第74期 #11
N
隆明が家庭へ戻った事に、佑子は特段怒りを覚えはしなかった。彼の妻が事の始終に静観を保っていたのを知り、妻という生物に奇妙に感心し、と同時に、その噎せ返る様な家庭の臭いこそが、隆明との道行きの果てに自身が手にしたかったものだと気づくと、佑子は脱力してベンチに倒れ込んだ。
佑子の前に、小学校二年生位の少年と、その祖父らしき老人が立っていた。少年は何かを強請る様に上目遣いで祖父の様子を窺っていたが、老人は古木の如く佇立し尽くすのみであった。
S
晃は入社三か月目にして漸く初契約に漕ぎ着けた。彼の足掻きの言葉が、一人の人間の全財産を塵に変えたのである。が、それは晃にとって命を長らえる甘露であった。晃も客も、唯渇望していた。二人の溺者が、沈むまいと互いの手を必死に掴んでいた。
晃はコンビニで求めた缶ビールを公園のベンチで開け、祝杯をあげようと思った。ふと横目で見遣ると、初老の男が十歳位の少年を叱っていた。少年は黙って俯き時が過ぎるのを待っているが、男は彼の旋毛辺りを凝視したまま微動だにしないのであった。
W
沙代の左腕は未だ幾分の痺れを残していた。二の腕から手首の辺りにかけて絡みつく百足の様な傷跡と、病室を訪ねて来た男の顔が重なった。大人の男がべそを掻いた様に小さくなっている姿を、彼女は初めて見た。この度は私の不注意で、とか何とか言った彼の言葉は耳に残らなかったが、頭部を覆う包帯の隙間から見た彼の姿は、沙代の眼に焼きついた。そしてその男に呼ばれ、彼女は公園まで来た。何故誘いに乗ったのかわからなかった。だが残された傷を見ても、沙代はもう何も想わなくなっていた。
沙代が入口から公園の中を窺うと、一人の少年に、男が話し掛けているのが見えた。少年は何かを固辞している様であったが、男は尚も言葉を選んで、彼の心内を探ろうとしていた。
E
敏也の携帯電話は、先程から鳴り通しであった。が、その問い掛けに応えようとはせず、小刻みに震え続けるパンツのポケットに右掌を静かに乗せるだけで、街並みを食む夕陽に自身も呑み込まれようとしていた。
彼の視界に、紫の影が二つ揺らいでいたが、逆光の所為で模糊としていた。
M
青春を蝕まれた九歳の少年は、知らせの絶えて久しい母の面影を街行く人々に重ね、人間を蝕まれた老人は、輪郭の融解した物共に囲まれ、ジャージの尻に縫い付けられた、自身の氏名や連絡先の書かれた布の辺りを一心に掻いていた。