第73期 #8

見えない壁

 氷で薄まったレモン水を一気に飲み干してから昼飯の会計を済ませ、ファミレスを出る。もう十月になるのに日差しは鋭く、エアコンの効いた屋内から一歩外に出ただけで背中に汗が滲む。脳がぼやけ、寝る前の浮遊感めいたものが俺全体に襲いかかる。体がふらついた。
「渋谷さん、大丈夫ですか」
 後輩の尚美が俺の腕を掴む。
「大丈夫だ」俺は肩を一度上下に揺らした。「次のエリアはどこだ」
「次は南四丁目の二十八世帯ですね」
 地図を見ながら尚美が言う。
「そうか」俺はハンカチで汗を拭いた。「庭付き一戸建てばかりだな」
「売れますね」
 温暖化と騒がれて久しいが、俺の営業成績向上には無関係だと一昨年までは考えていた。去年から秋の猛暑日が増加し、俺らが売る家庭用の小型散水機の予約が大幅に伸びたのだ。不謹慎なのは言われるまでもなく心得ているが、しかし俺らにしてみれば温暖化様様だ。
「どうかな」経験が俺に疑問を投げる。「この世帯は倹約家も多いらしいぞ」
 営業に出る前に事前に販売データを確認する。尚美にもそう教育してあったが、新卒でこの夏から営業に配属された彼女には、まだそこまでの余裕はない。地図を折り畳んでハンドバッグにしまう尚美の顔は、しかし楽しげだった。今、彼女の頭の中では、かなりの数の散水機の契約を終えたに違いない。俺はまだ、一件も契約が交わせていない。汗が背中をまた濡らす。

 惨敗だった。
 心で売りまくっていた尚美は、現実とのギャップに動揺を隠せない。目尻が下がり、鼻で呼吸ができない風邪をひいた子供のように口が半開きだ。昼に来たファミレスに再び入る。ドリンクバーで淹れたアイスティーを一つ尚美の前に置いた。
「渋谷さんの予感、的中しちゃいましたね」
 しちゃいましたね、と笑って誤魔化したかったのだろうが、不安げな目元と楽しげな口元が奇妙な共存をみせた。
「いつもいってるだろう」内ポケットから煙草を出す。「こんなもんだ、営業なんて」
 俺はふと、彼女の年の頃の自分の姿を思い出す。当時の俺ははたしてこんなに真剣に営業に向かっていただろうか。煙草を持つ手を見る。十二年前と違うのは、煙草の銘柄だけだと気づく。
「尚美」
 彼女の表情に、もう不安は宿っていなかった。俺は昔と変わらない。だが、尚美はそうじゃない。俺にはまだ、希望があった。
「南五丁目は気合入れるぞ」
「覚悟してます」
 尚美が、笑った。
 少し湿った煙草に、俺は火をつけた。



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