# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 八〇 | くわず | 1000 |
2 | 移りぎ | 交野幻 | 523 |
3 | ミクの一番好きな匂い | 森下萬依 | 1000 |
4 | 気がかりなこと | euReka | 941 |
5 | 空はオールブルー | のい | 786 |
6 | 果実の子 | 森 綾乃 | 997 |
7 | ジャングルの夜 | アンデッド | 992 |
8 | 見えない壁 | づらちん | 1000 |
9 | ココロノツナギカタ | もっち | 633 |
10 | があは | 藤舟 | 999 |
11 | 猫 | わら | 1000 |
12 | うどんだよ | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
13 | 暖かな日の光 | 阿谷 織人 | 918 |
14 | 街灯 | bear's Son | 655 |
15 | 擬装☆少女 千字一時物語37 | 黒田皐月 | 1000 |
16 | 鳥籠から見た自由 | 蒼ノ下雷太郎 | 995 |
17 | 影踏み | K | 1000 |
18 | バイバイありがとう さっよオナラ〜♪ | Revin | 981 |
19 | 血戦 | qbc | 1000 |
20 | 青い空 | 芥川ひろむ | 489 |
21 | 水の線路 | 川野 | 1000 |
22 | キャンベルトマト スープ コーン | るるるぶ☆どっぐちゃん | 987 |
駅前のバスプールに降りると、いつもそこにいた。
眉間に皺を寄せて泣くこともせず一言も口を聞かず、野球帽に黒いサングラスで、元女優、と言うより元劇団員、察するに演出家、どれがどれだかわからない。
ふざけやがって。あれは何か悪しき兆に相違ない。
ちかちかと光っている国産初の実用ロケットだということぐらいは、テレビや新聞で盛んに取り上げていたので世情にうとい僕でも知っていた。
千昌夫の次にパツキン大好きっ子列車さえ時間通りに来てくれれば私もいちご好きなんだよ、と言いたかったけど、言えなくて、窓の外を鳥が落ちていく。
鴉が威嚇する声になって、どこまでが顔で、腕で、脚なのか、ほとんど未分化なまま、旅人が現れた。
「香港人みたいだね」
彼はしばらく黙ったまま時折ポトリとその腐肉を滴り落し
「あいにく、話の持ち合わせがありません」
ひたすら南無阿弥陀仏をとなえ、わたし達はディナーを取った。
「お熱いの!」
「なに」
半分しかない頭に手を突っこんだままむいて食べていた。
私はお腹を押すことのないよう頭を撫でまわした後、取り繕うように頬をすり寄せながら、そっと耳に触れた。
穴が空いていた布の汚れのように見えるが、証拠は、なくはない。ないけど俺達はまず北に行った。
二人して笑った。
言い換えればそれは異端者であり、西洋地獄の最下層、学校帰りの文房具屋で、肛門を覗きこんでいる福原信三の縫目からはみでた綿だ。
「触っていい?」
唐突さに思わず「なんやて?」と聞き返すと
「お前は本当に遠慮深いね」
「はあ」
おれたちの頭の中にはわっしょい、わっしょい的な気持ちしかなかったが、男は少しずつゆっくりと回転・伸縮し続けているのだ。
Ciao!進め。廻れ。一巡りして外へ出る。
華やかな賑わいである当初の混乱も収まり、小刻みには動いていない男は壁の時計を見遣った。
いつしか自分が視られている気になり、鏡を覗きこんだ。
紛れもなく私だ。びびび!ギョロっと出た目が特徴的でした。
ストローでちゅるちゅると吸う私たちは性行為をした。
抵抗する意志を少しずつ手放してゆくと、
「うん、うん」
その性の、鈍い刃物のようなのをなぜに身に着けたのか、私には解らないが
「揉んでやんぜ」
「よいしょ!」と大きな声で叫び、と同時に、スティックシュガーはガムシロップになった。
信じ難い話だけれど概ね健康であった。
上を向いたって溢れてしまう情報伝達速度向上が私の胸を高鳴らせた。(たぶん障害)
白魚の内に黒黒しき蚯蚓の這ひたる跡あり。あが遊びが掌なり。灯より紅う染めしを見出し、何とありたるかとて拾はむ。然れども、白、あが頬を撫ぜ、艶めきて笑む。何なりとは言はざりけり。何なりとは見せざりけり。明くるるも、手の内の染み読めず。甚う心留むるなりて、打ち頻りに通ひぬ。女、諂ひ響む事なく、愛敬なきも優なり。いとど奇しき容なり。ロ許の紅も、項にて這ふ黒髪が端も、思ふ案をば取り込みて流しつ。あ、かぐわしきに惑へるてふがやうなりにけり。
惑夜、ふと女が開かれたる手あるめり。将しくかが跡見えぬ。「花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに」とあり。聞く所、女いらひけり。「なが遺書なり。」てふ。打ち傾ぎす。
世が春も過ぎむ頃なりと思ひて、朝顔をは求めき。清々しきとて家内に贈りぬ。子、折しも恙に苦しみき。心付けに幾日夜も忠実だちて過ぐす。経ぬるに朝顔咲きぬ。
久しきとて遊びが住居訪ぬれど、姿なし。ただ文のみ残されり。
「徒桜恋ひし春も過ぎにけれ 通ひ路移ふ童が遊び」
明らけしく、向かまじ桜もあるなりけり。然れども、かが恋しきとて嘆きにき。跡辿り、せむかたなきをいらひけむ。
「花細し色深きかの徒桜 時ならずして朝顔会ふまじ」
「キミ、前世は犬だったんじゃない?」
俺がそう言うと、ミクは顔を上げ「じゃあポチって呼んでいいよ」と言った。そこで会話が止まってしまったので、俺は困った。
「キミの目の前にある、それはなんだい?」
俺が問うと、ミクは依然変わらぬ仕草をしながら「マサラチャイ」と言った。
「で、キミは今なにしてる?」
ミクは俺を見た。なぜわざわざそんなことを聞くのか、といった顔だ。「匂いを嗅いでる」ミクはそう言うと、また、マサラチャイの匂いを嗅いだ。俺は
「だから犬だったんじゃないかって言ったんだ」
と言った。ミクは顔を上げてニマっと笑うと
「だから、ポチって呼んでいいって言ったんっだってば」
と言った。
ミクは何でも匂いを嗅ぐ。道端の草、季節の風、喫茶店の紅茶。俺が個人塾で教師をしていたとき、テストを終えて答案用紙を回収していくと、彼女は言った。
「ねえ、うちとおんなじシャンプー使ってるでしょ」
俺は、意味が解らず、はあ?と聞き返した。ミクはクンクンと俺を匂いながら
「若い男の人が、そんな匂い…ねえ」
ふううん、と納得しながらビシっと俺を指差し
「同棲中の彼女がいる」
と言った。冷や汗をかいた。確かに、俺は同棲していた。
「なんであのとき解った?シャンプーの匂いで、俺が同棲してるって」
喫茶店を出ながら、俺はミクに尋ねた。
「香水の匂いもしたもん。それから、除光液の匂い。朝ご飯の目玉焼き、観葉植物」
俺の問いにミクは答え、フンフン、と空に向かって鼻をひくつかせている。俺は黙って歩き出した。ミクは俺の匂いを嗅ぎながら、スキップで着いてくる。
「先生、駅前のデパートの匂いがする」
ミクはそう言って先回りをし、両手でとおせんぼをする。あっという間にカバンを奪われる。
「おい、コラ!!」
俺が止めるのも構わず、ミクはデパートの包みを解いた。そして息を飲み「ごめんなさい」と言った。
ミクの手からそれを受け取った。婚約指輪だった。俺は、今日同棲中の彼女に、婚約を申し込む。
「ミク…お前のいちばん好きな匂い、なに?」
俺は話題を変えようと笑って聞いた。
「先生の匂い」
ミクは満面の笑みで答えた。
「同棲中の先生の彼女が作った、先生の匂い!!」
ミクはそのまま脇をすり抜けて走った。俺は振り返って叫んだ。
「ミク!!」
ミクは振り向いて、手をメガホンのようにすると、叫んだ。
「しあわせにねっっ!それから、そら、あめのにおい!」
ミクは走り去った。
ポツン。雨が降ってきた。
ぼくは自殺をするためにビルの屋上へのぼった。屋上の錆ついた扉を開けると空が青かった。なぜかビキニ姿の女が屋上で日光浴をしている。女はぼくに気付くと体を起こして、サングラスを外した。
「あなた自殺するの?」
「まあね」
「あいにくだけど、自殺を止めるのがわたしの仕事なの」
「仕事? ぼくには関係ないね」
ぼくは女にかまわずビルの屋上から飛び降りた…。
それからしばらくの間、ぼくはクラゲのようにどこかを漂っていたような気がする。でもふいに風を感じて目を覚ますと、そこには白い砂浜と青い海が広がっていた…。
「残念だったわね」
さっき屋上にいたビキニの女が、砂浜に寝そべってぼくを見ていた。
「こっちに来て、一緒にビールでも飲まない?」
ぼくは女と結婚して浜辺に小さなホテルを建てた。週末や夏休みになると客で賑わった。ある年、客も少なくなったシーズンの終わりに一組の老夫婦がホテルに訪れた。夕食後、老紳士から酒に付き合ってくれないかと誘われた。ぼくはいいですよと答え、老紳士を浜辺の見えるテラスに案内した。
老紳士とぼくはウイスキーを飲みながらありふれた世間話をした。それからだいぶ酔いがまわってきたところで、老紳士がある話を切り出した。
「実はね、知ってるんだよ。私も君と同じなんだ。つまり失敗したのさ。自殺を」
ぼくは耳を疑ったが老紳士はかまわず話を続けた。
「私の妻はあの時の女さ。あのビキニ姿の。まさかこんなことがあるとは夢にも思わなかったよ。君もそう思っただろう? あれはいい女さ…。実はね、世間には君や私の同類がたくさんいる。でもお互い相手に気付いても声を掛けることはほとんどない。みんな過去を思い出したくないんだね。本当は私も、君にこんな話をするつもりはなかったんだが…、歳をとったせいかな、つい話したくなったんだよ」
老紳士はしばらく黙り込んで遠く眺めていた。ぼくには彼が、泣いているように見えた。
「私と妻の間には娘が一人いてね。妻に似たかわいい子だったんだが…、大学生のとき、夜道で男にレイプされて、そのあとノイローゼになって自殺してしまったんだ…。私はいつも考えるんだがね…、娘も君や私と同じように、白い砂浜でいい相手と出会えたんだろうか? そのことが気がかりでならないよ…」
「俺とお前は繋がっているのか」(…繋がってるんじゃねーの)曖昧な答え、(同じ地球上の生き物としては、だけどな)なんて曖昧な答えなんだ、偉そうにニヤニヤして「なんでお前は飛べるんだ?」(なんでお前はそうもおもしろくもない質問するんだ?お前みたく鎖に繋がれてないからさ)またニヤニヤ、なんてはらがたつ野郎だ、俺が犬みたいじゃないか(お前が大事にしてる鎖はお前の自由を奪うものだぜ?)何言ってやがるんだこの野郎、なんで俺が鎖を大事にしてんだよ「なんの鎖だ」そうだ俺は鎖なんて知らねーぞ (他人との関係、ってゆう面倒臭い鎖さ、お前はその鎖が切れちまわないように大事にしてんだ、本当は全て無くなればいいと願ってるくせに失うのが怖いんだ)ニヤニヤしていて憎たらしい、「お前は怖くないのか」なんて質問をしているんだか。
(怖い?そんなこと思ったこともない)ふんっと俺を小ばかにでもするようにいいやがる(他人がいなくたってお前自身が無くなるわけじゃない)「だが!」(なんだ)「失うのは怖いだろ、恐ろしいだろ、それに他人にどうおもわれているのか…」(そんなこと考えているからお前はいつまでも自由になれないんだ、おれをみてみろ!これが自由だ!)「だが…」なんで俺はこんな奴に喋ってんだ「お前は鳥だろうが」(そうだ鳥さ、なにが悪い空も飛べない人間のくせに)「俺はお前にゃなれない、面倒臭い人間のままさ。」俺はニヤリと鳥に言ってそのまま、回れ右をして鳥のいる窓に背を向け課長に書類の間違いを謝りに行った、これ位で現実逃避なんて俺もまだまだだな、仕方ないか今週これでもう三度目だもんな、書類の間違い…
(なんて馬鹿なんだ人間ってのは、本当は面倒臭いのが好きなのか?おれには解らんね、それよりもおれを鳥と呼んだのが腹立つな、この黒くカッコイイおれを)
空はオールブルー。今だに人間は鎖に繋がれているもよう。
痴漢の目は、見ればそれとすぐ分かる。油を点眼したようにぎらぎら光るから。葉子は大阪環状線外回り、三両目の隅で思った。向かいの男が、執拗に下半身を押し付け荒い息をしている。
葉子は考える――ぎりぎりの電車に乗ったから、今降りれば学校に遅刻する。それでもいいかも、今日は指されそうなのにリーダーの和訳をしていない。それに、今朝覗いたお弁当のおかずは大好きな豚の生姜焼きで、窓の外はお弁当日和だ。埃っぽい灰色の教室で食べるべきじゃない。豚に失礼だ。
そうして葉子は途中下車した。ホームで病欠の電話連絡をすると、事務の女性は親切そうに言った。
「季節の変わり目ですからね、お大事に」
開店直後のデパート。屋上の人影は疎らである。赤・白交互に彩られた古びたパラソルは、雨のあとが茶色く線になり、柄には錆が浮いている。コインで動く玩具の乗り物は、ほとんどが一時代前のものであるようだ。葉子は財布から百円玉を取り出すと、ゴワゴワして不潔そうなライオンに跨った。硬貨を落とすと、小さなスピーカーから間抜けな音楽が鳴り、ライオンが四肢をギシギシさせて歩みだした。
オーバーオールを着た小さな男の子が、おぼつかない足取りで葉子とライオンに近寄ってきた。晩秋のやさしい陽を浴びて、男の子の丸い頬・その産毛が黄金に輝く。彼は幸せな果実のようだ――葉子は彼を勝手に桃男と名付け、急にかわいい桃男が欲しくてたまらなくなった。母親らしき女が煙草を買う隙に、葉子はチョコレートで釣って桃男を盗むことに成功した。
桃男を抱いて、葉子は走る。光より速く。実際は時速十二キロくらいで。小さな公園に着いた。急に不安になった桃男はぐずぐずと泣き出した。葉子はちょっと悲しくなり、桃男もきっとお腹が空いているのだと結論づけた――そう、大人も子供も、感情と胃袋はダイレクトに繋がっているもの。葉子は急いでお弁当箱を開けて、豚の生姜焼きをすすめる。桃男は火がついたように泣き出し、暴れた拍子にお弁当箱を払い落とした。豚もご飯も、千切りキャベツも砂にまみれた。陽はかげり、果実はもう幸せではない。
私のお昼ご飯はどうなるのだろう? そして、貴重な犠牲である豚と、六時起きで豚を焼いたお母さん、有機農園で娘のように愛情を注いでキャベツを育てた何某の立場は? 葉子は夢中で落ちたものをつかみあげては、男の子の口に突っ込んだ。彼はとても静かになった。
彼女は相手を待っていた。
鬱蒼とした夜の密林、その中でも聖神を宿すとされる不老大樹の根元で。
そこは、天にも届きそうな樹木が無数に覆い茂る、原始の庭。
夜空を見上げても、互いに絡んだ枝やツタと闇が溶け合って、星々の光は僅かばかりしか見えない。
――彼女、セリジュネ・オン・スロウピィは、森の守り手と呼ばれる獣の部族の一人だ。族長の愛娘でもあり、機知に富む優秀な若き狩人だった。
獣の部族といっても、虎の耳、豹の尾、ジャガーの足部、それら以外は人間の身体と似通っていて美しい。
そんな彼女の部族では永きに渡る慣習として、月に一度双子月が満ちる夜、街の民との会合が開かれる。
代表者だけで行われるこの会合は、本来の意味を無くし完全に形骸化していた。幾多の闘争が軋轢と差別を生んだが、平和な今の世では形だけの友好交流が保たれている。
そして有能さを買われながら、半ばおざなりに今の代表者として選ばれたのが、セリだった――。
大樹の周囲に設置されている松明のかがり火が、セリの金色の髪と褐色の肌を照らしている。その緑眼には炎の煌めきが美しく映り込んでいた。
部族独特の軽装なパレオを身に纏い、巨大な幹の根元で獣のように四肢を地に着けて、淑やかに座っている。
だがその心は夜の静寂さとは裏腹に、落ち着きを欠いていた。
勇猛果敢で知られた『緑の風のセリ』という異名の由来にもなっている緑眼も、元来は凛としているのに、今は妙にそわそわしい。
庭ほどに見知った森の景観も、今のセリにとっては冷淡で見知らぬ場所のようにも感じられた。
遅い……。心が早る。
セリは深呼吸すると、大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせた。
その時、木々の間を這う空気の匂いが少し変わったかと思うと、突然声がした。
「セリ、ニンゲンマッテル。アタマ、アイツバッカリ」
途端に無数の声が木霊する。
それが森の精霊の悪戯だとセリは即座に解った。
素早く立ち上がると、反射的に叫ぶ。
「ウルサイ!」
途端に声が収まる。
生温かい夜風がセリの金の髪を揺らした。
セリの研ぎ澄まされた耳に聞き慣れた足音が聞こえると、暫くして闇の中から人影が見えてきた。
人影はセリに気づき手を振っている。
来た。
そう思うとセリの心臓は早鐘のように鳴り響いた。
もはや抑え切れない嬉しさが表情や耳と尻尾に現れていたが、それでもセリは急いで人影に手を振り返した。
氷で薄まったレモン水を一気に飲み干してから昼飯の会計を済ませ、ファミレスを出る。もう十月になるのに日差しは鋭く、エアコンの効いた屋内から一歩外に出ただけで背中に汗が滲む。脳がぼやけ、寝る前の浮遊感めいたものが俺全体に襲いかかる。体がふらついた。
「渋谷さん、大丈夫ですか」
後輩の尚美が俺の腕を掴む。
「大丈夫だ」俺は肩を一度上下に揺らした。「次のエリアはどこだ」
「次は南四丁目の二十八世帯ですね」
地図を見ながら尚美が言う。
「そうか」俺はハンカチで汗を拭いた。「庭付き一戸建てばかりだな」
「売れますね」
温暖化と騒がれて久しいが、俺の営業成績向上には無関係だと一昨年までは考えていた。去年から秋の猛暑日が増加し、俺らが売る家庭用の小型散水機の予約が大幅に伸びたのだ。不謹慎なのは言われるまでもなく心得ているが、しかし俺らにしてみれば温暖化様様だ。
「どうかな」経験が俺に疑問を投げる。「この世帯は倹約家も多いらしいぞ」
営業に出る前に事前に販売データを確認する。尚美にもそう教育してあったが、新卒でこの夏から営業に配属された彼女には、まだそこまでの余裕はない。地図を折り畳んでハンドバッグにしまう尚美の顔は、しかし楽しげだった。今、彼女の頭の中では、かなりの数の散水機の契約を終えたに違いない。俺はまだ、一件も契約が交わせていない。汗が背中をまた濡らす。
惨敗だった。
心で売りまくっていた尚美は、現実とのギャップに動揺を隠せない。目尻が下がり、鼻で呼吸ができない風邪をひいた子供のように口が半開きだ。昼に来たファミレスに再び入る。ドリンクバーで淹れたアイスティーを一つ尚美の前に置いた。
「渋谷さんの予感、的中しちゃいましたね」
しちゃいましたね、と笑って誤魔化したかったのだろうが、不安げな目元と楽しげな口元が奇妙な共存をみせた。
「いつもいってるだろう」内ポケットから煙草を出す。「こんなもんだ、営業なんて」
俺はふと、彼女の年の頃の自分の姿を思い出す。当時の俺ははたしてこんなに真剣に営業に向かっていただろうか。煙草を持つ手を見る。十二年前と違うのは、煙草の銘柄だけだと気づく。
「尚美」
彼女の表情に、もう不安は宿っていなかった。俺は昔と変わらない。だが、尚美はそうじゃない。俺にはまだ、希望があった。
「南五丁目は気合入れるぞ」
「覚悟してます」
尚美が、笑った。
少し湿った煙草に、俺は火をつけた。
今ね、休みだっていうのに朝早く起きちゃったの。
そう、7時13分だよ。もう一度、眠りたいのに眠れなくて目がはっきりとしてきた。
駄目だ、諦めよう。いっそ、起きてしまえ。
あたしは、台所に立つとコーヒーメーカーにコーヒーの粉と水を入れたわ。
ぽこぽこと音を出す。次第に激しくごぼごぼっぅっと壊れるんじゃないかと思うくらいに鳴り出した。
あたしは、ココロのツナギカタを忘れた。
朝の静けさと、その静けさに不釣合いな機械の立てる音の中で、冷静に思ったの。
何も、沸いてこない。どうやって、人を愛していたのか?どうやって、モノに執着していたのか?忘れた。
粉が、水に染み込んで下に、ツーっと落ちる。
料理を作る事も億劫で、インスタント食品ばかりで過ごした。おかげで、肌はカサカサになり、口の端が切れている。恋の終わった後なんて、そんなものなんだよ。
まだ、引きずっている?もう、5ヶ月以上過ぎているのに。
そうじゃなくて、次の恋が・・また、誰かとココロを繋ぐことが出来るのか不安なだけなの。テーブルに、頬をつけて両手を下にさげて、ぶらぶら振る。
誰かと、ココロヲツナギタイ。
なのに、ココロはまだついていけないみたい。
「うーん、ほっとするなぁ」
この、コーヒーの出来上がった香ばしい香り、落ち着くなぁ。
とりあえず、この暖かい飲み物で心を暖めよう。
大きなマグカップに、コラーゲン10000の粉を二杯入れ、コーヒーを注ぐ。
カップから上がってくる湯気で、幸せな気持ちになった。
うん。あたしは、微笑んでいたわ。
正方形のその比較的小さな体育館は、そこらの土砂に滲み込んだのとおなじ雨にぬれ、赤錆の浮いた入口や窓枠と日に焼けたカーテンだとか何でできているのか定かではない腐食の進んでいそうな屋根、そして塗装の剥げてむき出しになったコンクリートなんかにはまるで少しずつ水か滲みいっているような…そんな風に見えた。
長年出番のなかった体操用マットはかび臭かった。
今は4日目の朝だった。ここには集落のほぼすべての人間が避難して来ていて、狭くないのは、私たちが元々少ないからで、現人数は16人…半数近くが老人でその人たちはやはり大変…
横着して寝ころんだまま眼鏡をかけると滲んだように見える天井の色むらは今にも雨漏りしそうだけどそんな感じでこの4日間、結局ここの避難者を守り続けていたのだった。それは私の家だってそうで何年もたいして良くはない家庭もこんな感じに続いていったのだ、もっと長い雨もあったろうに。じゃあ何故家は今雨に流されここは大丈夫なのか。いくら風雨に耐えられても土台を崩されてはどうしようもないからか。土石流だからか。
家がもしもっと簡単に流れてしまう物だったなら、石なんか降ってくる前に雨に流れて今頃は海に浮いていたかもしれない。
他愛もない空想は特に救いではないけれど…
台風は今関東の東の海を東へ進んでおり、間もなく熱帯低気圧に変わると思われるが、北上してきた前線の影響で各地が豪雨に見舞われているのだそうで、そう言っていたテレビは今は沈黙しているものの、大抵昼はずっと電源が入っている。特にやることがない人はずっとそれを見ている(つまりみんな。)。私は図書館の鍵を借りてきて、本を持ってきて読んでいたけど、唯一の児童書と絵本以外の本だった世界動物文学全集はもうすぐ読み終わってしまう。
「ドいろがあは」
というような寝言を坂本の爺さんがいう。唐突な感じに響く。爺さんにも、と私は思う。雨がしみ込んでいる。
私は台風が来た日、一人外へ出て風を受けて…昔から台風の風で遊ぶのは大好きだったから…普通と違うふらつくような台風の風にそれから弱くなったといってもすぐ濡れてしまう雨を浴びながら思ったことはこれと正反対のことだ。
台風の中踊り遊んでいた私は、今は亡き我が家に、声と共に連れ戻された。
今はまあ、特にすることがない。明日総理大臣(とあとテレビ)が来るので雨の中だけどきっと逃げきってやろうと思う。
天気のいい午後。小さな神社の一応御神木とされる木の根元に、年老いた猫がうずくまっていた。
彼はいつもここで昼寝をしていた。五十年近くここにいた。近所の老人たちに可愛がられていたが、誰も彼の年齢を気にしなかった。もはや風景と化した町の猫は、それほど気に留められることもない。
彼は眠ってはいなかったが、じっと蹲って何かを待っていた。
老婆がやってきた。だが彼は動かなかった。目の前に置かれた煮干しにも口をつけず、頭を撫でられると迷惑そうに顔をしかめた。
今日だけは少しでも動くわけにはいかない。彼は神に近づこうとしていたのだ。
彼が生まれた頃、母親と兄弟は人間に殺された。人間が憎いとは思わなかった。ただ恐いと思った。だから人間に対抗しうる力を得るために神になろうと決め、長い時間を待ったのだ。
老婆が行ってしまうと学校をさぼった高校生が二人やってきて、ベンチに腰を下ろすと煙草を吸い始めた。
人間が恐い? 猫は考えていた。少なくともこの数十年は人間に恩を受けてばかりだった。不良が来てもこの場を動かない自分がいた。人間への恐怖など神になるモチベーションとしては今ひとつである。実際のところ若さゆえの勢いが大きかった。昔のようには動かない足に目を落とし、猫並の寿命で死んでいればよかったのではないか、とここ数年は考えていた。
「やってらんねえな」
「まったくだよ」
二人の高校生は愚痴り合った。親のこと、学校のこと、社会のこと。
時が近づいてきた。尻尾の先に裂け目ができた。
彼はまだ神にはならない。まず妖怪になるのだ。先達に聞いたところ、妖怪になると肉体が若返り、様々な神通力が使えるようになるらしい。だが妖怪になった途端あらゆる能力が使えるわけではなく、はじめはせいぜい人語が話せるようになる程度だそうだ。
尻尾の裂け目はみるみる広がり、猫は身体に力が蘇るのを感じた。とっくに限界を越えていた身体が昔のように動くのならば、これも悪くないと思い始めていた。さらに上の段階に行くかどうかは、もうしばらく生きてみてから考えよう。
「生きてたってロクなことねーよな」
高校生たちは地面に煙草を投げ捨てた。
すっかり尻尾も裂けてしまい、猫、いや猫又は立ち上がった。妖怪としての最初の力を使ってみることにしたのだ。彼は軽い足取りで高校生たちに近づき、その正面に座って口を開いた。
「生きてりゃそのうちいいことあるよ」
台所で筑前煮の、ごぼうの下茹でをしながら、何年か前に応募した自作の小説を読んでいた。当時は意気揚々と書き上げ、女の肩に手をかけては「俺もこれで家を建てるだろうよ」などといい気持ちになっていた作品である。
つまらなかった。ごぼうがボコボコ沸騰するのも忘れ、ページをめくる指は夢中というよりも怒りの感情にちかい。もう鳥肉や人参といっしょにこいつも煮てやろうかとまで考えたとき、料理していることを思い出して、火をとめた。
狭い台所がごぼうの香りでいっぱいになる。花とはちがった土の匂いというのもなかなか落ち着くなあ、正月を思い出すなあ、と気分もよくなったところで料理をつづける、といっても煮るだけである。
鍋に放り込みそうになった原稿を再び手にとる。煮ても焼いても喰えないけれども、やはり捨てられない、と思う。なんだかんだもう一度読み返す。二度目の再読ではさっきより大人の態度で、かつての若書きを受け入れる。恥ずかしい表現も感傷の爆発も、愛想笑いで読み流す。
鍋が煮えているのも忘れてしまい、すっかり焦げてしまったころに気がつく。真っ黒になった肉と野菜を前にして、こういう感情に慣れてしまったな、とためいきをひとつ。
たわしを握りしめ、ごしごしこする。思わず「ごしごし」と独りごとまで呟いていた。つまらない物語ではある。つまらないが、そのなかのある種の気分は決してつまらなくなんかないんだ! と急に燃えてくる。自分の作品をけなしている自分に悔しくなってきた。
きれいになった鍋で再度湯をたっぷり沸かしながら、今度は赤ペンを握りしめてもう一度読み直す。ナイフを持ったピエロに追われる記憶喪失の男の物語だった。ピエロを猿に変えてみる。ナイフはペーパーナイフにしてみよう。男が失ったのは記憶ではなく感情にかえて、やはり素敵なヒロインに登場願いたい。
無我の境地で書き直していると、女が帰ってきた。鍋? 鍋がどうした、今日は……うどんだ、これから茹でるからちょっと待ってな!
赤ペン原稿をそっと食器棚に隠し、そういえば讃岐うどんがあったことにニンマリとなる。葱をななめにザクザクきり、即席つゆを使ってものの見事にうどんを用意した。
焼きごぼうの匂い? 幻覚じゃねえか、ほら、うどんだよ、今日はうどんだよ。
かつおぶしと七味唐辛子をふりかけて、我々はうどんをすすった。長い夏もどこへやら、涼しげな初秋の晩であった。
暖かな日の光が緑萌える草原を鮮やかに照らしていた。穏やかに吹く風が草原を撫でてゆく。
一人の少女が草原で眠っていた。
穏やかな風が少女の頬を撫で、少女はゆっくりと瞼を開いた。
少女はなぜ自分がここにいるのか、理解できなかった。
少女は上半身を起こし、周囲を見渡した。
ただ一面の草原。
少女は立ち上がり歩み始めた。
ただひたすらの草原。
一筋、草原が途切れ、地が露わになった場所に出た。
道のようだ。
どちらを見てもどこまでも続いていた。
少女は道を歩き始めた。
ただひたすらの土の道。
カッポカッポカッポ、ガラガラガラ。
後ろから音が聞こえ、少女は振り返った。
荷馬車だ。
荷馬車は少女の前で止まった。
中年の男が手綱を握っている。
「疲れただろう。町まで乗せていくよ」
男は笑って言った。
少女は荷馬車に乗り町に着いた。
笛、太鼓、琴、祭囃子の音が聞こえる。
「今日は祭りだよ。楽しんでいきな」
男は手綱を振り、荷馬車と共に去った。
少女は歩き始めた。
石畳の道を。
両脇に様々な店が並んでいる。
みな同様に赤い提灯を軒先に吊るしている。
祭りだからだ。
「嬢ちゃん、ひとつどうだい?」
そういって、おじさんがたこ焼きをくれた。
「ラムネもあげるね」
おばさんがそういってラムネをあけ、渡してくれた。
座って、たこ焼きを食べ、ラムネを飲んだ。
少し残ったラムネのビンだけを持ち、少女はまた歩き始めた。
大きな門があった。
門をくぐると長い階段があった。
少女は階段を登り始めた。
頂上には更に大きな門があった。
振り返った。
夕陽が少女の顔を照らす。
目を細め、町を見下ろす。
町が赤く染められている。
草原が赤く染められている。
カラカラとラムネの中のビー玉が音を立てた。
「美しいかい?」
少年が門の柱の影から出てきて尋ねた。
「美しいと感じるかい?」
また尋ねた。
ラムネのビンは少女の手を離れ、地面に転がった。
少女は泣き崩れた。
泣いた。鳴いた。啼いた。ないた。
「世界は美しい」
少年は誰に言うわけでもなく言った。
少女はないた。
そして・・・・
「世界は美しくなんかない!こんな世界、嘘よ!私の知ってる世界は!私の世界は!醜く汚い世界よ!だから!だから!だから・・・・・こんなの・・・・・・・あんまりよ・・・」
並木沿いの、日本にない黄色を醸す街灯の光に包まれて、夜の往来は抑揚を帯びていた。虫の音と夜道の音。街灯は、物の輪郭をぼかしている。
夜の人の少ない歩道を、水の半分入ったペットボトルを指に引っ掛けて歩いている。ネオンの色、黄色い暖色によって、僕の服の色は塗り変えられている。時折、バイクやトラックは夜道を通り抜けていく。
街灯の抱擁の混ざり合う――この街灯の光はどこまでで、あの街灯の光はどこまでなのだろう。
手持ち無沙汰に一人の公安は、夜の交差点に立っていた。
「ワンシャンハオ」
光の影になった顔は表情の見えなくも、口のあるだろう辺りから返事はかえってきた。
「ニーハオ」
路面店の切れかけのネオンはチラついている。チチッと音を立てている。あいまいに理解できる漢字。日本語の理解で通るものもあれば、日本語にないものもある。トラックのクラクションは、夜に向かって遠くで何かを聞き返している。
三度目の中国。言葉の分からない街に入り、人々の話す声に捕らえられなくなった自分に気付いたのは、それは最初に日本に戻った後だった。ここでの見当識は街へ溶け込んでいく。
車は車庫から車庫へ。引かれた車線の中を走っていく。トラックのバルブから空気圧の抜ける音。その光も音も、僕の輪郭を透かしてすぎ去った。
外国人教師の泊まっている宿舎に戻った。誰かはキーボードを叩き、また誰かはフォークギターを奏でている。
僕は共同のラウンドリーヘ行き、脱水機にかけておいた服を抱えて、部屋に戻っていった。
七日後、僕は日本へ帰る。……。
十月十三日、午前十時。圭は自分が発案した体育祭の新競技を楽しみにしていた。それは実行委員である自分にも大変な手間が伴ったが、今日の楽しみを思えば苦にはならなかった。一番の苦労は、周囲の説得だった。仮設トイレよりもひと回り大きな個室を圭と一緒に用意した委員は、それでも不平たらたらだった。
「ただ今から、第三種目、借り衣装競走を始めます」
何人無事にゴールできるかな、と圭はほくそえんだ。委員の特権で、個室脇という最も走者を間近で見られる場所に、圭は待機していた。本部脇にもうひとつ立てられたテントには、洋服屋よろしくハンガー掛けによりどりみどりの衣装が陳列されていた。手に取った紙が指定した衣装をそこから取って、個室でその衣装に着替えて走るのだ。陳列された衣装は、遠目にもただの洋服の色かたちではなかった。ウェディングドレスやらボディコンスーツやら笑いが取れそうなものはすべて、圭と数人の熱心な同志が準備したのだ。
予想通り、棄権が続発した。と言うより、面白がっている人、無頓着な者、棄権を良しとしない真面目野郎以外の全員が棄権していた。衣装を着た姿や衣装を手にしたときの落胆ぶりなどに、ギャラリーは大盛り上がりだった。圭は棄権の受付に走り回りながらも、棄権せずに個室から飛び出した全員の勇姿をしっかり拝んでいた。左右逆のボタンを留められずに前をはだけさせたまま走ろうとした男も、きっちり失格にしてやった。
圭が最も楽しみにしていたウェディングドレスは、最後まで残った。ボディコンスーツは棄権されてしまったが、これはどうか。圭は拳を握り締めた。スタートのピストルが鳴り、紙を取った走者たちがテントに走った。ドレスを手にしたのは中背の奴だった。コイツならサイズがぴったりだ。
他の走者が次々と棄権を宣言する中、個室に入ったそいつは棄権することもなく、しかしなかなか出てこなかった。他の全員が棄権してしまって会場が静まり返ってしまったときになってようやく、そいつは満を持して姿を現した。
完璧だった。ベールで顔を隠して、スカートの裾を少し持ち上げて小走りで走って、そいつはゴールテープを切った。大歓声が巻き起こる中、そいつは胸の前で手を小さく振りながら、トラックを後にした。
同志たちが成功を喜ぶ中、圭は後悔していた。ノリが悪いとたしなめられた圭は、ついそれを口にしてしまった。
「ブーケ、あげたかったな」
僕が鳥籠で飼っている鳥は、よく喋る。
「よぉよぉ、人間って不自由だよな」
それは、オウムのように人間の言葉を返すわけじゃない。
「だって、翼がないんだろ? 人は比喩を用いて、翼があるとかなんとか言っているらしいが、はっきり言えよな。翼なんかないって。だって、お前らのどこに翼が生えてるんだよな」
自分で考えて喋る。それは、人の真似事ではない。
「人間という生き物ほど不自由な生き物はないよ。高い知能を持っているからって、人は自由だとでも勘違いしてないか? 逆だ。人は高い知能を持っているからこそ、不自由に囲われている」
あまり大きくない、けれど彼の小さな体を納めるには十分すぎるほどの広い世界。
鳥籠に入れられている鳥は、僕らを不自由と罵る。
「人は電車を作った。線路を作った。これは便利? おいおい、頼むぜ。便利がイコールで自由だとでも思ってるのか? お前、あれか、小学生だっけ。中学生だっけ。若い頃から童顔というのはめんどくさいな。ともかく、そんなこと分からないようじゃ、大人としてやっていけないぞ」
鳥に説教された。
「電車を作ることで、人は時間を制約された。電車は決まった時間にしか来ないからだ。不自由一。そして、人間は車両という空間の中で、見知らぬ人々と過ごすことになる。不自由二。他人と空間と時間を共用しなければいけない。不満は通らない。電車は一人ではなく、数人で使用するものだからだ」
鳥は僕を、いや、僕ら人類を、小さな赤い目で見つめている。
「高い知能は自由を生み出すわけじゃない。それどころか、自分で自分の首を絞めている。自殺と変わらない。青い空も灰色の煙で汚し、透明な水も黒い液体で汚したろ。おいおい、これのどこに自由がある。これは不自由三。そして、人は社会というものがある。これが最大の不自由。ちなみに番号は四。なぁ、言わなくても分かるよな。これは流石に」
僕は、分からないよと言った。
鳥は、おいおいおい、と言った。
「ちなみに、家族というものも不自由の一つだ。番号は五だな。聞いてみるといい、お前の父親に。あ、そうか。今はいないんだよな。悪い悪い、機会があったら聞けばいい。別に聞かなくてもいい、どうせ、いつかは知ってしまうことだ」
脆弱な住処なはずなのに、まるでそれが壮大なる青空かのように、鳥は自由に飛び回っていた。
僕たちは、それをただ見ていることしか出来ない。
(了)
「踏んだ」と慎治の声がして、顔を上げると好奇に満ちたたくさんの眼差しがぼくに向けられていた。夕陽を背にして運動場へ続く階段に腰掛けていたぼくの影は、いまはしたり顔で煽り立てながら後ずさる慎治によってどうやら踏まれたらしい。
「どうしたよ」慎治はぽかんとしたぼくの表情を訝しく思ったのか、ぼくに、また影踏みに参加している数人の友達に聞こえるように声を上げる。皆が不思議そうな顔でぼくのほうを見ていた。まったく、ぼくには時間が止まってしまったように思えて、次々に降りかかってくる眼差しが恐ろしく、どうしていいものやらわからなくなった。
ぼくはいつの間に影踏みに参加していたのだろう。
慎治が健吾に何ごとかを喋って、お互いに首を捻りながら横目にこちらを見やっていた。祐樹が二人の傍に駆け寄ってきて、そのうちに三人で話し始めた。息が詰まりそうになる。ぼくはこのままじっとして消えてなくなることができればどれだけいいだろうかと思ったけど、それはどうしたって叶わない。動かなくたってぼくにはより強い眼差しが向けられるばかりで、たとえ参加を取りやめて家に帰ったとしても、この階段に座っていたぼくの影はぼくとして変わらず皆に曝され続けるのだ。
ぼくは間違いなく影踏みに参加していた。
「おうい、何してるんだよ、早く来いよ」興が醒めたようにのんびりと気の抜けた淳の声が響くと、たくさんの眼差しは不安げな様相を帯び始めた。ぼくは動かなくてはならなかった。
ゆっくり立ち上がって爪先をとんとんと打ち、走り出した瞬間に皆は一斉に「わっ」という声を上げながら辺りに散らばった。醒めた空気は一転して熱をもち始め、ぼくは心の中の何かが破裂していくような心地がした。ぼくはオニになって、誰かにそのオニを擦り付ける役目を全うしなければならない。皆の走り回る中で、ぼくは具合よくオニの役目を交代できた。「くっそお」と小さく健吾は呟き、立ち止まってぼくを、また他の皆を眺め始めた。しかしそれでも終わらなかった。今度は逃げなければならなくなったのだ。いったいどこまで逃げればいいのだろう、運動場か、それを抜けたバイパスか、それとも部屋に鍵をかけて布団に包まっていればいいのだろうか。けれども、きっとこの影がなくなるまで影踏みは絶えず続けられるのだ。
ぼくは「うわぁあ」と大声を上げながら走った。無我夢中にこのまま気を失ってしまえばいいと思った。
「全部赦してほしいんすよね。なんだろ〜、生まれて来てごめんなさいへの回答とかそういうんじゃなくってね、論理とか理屈とか抜きでさ、バビョイ〜ンと赦されたいんすよ。しょうもないこと考えるの飽きちゃってさ〜」
うおぉ……。このご時世に街なんか平気で歩いちゃった上に職質されて拘置されて、さらに警官の慈悲を勝ち得れなくて訳わからん罪着せられて、とうとう裁判まで来ちゃった最後の被告人席でそんなことほざくのか、お前。すっげえなあ。そのステップのうちどこか一つでいいから知性を働かせれば元に戻れたのに、どんだけだよ。何があったんだ疋田、つって多分何もなかったんだろうなあ。高校で世話になった恩返しに、弁護士つけたり根回ししたりしてやったけど、そういうことじゃなかったんだなあ。
「では、被告人は検察の訴えを全面的に認めるのですね?」
んなわきゃねえって。
「はいはいはい、認めるっていうか、うん、認めますよね。やっぱ、自分から始めないとダメっすもんね。まあ募金とかさ、自分が受ける側になったことないすけど、コンビニのレジに箱があったら入れますよ。何月分の募金は何円でしたーって書いててね、ああ、ぼくが入れた50円がなかったらこの額マイナス50円にしかなんなかったんだ〜って思ったら、嬉しくないっすか?」
いやいや、おめえはもうその募金受ける側のギリギリ崖っぷちに居んだよ。それ以上行ったら、そういうのとは縁遠い世界に旅立っちゃうの。わかってねえなあ。考えるのやめすぎ。今さら持ちつ持たれつ精神をアピールしても意味ねえ。ルンプロが募金してどうすんだよ。
「弁護人から、何かありますか?」
ねえだろ。ほら、耳くそほじってんぞ。でも、しょうがねえわ。大枚叩いて雇ったけど、あんたは悪くねえよ。疋田がやる気なすぎんだ。はあ。ヤマザナドゥでも赦さねえよな、こんなもん。カッカッ!
略式の死刑がその場で行なわれて閉廷。疋田の親に挨拶を済ませて、駅前まで車を飛ばす。喫茶店に入って爆睡。閉店間際、ウエイトレスに起こされたんで、募金箱はねえのかと訊いたら、ねえってさ。ここは友人の遺志を継いで募金でもして綺麗に締めて、何となく崇高な雰囲気にしときゃ逸話なのに、ねえのかよ。しょうがねえから、俺はディックを取り出してウエイトレスにしゃぶれと命じた。お前なんざ下ネタで十分なんだよ。さいなら、疋田君。
ふと空を見上げた。
何年もの間、僕は空を見上げたことなどなかった。思い出すのは、とっても小さい頃の記憶だし、遠い遠い記憶だった。
その数秒後、僕は力いっぱいにツルハシを振り上げた。
なんでなんだろう。
なんで、僕は力いっぱいにツルハシを振り上げているんだろう。
考えても答えは見つからない。理由は、ただ一つだけだった。
夢と向き合うはずだったのに。
「人生は甘くないぞ」
身にしみる言葉だと思う。いや、現実的には、今は思う。が正しい言い方だと言える。僕は甘い。
「勉強しないと将来がないぞ」
将来って考えていなかった。いや、その時は、そう思った。が間違いだったかも知れない。
「将来なんて、ちょろいもんさ。」
都会に出れば、将来が見える。
都会に出れは、人生が変わる。
都会に出れば、僕はかわる。
「おい、しっかりやれ」
僕は、叱られた。
今日始めて会ったオジサンに叱られて、穴掘りに将来があるんだろうか。
力いっぱいにツルハシを振り下げた。地球に立ち向かっている僕がそこにいるんだから格好いいのかも。
僕の上には、青い空が広がっているんだ。
昔から、空はかわってないんだけどな。
「カア、カア」
カラスが僕に何か言った。
周縁の山々に豪雨を降らせた台風は行き去り、底が抜けたような高く明るい秋空の広がった日、増水している川を見物に出かけた。堤防上に立ってカメラ付き携帯をかざす人々に交じり、川に目を向ける。荒れ狂って白波立つ本流には、浮き沈みしながら次々と流れ来る工事用の青シートや流木が見られ、遠目に眺めていても引き込まれそうになる。一方、本流から溢れて河川敷に広がった水は、緑に覆われていたゴルフ場やテニスコートを泥色に浸しながら、静かに堤防まで押し寄せている。風が吹きつけた水面には細波が起こるほどの穏やかさだった。
堤防から河川敷へ降りていく道を、水面に近いところまで歩き、足を止めた。コンクリートのざらついた路面と、日を浴びて黄土色に光った平滑な水面、黒く濡れた波打際があり、その手前に屈み込んだ。指先を水に浸すと、予想していたより冷たい。河川敷に薄く広く溜まった水が幾日か流れずに滞っていたなら、日を浴びて温まるかも判らないが、きっと水は流れてしまい、青シートや流木や泥や砂が残されるだけだ。あるいは泥に取り残されて干からびる間抜けな魚などがいないものかと思い、今、水面下のことを考える。
穏やかな広い水面の下には鯉や鮒などの魚たちが身を潜め、荒れ狂った流れが収まるのを待っているだろうか。暫しのあいだ疲れた体を芝生に横たえたいが、魚であるゆえ転覆する訳にもいかずに、泥水のなかで静かに呼吸しながら身を休ませている。いつまでも穏やかな生活を続けていたいなどと悠長なことを考えているあいだにも河川敷から水は引いていく。流れに乗り遅れないよう慌てて泳ぎ始め、本流に戻れば、再び川上と川下を行き来する生活が待っている。川の流れに慌ただしく乗り降りする魚たちが、列車に飛び乗ろうと試みては弾かれていた数年前の僕と似ている、などと一瞬考えたが、ホームに取り残された僕が干からびることはなかった。一方、魚たちが流れに乗って移動することもなく、自分のヒレで水を掻いて進んでいる。かといって彼ら自身が列車だといえるほどには魚が大きく育つことはない。
川の水が線路だとすれば、魚たちがせいぜい保線用の軌道自転車くらいの大きさでしかなく、川から水が溢れれば、その水が行き着いた先、操車場のような広い水たまりで休み、水が引けば再び線路へ戻って走り始める、そんなことを考えながら水に浸していた指を引き上げて、静かな水面に目を向けた。
スラヴ人の建てたのがプラシボ王国で病は気からがノヴゴロド効果だったか? バタフライの人々が殺されたのはアルメニア理論だったか?
歴史の講義を受けてきたばかりなのにもうすでにさっぱり忘れている。もうすでに全てさっぱり忘れてしまっている。
電車に乗る。夜十時三十五分新宿発の丸の内線にはたくさんの人々、たくさんの民族が乗り込んできていて、ジャズだったりシャンソンだったり軽薄なロックだったりを演奏する。
ポスターのべたべた貼り付けてある、馬鹿でかいスピーカーの上に座ってノートを開く。
(こんにちの世界には、五千から一万数千の民族がある。宗教はその十倍、歌は数え切れない)
「ねえ、あなた、さっきあたしのお尻触ったでしょう。本当に、スケベなんだから」
黒い服を着たジプシー女がそう言って寄り添ってくる。
「お尻を触ったし、胸も触ったし、本当に、スケベなのね。本当にもう、スケベなんだから」
「ああ。ごめんな」
「本当に、もう本当に。そんなに大きくしちゃって。本当に、本当にもう困った人。」
「ああ。ごめんな」
ジプシー女は暑いのか服をするすると脱ぎ始めて。口紅が解け落ちていて。
檻の中には金色のライオンが居る。
そういえば聖堂の中にも檻があった。
花園の中にも檻があったな。
鏡に映したかのような自分そっくりの誰かが居た。
人の体や考えをどう継ぎ接ぎしても、どのように組み合わせても、どのような組み換えをしても、並べ替えても、聖堂に行けば同じような継ぎ目を持った自分が居る。
黒いベルトに縛られていて、そのベルトの光沢がなんとも言えず羨ましくて、檻の鍵を外して中に入り、うずくまって一晩過ごしたこともあった。
(誰か素敵なお話をしてよ)
丸の内線が止まる。ブルース。アメリカに着く。
アメリカ。アメリカ。アメリカ。
みんなぞろぞろと電車から出てきて、色々な民族の色とりどりの旗や食べ物やポスターやリボンや楽器や人形などを供え、だらだらと歌を歌う。
アメリカ。アメリカ。もう誰もいないアメリカ。
たくさんの花がどこまでも続くだけ。
色とりどりの花がどこまでも続くだけ。
(きちんと眠るから
誰か素敵なお話をして
もうなにもしないから
誰か、素敵な、それだけで眠れる話を聞かせて)
マリリンと一緒に花をつみ話を交わしながら、また電車に乗り込み新宿へ帰る。
ブルース。
時速六百キロ。
電車が走り出す。