第73期 #6

果実の子

 痴漢の目は、見ればそれとすぐ分かる。油を点眼したようにぎらぎら光るから。葉子は大阪環状線外回り、三両目の隅で思った。向かいの男が、執拗に下半身を押し付け荒い息をしている。
 葉子は考える――ぎりぎりの電車に乗ったから、今降りれば学校に遅刻する。それでもいいかも、今日は指されそうなのにリーダーの和訳をしていない。それに、今朝覗いたお弁当のおかずは大好きな豚の生姜焼きで、窓の外はお弁当日和だ。埃っぽい灰色の教室で食べるべきじゃない。豚に失礼だ。
 そうして葉子は途中下車した。ホームで病欠の電話連絡をすると、事務の女性は親切そうに言った。
「季節の変わり目ですからね、お大事に」

 開店直後のデパート。屋上の人影は疎らである。赤・白交互に彩られた古びたパラソルは、雨のあとが茶色く線になり、柄には錆が浮いている。コインで動く玩具の乗り物は、ほとんどが一時代前のものであるようだ。葉子は財布から百円玉を取り出すと、ゴワゴワして不潔そうなライオンに跨った。硬貨を落とすと、小さなスピーカーから間抜けな音楽が鳴り、ライオンが四肢をギシギシさせて歩みだした。
 オーバーオールを着た小さな男の子が、おぼつかない足取りで葉子とライオンに近寄ってきた。晩秋のやさしい陽を浴びて、男の子の丸い頬・その産毛が黄金に輝く。彼は幸せな果実のようだ――葉子は彼を勝手に桃男と名付け、急にかわいい桃男が欲しくてたまらなくなった。母親らしき女が煙草を買う隙に、葉子はチョコレートで釣って桃男を盗むことに成功した。

 桃男を抱いて、葉子は走る。光より速く。実際は時速十二キロくらいで。小さな公園に着いた。急に不安になった桃男はぐずぐずと泣き出した。葉子はちょっと悲しくなり、桃男もきっとお腹が空いているのだと結論づけた――そう、大人も子供も、感情と胃袋はダイレクトに繋がっているもの。葉子は急いでお弁当箱を開けて、豚の生姜焼きをすすめる。桃男は火がついたように泣き出し、暴れた拍子にお弁当箱を払い落とした。豚もご飯も、千切りキャベツも砂にまみれた。陽はかげり、果実はもう幸せではない。

 私のお昼ご飯はどうなるのだろう? そして、貴重な犠牲である豚と、六時起きで豚を焼いたお母さん、有機農園で娘のように愛情を注いでキャベツを育てた何某の立場は? 葉子は夢中で落ちたものをつかみあげては、男の子の口に突っ込んだ。彼はとても静かになった。



Copyright © 2008 森 綾乃 / 編集: 短編