第74期 #19

ホテルオンザヒル

 丘の上に建つそのホテルは五年前に造られた。そして、三年前に経営を辞めてしまった。
 経営者の不幸だとも、客の自殺が原因だとも、暫くはこの小さな村で話題に事欠くことはなかった。
 私の家族は代々丘の下にある猫の額程の日当たりの悪い土地に住んでいる。私の父が丘の上から飛び降りた所為だろう。容貌悪い一人娘である私には始終悪い噂が立ち、結婚せずに私の代で一族は廃れるのだろうと常々思っていた。それで構わなぬとも。

 夜の獣道は名前の通りで何も見えぬ程暗く、道と砂利の境界は皆目見当がつかなかったが、何とか私は丘の上に着くと、廃ホテルの裏口に備わっている金属製の蛇口を捻り、持参したバケツを水で一杯にした。
 ホテルが経営を辞めてからは土地柄もあり、丘の下に住む私達以外は丘の上には行かぬようになった。内向的だった私が貯めた鬱憤を発散するには、母は余りにも草臥れていて、丘の上のホテルは恰好の遊び場になった。内装は大方そのままで、少し気味悪いのを我慢すれば自由に使える。水道水がまだ通っていることを見つけたのは随分経ってからだったが、泥の混じる井戸水に我慢していた母は、勿論私に水汲み係を命じた。

 私達母娘だけのこのホテルには、誰かが居るのかもしれない。時折、私はそう思う。いつも、無人にしては余りにも小綺麗で、生活感が溢れている。それに三階の端の部屋の窓に、人の影を見た気がしたこともある。
 ‥‥そういえば、私は一度もその部屋に入ったことがなかった。
 バケツを玄関に置くと、私は三階に行くことにした。慣れているから、蝋燭を灯す必要はない。
 蝶番が大分錆びていて苦労した。ロビーに置いてあった鍵を嵌め、凭れるようにして押すと、ぎしぎしと何かの擦れる音がして、そのドアは何年か振りに開いた。
 一瞬、光が眩しい気がしたが、部屋はやはり無人だった。眼が慣れると、窓際に並ぶ二つの鏡が月光を反射しているのだと分かった。至って普通の内装と調度品。気になるのは、いつもは閉まっている窓が半開きになっていることくらいだろう。
 所詮、寂れた廃屋。もしかしたらと、疾うに死んだ父と遭うことを期待していた私は愚者だったと思い知る。

 私は帰ることにした。母が待っている。
 小棚に小さな写真が置いてある。見知らぬ女の微笑。父の最期を見届けたあの女の面影に少し似ているような気もする。どこかでバケツの倒れる音がした。



Copyright © 2008 田中彼方 / 編集: 短編