第74期 #8

昔、一人の友達がいた。 彼は一見して陰気な青年だった。  彼は決して声を荒げて話すことはなかったし、笑うこともなかった。  いつも一人だった。 ある日、彼は僕に話しかけてきた。 聞き取りにくいその声から、彼がどうしてだか僕を賞賛し、尊敬しているということがわかった。 僕は適当に頷いた。
 その日から、彼は僕について回った。 しかし、当時の僕の頭の中には蟻がわいていた。 手に入る蟻はすべて採集し、それぞれの個体の色彩の微妙な違いに関する「研究」(当時、僕はそう呼んでいた)に夢中だったのだ。  彼は僕に常について回ったものの、蟻の群がりは決して彼に対する関心を許さなかった。
 時折、彼は僕に話しかけてきた。 ほんの些細のことだが、彼にとって口を開くのは非常な努力を要するらしく、まるで原稿を読むかのような調子で「今日は天気がいいね」などといってきた。 僕はたまに彼に答えたが、たいてい答えなかった。 それどころではなかった。  ある日彼がいつものようにたどたどしく話しかけていたとき、彼を遮り、僕は彼に「研究」について話した。  彼がそのときにどんな反応をしたかは覚えていない。 しかし、かすかに微笑んだような気がする。
 その日から、彼は僕の「研究」にもついてきた。  僕は彼のことについては何とも思ってなかった、ただ役に立つ、その程度のことだった。  実際、名前も知らなかった。 
 予想に反して彼は優秀な「研究家」だった。 僕が見たことのないような色をもった蟻を見つけることすらあった。  新たな蟻を探すため、遠くの森へ、山へ行くことがあった。 彼はいつもついてきた。
 僕らが「研究」をしているとき彼は決して話さなかった。 僕も、何も話さなかった。
 
頭が蟻から解放される刹那、彼と話すことがあった。 話したといっても、数語を交わせる程度だった。 今となっては、僕らが何を話していたかは何も覚えていない。  記憶するにはあまりに言葉は少なく、僕の記憶は蟻に蝕まれていた。

ある日を境に彼は僕について回らないようになった。 僕は、気づかなかった。 同じように、「研究」を続けていた。

彼が死んだと聞いた。

そのときはじめて僕は彼を愛していたのだと知った。 
蟻は消えた。



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