第74期 #13

ある夏の日のことだった。 啓と呼ばれる少年は今日も父の車に乗って病院に向かっていた。病院に通っていたものの退屈な日々を繰り返していた。その日は雷が鳴りそうな天気で早く帰りたいという気持ちもあったのだろう。外から見える病院では殺風景な景色があり、どこか少し息苦しい感じがした。
 病室に着き、一緒に車に乗ってきた父が母に声をかけた。
「大丈夫か?」と。母は「うん。」とうなずいたが、心なしか日に日に声が弱まっていくのが幼いながらに啓は感じていた。
 その日の夜、祖母の家に一本の電話がかかってきた。
「もう虫の息だそうだ。」
母の容体が急変し、現在はいつ死んでもおかしくないということが父と祖母の言葉から啓は察していた。 啓はこのときなんとも言い難い複雑な心境に直面することとなった。
雷が鳴っており、その言葉を聞いていたのは布団の中であったため聞こえないふりをしていた。身近な人物の死を直面することになるかもしれないという感じたこともない悲愴感を感じていた。
 翌朝祖母から母の死の知らせを聞いた。不思議とこの時は妙にすっきりとした気持ちを持っていた。啓なりに大人になったのである。たださすがに親族と共に母の姿を見たときは啓も抑えることができなかった。祖父に「男は我慢しろ。」と怒られたのである。
兄が我慢していたため、啓も我慢したい気持ちはあったのだろう。ただこのときばかりは
悲しい気持ちがあるのかは分からないが、先に体が反応していて啓自身はどうすることもできなかったのである。 ずっしり濡れたハンカチを握りしめながら啓は母との別れを告げた。
 啓は今でも大事な日の朝は母の墓前を訪れることにしている。幼い頃母と一緒に過ごした記憶は多くはないが、それでも啓にとっては何ものにも変えがたい記憶として残っている。啓は家族とはいつも触れあうことを忘れず笑顔を絶やさないように心がけているようだ。悲しいときは突然現れる事もあることを学んだからだ。
「家族みんなで仲良く生きていこう。」妻や子供達に恥ずかしながらもなかなか言えない気持ちをいつか言えるようになりたいと思っている。



Copyright © 2008 野田 京介 / 編集: 短編