第72期 #2

ケセランパサラン

 その漫画家はとても寡作で、30年の間にわずか6冊の単行本しか出していない、という事実を知ったのはファンになって数時間も経っていない日曜の昼間だ。インターネットとはつくづく便利なものだなあと、いずれ後悔する時間の浪費をしている。
 バッグの底から、借りっぱなしの、表面に黒いしみが出来ていて香ばしい匂いがする漫画本を発見したのは土曜日の夜だ。バラエティー番組で世界のアニメブームについて取り上げられていて、春日部に住む友達から、強引に自分の好きな漫画を薦められ、渡されたのを思い出した。マジンガーZを合唱する、フレンチ、イタリアン、ジャーマニーの熱狂を余所目に、使わなくなった中国製定価二千円也のバッグを探している。
 地べたに置いたCDケースをうっかり踏んでしまい、「ぱきっ」といやな音がしたのは、3ヶ月前の金曜日の深夜で、またやってしまった、と思った。特にそれがBLUE NILEのアルバムだったので、今まで以上に落ち込んで、白く入ったケースの疵を未練がましく撫でている。

 そもそも、CDケースを割ってしまったのは、ご飯を食べていたらエグイ外科手術の映像がブラウン管に突如現れたからであり、チャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばしたときに醤油さし――ならぬ、ひとり暮らしの不精で、容器に移さなかったペットボトルの醤油を倒してしまったからであり、畳にはこぼすまじ、と近くにあった安物のバッグで取りあえず拭いたが足りず、雑巾が無かったので、窓際にあったバスタオルも犠牲にしようと立ち上がったからであった。

 もうテレビは見ない、と心の中で宣言したのは、あの日とあの日とあの日だ。しかし気付くと見ていて、そんなとき「禁煙するぞ」といつも言っていた父を思い出す。「だったら最初から、吸わなければよかったのに」と侮蔑の視線を送った自分を思い出す。今はテレビに加えパソコンもフル稼働中である。
 プールの授業にでたくなくて、気持ち悪いと嘘をついた日だ。両親が働きにでて、ひとりだった私はマンションの屋上に出て、空を見つめている。すると眼前に、白く小さな光が無数に漂い、きらきらと踊った。綺麗だった。気持ちがよく、そのまま眠りたかったけど、家に帰らなきゃと堪えた。
 その小さな光は、ケセラセランとかいうのだと教えてくれのは誰だったか。
 
 父は健在で、私はときどき風邪を引く。煙草は、私は一生吸わないだろう。たぶん。
 



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