第72期 #16
午前二時。今日も隣の部屋から響いてくる。
コンコン、コンコン
いったいこんな夜中になにをやっていのだろうか。毎晩毎晩壁を軽くたたく音が響いてくる。
隣人が引っ越してきてから三日たつが、あいさつもなくずっと部屋にこもりきりだ。ドアが開く音もしないし、人が移動する気配も感じ取れない。壁をたたくのだから人がいることには間違いないのだが。
翌日、いつも入れ歯を入れ忘れる管理人に聞いてみる。
「二○三号室に引っ越してきた人ってどんな人?」
質問したぼくがバカだった。管理人はハヒフヘホしか言えていなかった。代わりに部屋鍵をわたされた。
鍵を開けて部屋に入る。閑散とした白い部屋を見渡す。何もない。でもなぜか惹かれた。
カーテンのない大きな窓から暖かい夕日が差し込み、畳から独特な香りがたちのぼる。
ごろんと横になる。天井を見上げる。心地いい。
ふとぼくの部屋側の壁に目線を向けると、点々と爪あとが残っている。その爪あとを指でなぞる。
そのとき初めて気づく。ぼくの爪の中に白いカスがつまっていることを。これは壁の破片だろう。
ぼくは不思議と恐怖心がわかなかった。むしろ「なぜぼくがたたいていたのか?」という疑問しかわいてこなかった。
唖然としていると隣のぼくの部屋から人の気配がした。壁に耳をあてて盗み聞きする。だれかがすすり泣いている。
聞きなれた声、とても悲しそうに声を殺して泣いている。だれにも頼ることができず、誰にも悩みを打ち明けることのできない苦しさ、隣人にまで気をつかってしまう小心、生きていること自体辛く、でも自殺する勇気もないなさけなさ。いろんな枷が重なって泣いているのはぼく自身だ。
過ぎ行く毎日をただ淡々と過ごしていて気づかなかった。こんなにもぼくが心に重い荷物をかかえていることを。毎晩毎晩泣いていたことを。辛さ、苦しさ、むなしさ、悲しさ、それらを一人で抱え込んでいたことを気づかせてくれた。
一週間後、隣の部屋に男が一人引っ越してきた。ぼくは隣人があいさつにくる前に「ありがとう」とお礼を言った。