最深部でモンスターに囲まれたときも、レベル100のミミックに襲われたときも一発、くしゅん、で片づいた。
だが、いつもそんな都合よくくしゃみが出るとは限らない。一月前のクエストでは、くしゃみが出ないせいでグリズリーの昼飯になりかけた。
以来、レイリーはコショウのビンを常に持ち歩いている(といっても今度、グリズリーにあったら、自分で塩コショウしてあげようというのではない)。
だが、コショウは値段が高い。かけだしの魔法使いがほいほいと使えるような値段ではなかった。彼はコショウ以外の対策として、常にパンツ一枚の格好で過ごした。
「あんたが、レイリー・ロットだな」
レイリーが顔をあげると、鎧に身を包んだ男が立っていた。一目見て戦士系だとわかる男だった。小さくうなずくと、男は話を続けた。
「仕事を頼みたい。イル氷原の奥にあるという伝説の剣を取りにいく。オレのパーティーに加わってくれ」
男が提示した報酬額は、申し分のないものだった。レイリーはふたたび小さくうなずいた。交渉成立後、鎧の男はいった。
「その格好で行く気か?」
「そうだ」
「服を着たらどうだ」
「……」
「氷原は寒いぞ」
「……」
「風邪をひくぞ」
「……」
「なんとかいったら、どうなんだ?」
「……オレは風邪をひきたいんだ!」
だが、かなしいかな、レイリーは風邪らしい風邪をひいたことがなかった。パンツ一枚でイル氷原にむかっても、彼は元気そのものだった。エリアボス“冬将軍”のところにたどり着いても、鼻水ひとつ垂れてこない。窮地だ。レイリーはやむなくコショウを使うことにした。だが、しかし――、
ふたが凍りついていて、あかない!
レイリーは青ざめた。
一方、そのころ、“愉快なゴブリン亭”。
「あれ? マスター。アイツは? いつもコショウのビンを横に置いてる裸の変態魔法使い」
「レイリーかい? クエストに出かけたよ。今ごろ、イル氷原じゃないかな」
「あの格好でかい? よくやるよ」
くしゅん!
レイリーたちは無事、伝説の剣を手に入れることができた。
私は今ある病院の屋上で、頑張ってフェンスをよじ登っている。
私がこのような状況になった過程を読者に説明したいのだが、正直面倒だ。
さっき遺書代わりに日記を書いたから読んどいてちょうだい。
九月二十八日。真っ白な壁が四方を囲む病室で横になり日記を書いている。あーすごく暇だ。すごく暇だ、と日記に書いてしまっている自分が情けない。
毎日きてくれるのは担当医の鈴木先生だけ。ナマケモノみたいな顔をしている割にテキパキ働く。
十七歳。高校生。夏。一番青春を謳歌するこの時期に病室で一人横になっている私。窓越しに天気が冴え渡り、セミの甲高い声が響く。外から子供達のはしゃぎ声も聞こえる。
「ふふっ」自分を哀れんで笑ってみる。
今私がこんな惨めな状態になった原因は「ペプシコーラ」だ。
入院直後、先生の口から説明された。「炭酸飲料の飲み過ぎで体が衰弱しています。特に骨が」。なーにが骨だ。ペプシコーラごときに私の骨が負けているとでも言いたいのか。畜生が。この軟弱な骨が。
毎日ペプシコーラを飲んでいたら、徐々に体に虚脱感が襲ってきて、ある日立つことも出来なくなってしまった。自業自得と言われれば言い返せない。だってしかたないじゃん、好きなんだもん。
本当に可哀想なのは、むしろペプシコーラだ。ペプシコーラが大好きで飲み過ぎたという原因で屋上から自殺。そしてペプシコーラは十七歳という女の子を自殺に追いやった罪を一生背負っていかなければならないのだ。
「ざまぁ見ろ」
以上がさっき書いた日記だ。感想はあえて聞かない。言わないでちょうだい。
それより今の心境を聞いてくれる?
今は飛び降りる恐怖心より、右手の手首が痛むの。
さっき廊下ですれ違った自販機に殴りかかったことが原因。だってしかたないじゃん。自販機の中からあの憎たらしいペプシコーラが私を見下しているのよ。耐えるに耐え切れなかったわ。
後ろの屋上扉が鈍い音をたてて開く。
げっ、鈴木先生だ。のそのそと歩いてくる。あ、よく見るとナマケモノじゃなくってチンパンジーに似てるかも。
「…私に何か用ですか?」
「この間の精密検査の結果がでました。今日中に退院できそうですよ」
「え?ほんと!?」
「ええ。でもペプシコーラは控え目でおねがいしますよ」
「はーい」
なんかテンションがあがってきた。
さっきの自販機の前を通る時、お金をいれてペプシコーラを買ってやった。
親友のレナちゃんはいつも歌うことと笑うことしかしなかった。友達とケンカしても、先生に怒られても、絶対に涙なんか見せたりしなかった。この部の部長で歌が誰よりも上手で、みんなから頼りにされているレナちゃんは、全然泣いたりしなかった。だから私はひとりで勝手にレナちゃんは強いんだって思い込んでいた。
そう、あれは雨の日だった。三年生には最後になる夏の大会で全国大会に進めなかったことについて先生が長い長い話をした。たった30分だったのに、それが何時間にも感じられた。先生の話が、お経みたいに聞こえた。みんな泣いていた。たいして悲しみも悔しさも湧かないのに、私も何故か泣いていた。
レナちゃんは泣かなかった。ただ一人で先生のほうををスッと見つめ、少しだけ悲しそうな顔をした。
部活動終了のチャイムが鳴って、私たちを校舎の外へと押し出す。レナちゃんは笑顔で「バイバイ」と私に手を振った。私もいつもどおり「バイバイ」と小さく手を振り返した。
校門を抜けると、朝は明るかった空から雨が落ちてきた。まだ夏が終わったばかりなのにかすかにブルッと震えが来た。
傘を忘れて、私は屋根のあるバス停まで一気に走りぬけた。カラフルな傘が通学路には並んでいて、私は無理やり間を通り抜けた。みんなに傘を忘れたことを気づかれたくなかった。
私のほうが先に学校を出たはずなのにバス停にはすでにレナちゃんがいた。雨に混じって、そのときは気付かなかった。
レナちゃんは傘をささないまま、ぽつんと一人で立って、音も立てずに静かに泣いていた。私はその場にいたのに何もできなかった。部長で頼りにされているレナちゃん。そんなのは全部偽物のレナちゃんのように思えた。みんなの悔しさを一番知っているレナちゃんが、あの場で涙を流さずにいられるわけがない。どうしてレナちゃんを強いと思ったのか、そのときの私には分からなかった。
人は決して強くなんかない。レナちゃんは強がっていただけだ。
レナちゃんが泣くのを初めて見た。
ある雨の日のこと。
昔、一人の友達がいた。 彼は一見して陰気な青年だった。 彼は決して声を荒げて話すことはなかったし、笑うこともなかった。 いつも一人だった。 ある日、彼は僕に話しかけてきた。 聞き取りにくいその声から、彼がどうしてだか僕を賞賛し、尊敬しているということがわかった。 僕は適当に頷いた。
その日から、彼は僕について回った。 しかし、当時の僕の頭の中には蟻がわいていた。 手に入る蟻はすべて採集し、それぞれの個体の色彩の微妙な違いに関する「研究」(当時、僕はそう呼んでいた)に夢中だったのだ。 彼は僕に常について回ったものの、蟻の群がりは決して彼に対する関心を許さなかった。
時折、彼は僕に話しかけてきた。 ほんの些細のことだが、彼にとって口を開くのは非常な努力を要するらしく、まるで原稿を読むかのような調子で「今日は天気がいいね」などといってきた。 僕はたまに彼に答えたが、たいてい答えなかった。 それどころではなかった。 ある日彼がいつものようにたどたどしく話しかけていたとき、彼を遮り、僕は彼に「研究」について話した。 彼がそのときにどんな反応をしたかは覚えていない。 しかし、かすかに微笑んだような気がする。
その日から、彼は僕の「研究」にもついてきた。 僕は彼のことについては何とも思ってなかった、ただ役に立つ、その程度のことだった。 実際、名前も知らなかった。
予想に反して彼は優秀な「研究家」だった。 僕が見たことのないような色をもった蟻を見つけることすらあった。 新たな蟻を探すため、遠くの森へ、山へ行くことがあった。 彼はいつもついてきた。
僕らが「研究」をしているとき彼は決して話さなかった。 僕も、何も話さなかった。
頭が蟻から解放される刹那、彼と話すことがあった。 話したといっても、数語を交わせる程度だった。 今となっては、僕らが何を話していたかは何も覚えていない。 記憶するにはあまりに言葉は少なく、僕の記憶は蟻に蝕まれていた。
ある日を境に彼は僕について回らないようになった。 僕は、気づかなかった。 同じように、「研究」を続けていた。
彼が死んだと聞いた。
そのときはじめて僕は彼を愛していたのだと知った。
蟻は消えた。
ひろくんとあやこちゃんは、とっても仲良し、毎日一緒に遊んでいます。どこに行くのもいつも一緒。ある夏の夕暮れ、海辺でひろくんとあやこちゃんが波に乗って遊んでいました。「あやちゃん可愛い。あ、水着が‥。」「‥あ、ありがとう‥。。」プカプカ‥プカプカ‥海に浮かんだり砂浜で遊んだりしていました。しばらくすると砂浜の中からキラキラ光るものが!綺麗な貝殻を発見。「すごいきれい‥なんか8の字になってる!!」するとひろくんが「これは無限大っていう意味なんだ。この形を手に入れた人は幸せになれるんだって。」「すごい、ひろくんって何でも知ってるんだ!これはひろくんにあげる。持ってて。」あやこちゃんは、ひろくんに出逢ったときのように幸せな気分になりました。砂浜からそれぞれの家までは遠いけれど、その日は二人でとっても幸せな気分になって手をつないでかえりました。ひろくんは多忙で連日、てんてこまい。あやこちゃんにかまっている暇なんて、ありません!あやこちゃんのことを思い出すのは、一日のうちで朝ご飯を食べてるときくらいです。あやこちゃんもうちに着いたら仕事がたくさん待ち構えていました。「え〜ん。締切に間に合わない。そうだ!ひろくんの家に行って手伝ってもらおう!」「お願い、ひろくん手伝って。ここ直してくれないかしら?」「え〜イヤだよん。それどころじゃない。ところでちょっと行きたいところがあるんだけど。」To be continued.
プロローグ
少し、さみしい。
あなたが気づいてくれなくて。
でも、それもあなたの好きなところ。
私があなたを好きになった理由の一つ。
あなたが、私を好きかわからないけど、私は……
#彼と彼女#
私があなたに出合ったのは、中学に入学したとき。
同じ部活、同じクラスになった時に、あなたと出会ったそのときから、
私は変わった。
あなたのことを考えるようになったのは、高校に入ってから。
横に来るたびに、胸がドキドキするのが分かる。
だから、部活でどこかに遠征するとき、あなたと一緒にいられるのがうれしかった。
だから、みんなが待ち合わせしたとき、私も一緒にその場にいた。
10時5分ちょっと前。
待ち合わせ場所には、彼以外の人がそろっていた。
私たちは、その場で待った。
10時になった。
ちょうど、彼が来たところだった。
彼は、友人たちと一緒にいた。
私は、そんな彼の後ろを少し離れて歩いていた。
ふと、並木道で立ち止まり、彼の遠くなりゆく背中を見た。
(私って、彼の何なんだろう…友達、なのかな……)
10時5分ちょっと後、私は、彼のことが好きだということに初めて気づいた。
遠くなりゆく彼の背中は、広くて、優しそうだった。
(私に、彼を追いかける勇気ってあるのかな…)
冷静になって考えてみた。
少し経ってから、遠くから見ていただけの私は、突然駆けだした。
「あ、あの!」
彼は振り返った。
私は、一気に言った。
「好きです!ずっと、好きでした!」
彼は、少し迷ってから、答えた。
「…わかった。だったら、付き合おうよ」
彼は、気さくに笑って答えた。
「ほんとに好きだったら、構わないだろ?」
私は、徐々に歪み始める視界の中、何回もうなづくしかなかった。
エピローグ
10時5分ちょっと前、私は彼と待ち合わせをしていた。
そのとき、彼は来た。
「…じゃあ、行こうか」
「うん」
私たちは、横並びになって歩き出した。
N
隆明が家庭へ戻った事に、佑子は特段怒りを覚えはしなかった。彼の妻が事の始終に静観を保っていたのを知り、妻という生物に奇妙に感心し、と同時に、その噎せ返る様な家庭の臭いこそが、隆明との道行きの果てに自身が手にしたかったものだと気づくと、佑子は脱力してベンチに倒れ込んだ。
佑子の前に、小学校二年生位の少年と、その祖父らしき老人が立っていた。少年は何かを強請る様に上目遣いで祖父の様子を窺っていたが、老人は古木の如く佇立し尽くすのみであった。
S
晃は入社三か月目にして漸く初契約に漕ぎ着けた。彼の足掻きの言葉が、一人の人間の全財産を塵に変えたのである。が、それは晃にとって命を長らえる甘露であった。晃も客も、唯渇望していた。二人の溺者が、沈むまいと互いの手を必死に掴んでいた。
晃はコンビニで求めた缶ビールを公園のベンチで開け、祝杯をあげようと思った。ふと横目で見遣ると、初老の男が十歳位の少年を叱っていた。少年は黙って俯き時が過ぎるのを待っているが、男は彼の旋毛辺りを凝視したまま微動だにしないのであった。
W
沙代の左腕は未だ幾分の痺れを残していた。二の腕から手首の辺りにかけて絡みつく百足の様な傷跡と、病室を訪ねて来た男の顔が重なった。大人の男がべそを掻いた様に小さくなっている姿を、彼女は初めて見た。この度は私の不注意で、とか何とか言った彼の言葉は耳に残らなかったが、頭部を覆う包帯の隙間から見た彼の姿は、沙代の眼に焼きついた。そしてその男に呼ばれ、彼女は公園まで来た。何故誘いに乗ったのかわからなかった。だが残された傷を見ても、沙代はもう何も想わなくなっていた。
沙代が入口から公園の中を窺うと、一人の少年に、男が話し掛けているのが見えた。少年は何かを固辞している様であったが、男は尚も言葉を選んで、彼の心内を探ろうとしていた。
E
敏也の携帯電話は、先程から鳴り通しであった。が、その問い掛けに応えようとはせず、小刻みに震え続けるパンツのポケットに右掌を静かに乗せるだけで、街並みを食む夕陽に自身も呑み込まれようとしていた。
彼の視界に、紫の影が二つ揺らいでいたが、逆光の所為で模糊としていた。
M
青春を蝕まれた九歳の少年は、知らせの絶えて久しい母の面影を街行く人々に重ね、人間を蝕まれた老人は、輪郭の融解した物共に囲まれ、ジャージの尻に縫い付けられた、自身の氏名や連絡先の書かれた布の辺りを一心に掻いていた。
十一月二十七日、午後四時。僕は暖色系の装いで、すでにほとんど葉の落ちた街路樹の下にいた。紅葉が美しいと言われるのはなぜか、わからずにいた。春に芽吹き、夏に茂り、秋に散る葉。春に目覚め、夏に盛んだった僕の女装趣味もまた、何も得ることのないまま、老いた葉のように散ってしまうだけなのだろうか。
ボーイッシュ系から始めた。フェミニン系にも手を伸ばした。コスプレなんかもやった。楽しんでいたことは、今でも覚えている。しかし何が楽しかったのか、思い出せない。そして何ができたのかというと、思い当たるものは何もない。今もただ街路樹の下にいるだけで、何も起きておらず、何かを起こそうともしていない。
夕刻には肌寒い、重ね着の工夫がいろいろ試せる季節になったのにもかかわらず、僕はめっきり洋服を新調しなくなっていた。何のため?、道端に落ち葉が重なるたびに切なさが募った。誰のため?、叫び出したい気持ちを堰き止めるのはもう限界だった。大きく息を吸って吐き出そうとした刹那、ひとつの視線が僕を刺した。吸った息は意外の感に打たれて行き場を狂わされ、僕は大きく咳きこんだ。
「女々しいところにはお似合いなんだが」
細く鋭い目の男は、こんなところで発狂されても困る、と言い放った。
「僕はもう、狂ってるんです」
何が、と男はいぶかしむ視線を放った。美形が凄むと怖いというのは本当だ。見ればおわかりでしょう、と僕は敬語で言わざるをえなかった。男は、それか、と口の端だけで笑った。
「そういうのはファッションって言うんだ。自己主張のひとつに過ぎない」
簡単な言葉で片付けられたことに、感謝と憎悪が並び起こった。
「僕は、どうですか?」
この問いは、そのどちらから出たものだろうか。
「自分で言ったとおりだ。狂っている」
自分がわからずにしている奇行などに意味はない、と男は冷たく答えた。僕は先の感情が自分を言い当てられたことによるものだったと知った。僕がお礼を言うと、男は言うべきことは終わったとばかりに、じゃあな、と投げつけてきた。
「さようなら」
それは自分の女装趣味への別れの挨拶でもあった。その声が風を呼んだのか、街路樹から最後の一葉が音もなく枝を離れた。来年の春を待ち、街路樹は眠りにつく。僕も眠くなってきた。家に帰り寝間着に着替えて、転がるように布団に入った。またがんばるために今は眠ろう、それだけを思い僕は夢へと落ちていった。
ある夏の日のことだった。 啓と呼ばれる少年は今日も父の車に乗って病院に向かっていた。病院に通っていたものの退屈な日々を繰り返していた。その日は雷が鳴りそうな天気で早く帰りたいという気持ちもあったのだろう。外から見える病院では殺風景な景色があり、どこか少し息苦しい感じがした。
病室に着き、一緒に車に乗ってきた父が母に声をかけた。
「大丈夫か?」と。母は「うん。」とうなずいたが、心なしか日に日に声が弱まっていくのが幼いながらに啓は感じていた。
その日の夜、祖母の家に一本の電話がかかってきた。
「もう虫の息だそうだ。」
母の容体が急変し、現在はいつ死んでもおかしくないということが父と祖母の言葉から啓は察していた。 啓はこのときなんとも言い難い複雑な心境に直面することとなった。
雷が鳴っており、その言葉を聞いていたのは布団の中であったため聞こえないふりをしていた。身近な人物の死を直面することになるかもしれないという感じたこともない悲愴感を感じていた。
翌朝祖母から母の死の知らせを聞いた。不思議とこの時は妙にすっきりとした気持ちを持っていた。啓なりに大人になったのである。たださすがに親族と共に母の姿を見たときは啓も抑えることができなかった。祖父に「男は我慢しろ。」と怒られたのである。
兄が我慢していたため、啓も我慢したい気持ちはあったのだろう。ただこのときばかりは
悲しい気持ちがあるのかは分からないが、先に体が反応していて啓自身はどうすることもできなかったのである。 ずっしり濡れたハンカチを握りしめながら啓は母との別れを告げた。
啓は今でも大事な日の朝は母の墓前を訪れることにしている。幼い頃母と一緒に過ごした記憶は多くはないが、それでも啓にとっては何ものにも変えがたい記憶として残っている。啓は家族とはいつも触れあうことを忘れず笑顔を絶やさないように心がけているようだ。悲しいときは突然現れる事もあることを学んだからだ。
「家族みんなで仲良く生きていこう。」妻や子供達に恥ずかしながらもなかなか言えない気持ちをいつか言えるようになりたいと思っている。
遊園地みたいなところで、さまざまなアトラクションがあって、ぼーっとしてたら、迷子になった気がしてきて、大きな声で誰かを呼ばなきゃいけないような気がして、そういえば大きな声って何だっけ、とか考えてたら夕方になっている。変なおじさんが、うさんくさいこと言いながら近づいてきて、僕は彼を値踏みする。となりに、大きな声で叫んでる人とか、大きな声で叫んでるようなふりをしてる人がいる。
音楽がなり始める。ずっと前から鳴っていたのかな、ってとんちんかんなことを変なおじさんに言ったら、音楽が始まる時間は決まっているんだって言う。コミュニケーション取れてない。音楽に飲み込まれて目の前がぼやけてくる。頭も痛い。そしてそんな自分にニヤリと笑いかける人がいる。どういう顔していいかわからない
大森くんは社内ではイケメンで通ってるらしい。“タッキー”と呼ばれてるとか。僕には“キモかわいい”芸人の片方にしか見えないのだが。
「全然関係ない話なんですけど」と、納品が終わった大森くんが話しかけてきた。いつもはエロいDVDを買った話や、休んでばかりいる同僚のひとみちゃんの愚痴なんだが今日は何やら目が真剣だ。
聞いてみると大学のサークルの後輩にタイプの子がいるという。OGとして何度か飲み会に出ていて目を付けたらしい。誘ったのか聞いてみると食事には行ったがこれからどうすればいいか考えてるみたいだ。
「告白してもいいですかね?」
中学生じゃないんだから…
何度かデートをして、自然な形で「僕たち付き合ってるんだよね?」って言ってみろ。彼女は首を縦に振るはずだ。
大森くんは足早に営業所に戻っていった。受領伝票を忘れたまま。
「全然関係ない話なんですけど」いつも以上に“キモい”笑顔で大森くんは話し出した。あれからお台場に行き、水族館に行き、ディズニーシーに行ったそうだ。昨日帰り際に駅で言われたように言ってみたら即OK。嬉しくてその場でキスしたってさ。
さらに“キモい”笑顔を全開にして
「いいラブホテル知りません?」
真夜中、電話のベルが狂ったように鳴った。200回ほどベルが鳴ったあと、僕は目をこすりながら電話に出た。
「ついさっき夢の中で会った者だが」と電話の向こうから男の声は言った。「あんた、どうして俺のこと殴ったんだ? 酷いじゃないか!」
僕は男が何を言いたいのかよく分からなかったが、もう一度同じ言葉を聞き直すのもめんどうだと思った。
「多分、人違いだね」と僕は言った。「僕は誰も殴ってないし、ここ半年夢は見ていない。失礼」
僕は受話器を置いてベッドにもぐりこんだ。
しかし5分ほどするとまた電話が鳴った。僕は目を閉じたまま受話器を取って耳に当てた。すると今度は女の声が聞こえた。
「さっき夢の中で会った女よ。明日、あなた暇かしら」
僕は一度大きなあくびをした。「悪いけど、君たちのゲームには付き合ってられないんだ」と僕は受話器に向かって言った。「せいぜい、いい夢でも見てくれ」
電話を切ると、僕は朝まで眠った。
次の日、僕は目が覚めると仕事へ出かけた。仕事をしながら僕は昨夜のことをふと思い出した。でも仕事が終わる頃になると、僕は電話のことを忘れていた。会社を出ると空に夕やけが見えた。家へ帰ろうと歩きだしたとき、ふいに誰かが僕の腕を掴んだ。
「昨夜の電話、覚えてるよな?」とその男は僕の腕を掴みながら言った。もう片方の手には拳銃が握られていた。「俺は、あんたがどうしても気に入らないんだ。ちょっと付き合ってもらおうか」
僕は背中に拳銃を突き付けられながら路地裏へ連れて行かれた。薄暗い路地裏でゴミをあさっている野良犬を見つけると、男は足で蹴飛ばして追い払った。
「さあ止まるんだ!」と男は僕に言った。「そのまま動くなよ。また、夢で会おうぜ…」
男が黙った瞬間、路地裏に銃声が響いた。男は拳銃を手に持ったまま力なく地面に倒れた。男の背後には、拳銃を構えた女の姿が見えた。
「危なかったわね」と女は笑顔で言った。「早く逃げましょう。見つかると厄介だわ」
僕と女は路地裏を出ると、まるで散歩でもするように夕暮れの街を歩いた。
「あなたって勝手よ」と女は僕の隣を歩きながら言った。「夢の中の出来事をすぐに忘れてしまうんだもの」
僕は、夢の中で何があったのか女に尋ねた。
すると女は言った。「教えない。知っても意味がないわ。あなたは、忘れたいから忘れたの。ただそれだけのことよ…」
「好きな子って、いる?」
同級生が、唐突に俺に話しかけてきた。
こいつとは普段それほど仲が良いわけではない。ましてそんな腹を割った話をするような間柄とは到底思えない。
だが、こんな話しかけ方をするのも無理は無いと思う。なにせ現在は修学旅行中、そしてこの話題は最もポピュラーなものと言える。
そんな特殊な状況も手伝って、特別親しくない俺にもそんなことを聞きに来たのだろう。
ここで、俺に正直に答える義理など無かった。
適当に受け流せばよかった。こいつは俺がそんなに真剣な答えをすることを望んではいないだろう。
そして、そんな打算を抜きにしても、こいつに答える名前を俺は持ち合わせていない。
別に、いない。そう言いかけたが、どうしても声に出すことができない。
──脳裏に、どうしても彼女の姿が浮かんできて。
あの、笑顔。あの、無垢な笑い声。どんなに嫌な目にあっても、決して歪むことの無かった強い心。そして、死の瞬間に見せた、微妙な表情。
もうずっと姿を見ていないのに、彼女の姿は俺の頭から離れる事はなかった。
彼女は、確かに俺の中で生きていた。だが、事実として彼にとってはいない人間なのだ。そんなことをここで言っても空気が重くなるだけだ。ここではいないと言うのが模範解答だ。
だが、脳で出した結論に、俺の体はかたくなに逆らっていた。
そして、勝手に口は動いた。俺の意志に逆らって。
「いるよ」
同級生は、驚いた。真偽に関わらず、俺が否定することを予想していたのだろう。が、その様子もせいぜい1秒ほどで収まり、俄然好奇心を発揮しながら聞いてきた。
「何? 誰? うちの学年か?」
ここまで来たら、特別気を使うこともない。正直に話してやろう。
「いや、会えないんだ。俺がどんなに願っても……」
俺の返答を聞き、同級生は、目を丸くしている。当然だ。普通こんな解答が返ってくるとは思わない。
「それって……つまり……?」
俺は、すぐに答えた。
「俺たちとは、違う世界にいるってことさ」
「……そうか」
「そう、あっちの世界にな」
俺は、そう言って、ホテルにあったパソコンを指差した。
もう修学旅行も4日目だ。4日も家に帰れないなんて…。早く帰ってパソコンを立ち上げたい。
それにしても彼女の死のシーンは本当に泣けたな。帰ったらDVDを見直そう。
俺は、先ほどよりも更に目を丸くしている同級生を尻目に、そんなことを思っていた。
近鉄難波駅から奈良にむかって運行する電車が、布施駅に停車したとき頭にきょうれつな電撃を食らったように感じた。駅名の看板にローマ字のルビで「FUSE」とふってある。おれは身体が内部から押し出されるように人のすきまをぬってホームに降りた。頭の裡はしばらく熱に浮かされたような按配で、高架上のホームからあたりにならび立つビルや工場を漠然とながめていた。
数十メートルの長さのホームをいったりきたりしながら、もっぱらおれの関心はここが「布施」なのか「FUSE」なのかという問題だった。このふたつのどちらなのかと往復をくりかえしているうちに、そもそもおれはここをどちらと認識していたのだろうと、更に頭の中を攪拌するような混乱が生じはじめる。高架にながく伸びる左右の線路は、ここでふたつの茶色い線が交わってどろどろと溶け出しているようだった。
ふたつのどちらとも決定できないまま、しだいにおれの歩いているホームが畸形の怪物に見えてくる。これは、電車を迎え入れるホームなのか、コンクリートなのか、それともそれ以外の灰色の何かなのか、靴底から足の裏に伝わる感触は居心地がわるかった。
目的の駅からはほど遠い下車だったが、おれは階段を降りて改札口にむかった。いっこくも早く確かめねばならなかった。
駅員は改札横の窓口から顔を出し、あくびをついていた。息を切らしながらおれは一直線に駆けた。
「ここはどこですか?」
駅員は呆気にとられたような顔になり、ひざに両手をついて肩で息をするおれをいぶかしげにながめた。
「ええと、ここは布施駅です」
布施駅と大きく書かれた吊り看板を指差しながら駅員はこたえた。しかしそこにも「FUSE」とルビがふってあった。
「それは、どちらの? 漢字の布施か、ローマ字のFUSEか?」
「え、どういうことですか?」
だんだん気味悪げな見る目にかわっていく駅員に、おれは何といっていいかわからず、堪らなくなって切符を改札に通して構内から外に走り出た。
愕然とした。自動車がエンジンを呻らせながら列を成し、駅前のデパートが恐ろしい迫力で屹立するそこは、おれの見たこともない街にかわっていた。信号待ちをする人々の気の抜けた横顔は残酷にまっすぐ前を見ていた。「布施」と「FUSE」は蕩けてもはやどちらも消えうせ、次から次に襲いかかる吐き気と恐怖に耐えながら、おれは縮こまって目をとじ耳をふさぐしかなかった。
丘の上に建つそのホテルは五年前に造られた。そして、三年前に経営を辞めてしまった。
経営者の不幸だとも、客の自殺が原因だとも、暫くはこの小さな村で話題に事欠くことはなかった。
私の家族は代々丘の下にある猫の額程の日当たりの悪い土地に住んでいる。私の父が丘の上から飛び降りた所為だろう。容貌悪い一人娘である私には始終悪い噂が立ち、結婚せずに私の代で一族は廃れるのだろうと常々思っていた。それで構わなぬとも。
夜の獣道は名前の通りで何も見えぬ程暗く、道と砂利の境界は皆目見当がつかなかったが、何とか私は丘の上に着くと、廃ホテルの裏口に備わっている金属製の蛇口を捻り、持参したバケツを水で一杯にした。
ホテルが経営を辞めてからは土地柄もあり、丘の下に住む私達以外は丘の上には行かぬようになった。内向的だった私が貯めた鬱憤を発散するには、母は余りにも草臥れていて、丘の上のホテルは恰好の遊び場になった。内装は大方そのままで、少し気味悪いのを我慢すれば自由に使える。水道水がまだ通っていることを見つけたのは随分経ってからだったが、泥の混じる井戸水に我慢していた母は、勿論私に水汲み係を命じた。
私達母娘だけのこのホテルには、誰かが居るのかもしれない。時折、私はそう思う。いつも、無人にしては余りにも小綺麗で、生活感が溢れている。それに三階の端の部屋の窓に、人の影を見た気がしたこともある。
‥‥そういえば、私は一度もその部屋に入ったことがなかった。
バケツを玄関に置くと、私は三階に行くことにした。慣れているから、蝋燭を灯す必要はない。
蝶番が大分錆びていて苦労した。ロビーに置いてあった鍵を嵌め、凭れるようにして押すと、ぎしぎしと何かの擦れる音がして、そのドアは何年か振りに開いた。
一瞬、光が眩しい気がしたが、部屋はやはり無人だった。眼が慣れると、窓際に並ぶ二つの鏡が月光を反射しているのだと分かった。至って普通の内装と調度品。気になるのは、いつもは閉まっている窓が半開きになっていることくらいだろう。
所詮、寂れた廃屋。もしかしたらと、疾うに死んだ父と遭うことを期待していた私は愚者だったと思い知る。
私は帰ることにした。母が待っている。
小棚に小さな写真が置いてある。見知らぬ女の微笑。父の最期を見届けたあの女の面影に少し似ているような気もする。どこかでバケツの倒れる音がした。
雨音を聴きながら客を待つのも悪くないな、と谷口が思っているところ、ラッパの音が聞える。
(珍しいな、この時代に)
窓越しにみると、チンドン屋がレインコートを羽織って行進している。
(ミドルマーチか)
雷鳴が響きはじめた秋の昼下りに不思議だなあ、と興味をもったが、営業中である。マッサージを受けに来た客のBGMがラッパじゃ申し訳ないと思い、シェーンベルグ「月に憑かれたピエロ」をかける。
谷口は木製の回転椅子の具合をチェックし、ゴムシートを艶拭きして準備万端とした。予約まで二時間。休憩部屋のコンロで焼き飯をつくることにする。
食材はご飯と卵とハムしかない。谷口は昔、京橋の洋食屋で働いていたことを思い出す――焼き飯は具で勝負するものではないのだよ。
店が西の方に移転するときに貰ったフライパン。今は谷口の右腕の一部である。
(さあ舞うのだ!)
まもなくドアが開いた。古田さんだ。
「ごめんなさい、予約より早いんだけど」
「かまいませんよ、雨ひどかったでしょう」
「ありがとう、外で三島由紀夫似のお兄さんからゴオゴオへ行きませんかと声かけられたわ」
「ゴオゴオですか……えーと、足の方でよろしかったですか」
「ええ」
「では裸足でおかけください」
古田さんは施術中に本が読めるので、ここが気に入っていた。場所が「洗足」にあるのも、駄洒落のようだと思った。この日はブローティガン「東京モンタナ急行」を久しぶりに読み返すべく持ってきていた。不思議なことにさっきから香ばしい匂いがしていてお腹が空いてくるのだった。
谷口は早速、仕事に取りかかる。ふくらはぎは大骨一個なのに、足首から指先までには舟状骨や立方骨といった小骨が七個もある。この小骨が人間の全身を支えている、と思うたびに谷口は軽く興奮する。骨を一個ずつ確認しながら肉に触れ、しこりを揉み、叩き、ひねり、しごく。親指は頭、土踏まずは腰、踵は下半身。内側は臓器。それぞれ適応するツボが集まっている。頭がこっているらしいと谷口は古田さんを診断する。ちらりと本の装釘をみると谷口も持っている本だった。
(兎を集める男の話があったな)
いつのまにかBGMは終って再びラッパが響いている。
「お腹すいちゃったわ」
谷口も腹が減っていた。まさか自分の焼き飯を提供するわけにもいかない。客用に酉の市で買った切山椒を勧めようと思って
「焼き飯はいかがです」
と言い違え、さすがに赤面した。
犬を飼った。血統書付きのケルベロスだ。向かって左の無愛想な頭を惣二郎、真ん中の人なつこいのを惣一郎、右のすぐ寝るのを惣三郎と名付けた。名前の由来は俺の好きな漫画だが、俺が恋い焦がれている相手は未亡人ではない。幼なじみの紗弥だ。
紗弥は毎日犬と散歩に行く。紗弥とは高校が別になり疎遠になってしまったが、犬の散歩にかこつければまた会える。だから飼った。
犬を連れて紗弥の家に向かった。紗弥は家を出たところだった。
「犬飼ったんだよ」
「へぇ」
意外にも冷淡な反応だった。
「珍しいでしょ。ケルベロスだよ」
会話を繋ごうと俺は焦った。
「頭が多いからってそんなにいいのかな。行こ、エリザ」
紗弥は不機嫌そうに言うとリードを引っ張った。惣二郎に尻の匂いを嗅がれていた柴犬は、引っ張られるままに歩き出した。
俺は数歩後に続いた。会話もないまま気まずい散歩は終わり、翌日から紗弥には会わなかった。散歩の時間をずらされたのだろうか。
一ヶ月が過ぎた。飼い始めた動機が不純だったので、散歩は不定期になっていた。庭でストレスの溜まった惣二郎に手を噛まれ、叱ると総一郎が悲しげに鳴き、惣三郎はあくびをした。
「こら、いじめちゃダメでしょ」
声に振り向くと、夕日を背に紗弥が立っていた。
「久しぶり、元気だった?」
俺が駆け寄ると紗弥は俯いた。
「エリザがね、死んじゃったの」
俺は気の毒に思いながらも、紗弥に会わなかった理由を知って安堵した。
「ずっと泣いてたんだけどね、パパがまた買ってきてくれたのよ」
紗弥は顔を上げた。俺の好きな笑顔だった。
「待っててね、繋いであるの」
紗弥は門まで駆けていき、犬を連れて戻ってきた。
「ほら、ベスよ」
紗弥の後ろからトコトコとついてきた犬には、賢そうな頭が五つ乗っていた。
「ケルベロスとオルトロスの雑種なの。すっごいでしょ」
自慢気な紗弥の顔を見て俺は気づいた。あの日は俺が珍しい犬を連れていたのが気にくわなかったのか。
「頭五つよ。私の勝ちね」
そう言った紗弥の笑顔は、小さい頃ゲームで俺を負かした時と変わっていなかった。俺を異性として見ていない。彼女に恋をするにはまだ早すぎたらしい。
「今から行くとこでしょ、一緒に行こう」
紗弥は俺の手を掴んだ。幼なじみのままも悪くないと思った。
見下ろすと惣二郎がベスの尻の匂いを嗅いでいた。ベスは嫌がって控えめに吠えた。五つの「わん」が夕暮れの街に響いた。
太陽にこの身が焼かれるようで、僕は晴れの日が好きになれなかった。その日も、外から雨粒が屋根をたたく音が聞こえてこなければカーテンを開けずに過ごそうと決めていた。
タンタンシャラシャラと屋根がうるさくて、早めに起きてしまった僕はカーテンに手をかけた。
雲に遮られた太陽はまだ地平線の近くをうろついている。
「早く起きすぎたな。」
小さくつぶやいて、それからしばらく、久しぶりに窓からの風景を楽しむ事にした。
ザーザーと雨はやむ気配がない。しばらくぼんやりと雨が作るストライプを眺めていた。
「キャハハ!」外から物音が聞こえ、慌てて窓から2,3歩離れる。
カポカポと楽しそうに長靴を鳴らしながら、小さな子供が一人、窓の前を通り過ぎた。まだ走ることを覚えたばかりなのか、トテトテと不安定にその体を動かしている。この子の笑い声だったのか。かわいい笑顔だ。食べちゃいたいくらいに。
あ、危ない。
ズシャッ
走ることにまだ慣れてない体は、楽しさについて行けなかった。笑顔がじわじわと泣き顔に変わる。すりむいて膝から血もにじんでる。大丈夫かな。僕はつばを飲み込んだ。
泣き顔になっても、その子は泣かなかった。泣かずにまた走り出してどこかへ消えた。しばらく窓の前で待っていたが、お母さんは通らなかった。
あたりはだんだんと暗くなってきた。
あの子はどこに行ったかな。探さなきゃ。
あたりは暗くなった。僕の一日が始まる。
僕は吸血鬼。朝ご飯は食べちゃいたいくらいにかわいいあの子。
父さんが自慢した。「おいの作る豆腐は一番旨い」夕飯には必ず豆腐が食卓にある。
物心つかない頃にはとても不思議だった。
もっとも、幼いから理由も判らず豆腐の旨さも判らない。
それでも食べ物も毎日食卓に登場すると、それだけで不快な気分になってくるものだ。
小学校も三年生になると、父さんの豆腐が憂鬱になった。毎日自慢の豆腐は売れ残っていて、毎晩食卓にまわっているのだ。子供ながらに判ってきた。結局、残飯整理ってこと。そして、その憂鬱は父さんへの不快感になってしまった。それでも、父さんは「おいの作る豆腐は一番旨い」って言っている。
父さんの店は、海岸線の県道にある。赤色の屋根が目立っている。県道には車の往来が少なくない。店の前には県道をはさんで海が広がっている。豆腐のニガリは天然の恵らしい。海岸線の豆腐屋。こんな所で売れるわけない。
海と反対側には坂道が続いている。その頃の小学生の僕には坂のウエは遠い所だった。とても遠い。とてつもなく遠い。
ある日、憂鬱に耐え切れなくなって、坂道を上がって行こうと決心した。決心するのに1ヶ月はかかった。ちょっと大袈裟だが本当に大袈裟だが決心した。
坂道を登り始めると何処まで行ったら辿り着くのか。一生懸命に登った。僕の額から水が出た。汗だ。何時間もかかった感じがした。僕は時計をもっていないので時間は判らなかった。登っている途中に太陽が動いて行った、登っていく途中では誰も会わなかった。僕はドキドキしていた。
登り着くまで振向かなかったことは僕の臆病な心の性だ。
坂のウエは明るかった。何もない。だだ明るかった。一生懸命に明るかった。キラキラ明るかった。
何が憂鬱だったんだろう。明るかった。登ってきた坂道を見下ろした。少し曲がっていたのだと気がついた。
坂道の遠い、遠い所に赤い屋根が見えた。僕の家だ。父さんの豆腐屋だ。海がキラキラ輝いて小さい赤色で惜しい。僕の憂鬱だ。
不思議に少し歪んで見えた。
坂のウエからみた景色を今も忘れない。一生忘れない。遠い記憶の中に確りとある。食卓に並んだ豆腐が今日からはご馳走になるかと思ったが、やっぱり憂鬱でしかない。
それでも豆腐は美味かった。
「夢の話をしてもいいかな」
そう、友人の声が聞こえてくる。
丸木小屋の前におかれたベンチに、友人と一緒に座っていた。周囲には緑の草原が広がっている。風はほどよい涼しさで、日差しは柔らかい。心地よい無為の時間を過ごしていた。
さきほどの友人の問いに静かに頷くと、話が始まった。
「地虫がびっしりいるんだ」
語り出しからして、良い夢じゃないということがわかる。
「地虫ってなんだ?」
「なにかの幼虫のような、羽も脚もない白くてぶよぶよした虫。それが地面を隙間なく埋め尽くしているんだ」
「そんなにいたらこんな草原なんか、すぐに食い尽くされるな」
「うん、どこまでも荒地が広がっているよ。木も家もなんにもなく、地平線までずっと地虫だけがびっしりさ。これが歩くたびに靴底で音を立てて潰れるんだよ。その体液がまた臭くてね」
その情景を想像してしまい、顔をしかめて腕を組んだ。肌に擦れる長袖のシャツから洗いたての心地よさを感じ、なんとかグロテスクなイメージを中和する。
「踏むのが嫌なら、歩かなきゃいいだろ」
「でも座る場所なんてどこにもないんだよ。動かなければ地虫が足からじわじわと這い上がってくる。いつまでも景色が変化する様子もないのに、歩き続けるしかないんだ」
そこで話は終わりのようだった。黙ってしまった友人に感想を告げる。
「悪い夢だな。疲れてるんじゃないのか?」
「だろうね。なにしろ、立ったまま寝ちゃったんだから」
「立ったまま? なんだそりゃ、すごいな」
思わず笑ってしまった。もうこんな嫌な話は終わらせようと、笑い声のまま言葉を続ける。
「話してすっきりしたなら、もう忘れた方がいいぞ。なんだかこっちまで胸が悪くなってきた」
「それは、胸のところまで地虫が這い上がってきたからね」
ぽつりと呟かれた声に、異様な重さがあった。
友人を正面から見つめるが、その顔は少しも笑っていない。
「忘れたくもなるよね。立ったまま目を閉じて、心地よい風が吹く草原を夢見たくなるよね」
その声が、どんどん遠くなっていく。
「だけどもう、ここまでだよ」
そしてそこで目を覚ました。草原などどこにもなく、友人などいるはずもない。
ふと口から嗚咽が漏れる。だが、また眠ろうという気にはならなかった。
これが夢とは思わないし、あれが夢とも思わない。
眼前には虫満ちる地。心の中には緑の草原。
ぐちゃぐちゃと音を立てながらも、力強く一歩を踏み出した。
冬の雪山は一旦吹雪くと手がつけられない。視界は1メートル先が限界だ。ブリザードは容赦なく体温を奪っていくが、ヘタに動こうものなら足をとられアイスバーンを転がり落ちることになる。おさまるまでじっとしているしかない。
死と隣合わせの冬の登山をこよなく愛する僕は、登山家がよく口にする『そこに山があるから』などという美化された言葉がキライだ。今日も僕は一人で山と格闘している。
学生時代に山岳部だったとか、友人の勧めなどという理由から登山を始めたわけではない。むしろ逆である。友達も出来ずサークルに入る気も起こらず、つまらない学生生活に八つ当たりするように始めた僕の挑戦。山を征服することで、妙な幸福感を得ることに夢中になった。冬山にスコープを当てたのも、危険であればあるほど満足感が大きいからだ。
今日のブリザードはやたらと長い。踏ん張っているのがやっとだった。何度も谷底へもっていかれそうになるが、おそらくもう少しの辛抱だ。
ほんの少し風が弱まった時、右上の斜面に岩陰が見えた。あの下まで辿り着ければ、体力を温存することができる。僕は、あまり力の入らない足に渾身の力を込めて登り始めた。
一歩を踏み出すのに20分を要することもあったが、このまま黙って体温を奪われていくよりましだ。岩まであと少しというところまできたとき、防寒具を伝って微かなケイタイの振動が腰に響いた。
『こんな時に・・・』分厚い手袋を何枚か取り、携帯をキャッチした。
「もしもーし」
大声はブリザードにかき消され、途切れ途切れの言葉が耳をかすめる。
「予定・・・今・・・下山し・・・」
そこで電波は途絶えた。
最近では山登りがブームになっているせいか、山の上にも携帯電波の基地局があるのだろうか。そんなことに感心している間にも体温はどんどん奪われ、体全体が小刻みに震え出す。
『このまま進むべきか、下山したほうがいいのか。』
そう考え始めた時、再び強烈なブリザードが襲ってきた。足をすくわれアイスバーンを転げ落ちていく。
『やばい』
もう遅かった。
気がつくと、どうやら僕は奇跡的に病院にいるらしい。少しずつ視界が開けていく中でふと、思った。
あの時、携帯が鳴った。
僕の携帯の番号を知っているのは両親だけだ。彼らは去年他界している。
僕は看護婦さんから携帯を受け取り、着信履歴を開いてみた。
『クサカヒトシ』
僕の名前が、表示されていた。
了
近世のヨーロッパの話です。色づく秋の頃でした。
並木道のベンチの上で盲目の作曲家は落ち込んでいました。
「あぁ……、なぜ私の曲はみなに受け入れてもらえないのだろう……」
今日はコンサートの選考会でした。作曲家も曲を持っていったのですが採用されることはありませんでした。
ベンチの横のススキの上で、ため息をつく蟻がいました。
「キリギリス君はいいなー、あんなに上手に楽器が弾けて。労働者階級の僕と違っていいなー……」
キリギリスはバイオリンの名手で、彼が奏でる音色は虫たちをうっとりさせました。この蟻はほかの兄弟たちよりも非力で体も蟻一倍小さいのでした。いくら身軽な体でも重い食糧を運べないのでは役に立ちません。蟻は僕もキリギリス君のようになりたいと思っていました。
作曲家は杖を突いて去っていきました。ベンチを立った時に紙が落ちました。地面に散らばった紙には「ラグリマ」と書かれていました。
「なんだろうあれは、線の上に黒い丸が並んでる。……まるで行進する僕たちみたいだな!」
蟻は笑いながら散らばった紙を眺めていました。
「あれ? そういえば前にも見たぞ。確かキリギリス君が持っていたような……。そうだ! 楽譜だ!!」
蟻はススキから駆け降りると小さい体でせっせと集めました。
「これがあれば僕も楽器を弾ける!」と嬉しくなりました。
蟻は木とセミの鬚を使って自分だけのバイオリンを作りました。楽譜はギターの楽譜でしたが頑張って練習をしました。キリギリスも蟻が質問に来ると親切にわかりやすく教えてくれました。練習は何日も続きました。
そしてある日。
「みんな僕を見てー! 僕の演奏を聴いてみてよ!」
蟻はススキの上でくるくる踊りながらバイオリンを奏でました。上手にバイオリンを奏でつつピョンピョンとススキの上で跳ねる姿は、誰よりも本人が一番嬉しそうでした。
そこへ盲目の作曲家が歩いてきました。
「……あぁ悲しい我が子達。どうしてお前達は人々に受け入れてもらえないのだろう。目が不自由な私は力仕事もできない。作曲家として生きていけないのなら、私に価値などあるのだろうか……」
俯いた作曲家がベンチに近づくと、どこからか音色が聴こえてきました。
「あぁラグリマが! 誰かが、私のラグリマを弾いている!」
立ち尽す作曲家の目から熱い涙が流れました。
隣で蟻はステップを踏みながら、いつまでもバイオリンを奏でていました。
眼鏡を掛けるようになって六年にもなるが、未だに違和感が付き纏っている。鮮明に見え過ぎてしまう風景と対峙することに僕は慣れずにいるのか、または、眼鏡によって印象付けられる自分の顔を、それは自分ではないと否定したいのか、いずれにせよ、レンズ越しに見ることと、見られることに違和感がある。必要なときには眼鏡を掛けるが、見えずとも問題のないときには裸のままポケットに放り込む。レンズには細かな擦り傷がつき、フレームもいくらか歪んでいる。
一度、横断歩道を走って渡ろうとしたとき、胸ポケットに入れていた眼鏡を、交差点の真ん中に落とした。新宿で皿洗いをしていた頃のことだから四年前の話になる。カツン、と軽い音が響いて、落としたことに気付いた。行き交う人々の脚の隙間から懸命に探してはみたが見当たらず、そうこうしているうちに信号は赤に変わり、客待ちしていたタクシーの列がゆっくりと進み始める。この速さなら、手を挙げればタクシーは停まり、その隙を見計らって眼鏡を拾うこともできようか、と考えていたときに、クシャリと眼鏡の轢かれる音がした。もっと大袈裟に窓ガラスの割られるような音を予想していたけれど、空缶が潰れるより小規模な、微かな音でしかなかった。信号が青に変わり、ああ、そういえば、俺の眼鏡はプラスチックレンズだった、と、思い出しながら、こんどは容易に眼鏡を見つけ出した。すでに眼鏡の体を成してはいなかったのだが、拾い上げ、眼鏡ケースに入れる。大事なものはいつも壊れてから大事だったと気付くよな、まったく、などとつまらないことを考えながら、歌舞伎町の細い路地をあてもなく歩いた。
先日、線路沿いの道を歩いていたときに胸ポケットから眼鏡が落ちて、僕は何も変わっていないと気付かされた。地上を走っていた小田急の線路が、高架へ移行する辺りで、隣りを歩いている人に何事かを話そうと考え続けていたが、発せられたのは「あ、眼鏡、落ちた」というつまらない台詞だった。いったいどういう状況のときに眼鏡を落とすのか、なぜ眼鏡を掛けようとしないのか、何のための眼鏡か、と話しかけられることを期待したけれど、僅かに立ち止まっただけで言葉はなかった。列車に乗せられて高架へ上がりたいとは思わない。眼鏡やその他を落として傷つけたりせずに、レンズ越しの鮮明な風景を見ていたい、普通に地上を歩き続けられれば、と、つまらないことを考えていた。