第74期 #28
眼鏡を掛けるようになって六年にもなるが、未だに違和感が付き纏っている。鮮明に見え過ぎてしまう風景と対峙することに僕は慣れずにいるのか、または、眼鏡によって印象付けられる自分の顔を、それは自分ではないと否定したいのか、いずれにせよ、レンズ越しに見ることと、見られることに違和感がある。必要なときには眼鏡を掛けるが、見えずとも問題のないときには裸のままポケットに放り込む。レンズには細かな擦り傷がつき、フレームもいくらか歪んでいる。
一度、横断歩道を走って渡ろうとしたとき、胸ポケットに入れていた眼鏡を、交差点の真ん中に落とした。新宿で皿洗いをしていた頃のことだから四年前の話になる。カツン、と軽い音が響いて、落としたことに気付いた。行き交う人々の脚の隙間から懸命に探してはみたが見当たらず、そうこうしているうちに信号は赤に変わり、客待ちしていたタクシーの列がゆっくりと進み始める。この速さなら、手を挙げればタクシーは停まり、その隙を見計らって眼鏡を拾うこともできようか、と考えていたときに、クシャリと眼鏡の轢かれる音がした。もっと大袈裟に窓ガラスの割られるような音を予想していたけれど、空缶が潰れるより小規模な、微かな音でしかなかった。信号が青に変わり、ああ、そういえば、俺の眼鏡はプラスチックレンズだった、と、思い出しながら、こんどは容易に眼鏡を見つけ出した。すでに眼鏡の体を成してはいなかったのだが、拾い上げ、眼鏡ケースに入れる。大事なものはいつも壊れてから大事だったと気付くよな、まったく、などとつまらないことを考えながら、歌舞伎町の細い路地をあてもなく歩いた。
先日、線路沿いの道を歩いていたときに胸ポケットから眼鏡が落ちて、僕は何も変わっていないと気付かされた。地上を走っていた小田急の線路が、高架へ移行する辺りで、隣りを歩いている人に何事かを話そうと考え続けていたが、発せられたのは「あ、眼鏡、落ちた」というつまらない台詞だった。いったいどういう状況のときに眼鏡を落とすのか、なぜ眼鏡を掛けようとしないのか、何のための眼鏡か、と話しかけられることを期待したけれど、僅かに立ち止まっただけで言葉はなかった。列車に乗せられて高架へ上がりたいとは思わない。眼鏡やその他を落として傷つけたりせずに、レンズ越しの鮮明な風景を見ていたい、普通に地上を歩き続けられれば、と、つまらないことを考えていた。