第72期 #13

「君にソウダ水を捧げたい」

 霧の都に、人間のフリをした一匹の猿が降り立つ。まいねいむいず猿山! とパスポートを差し出すと、それは手書きであったのだが見事に空港を通過した。
 道路沿いに町の方へ歩いていくと、黒塗りの長い車がやってくる。

「猿山さん、探しました。姫がお待ちです」

「のん! 遅れると伝えてくれ」

「しかし姫はグレますぞ、よろしいか」

男は食い下がる。しつこいので、猿山はスーツを脱ぎ捨て猿となって倫敦へ一目散に翔けていった。11年前の土曜日であった。


 ある時、猿山と古田さんは虎ノ門の喫茶店にいた。加山雄三がかかっている。今日はこのあと二人で天才音楽家の演奏でドビュッシー「ピクイク」を聴く約束なのだった。

「珈琲?」
「今日は、ソウダ水で乾杯しようぜ」
「ソウダ水?」
「ああ」
「なにに乾杯しよう」
「お嬢の健康と……お嬢が切符をなくさずに持ってきたことについて」
「いいわよ」
「ソウダ水ふたつください!」

 猿が注文すると接客係は三つ矢サイダーの瓶と氷の入ったグラス、カットレモンを持ってきた。ふと、腎臓炎で炭酸水を何杯も飲まされて弱っている森茉莉のところに、007のように忍び込んだ妹がごくごくっと炭酸水をのんであげた話を古田さんは思い出した。

 乾杯して二人でソウダ水をごくごくっと飲んだ。

 古田さんは久しぶりに猿と会う。結婚して姓も変わっていたけれど、猿に会うときは婚前苗字のつもりでいる。自由な気がした。

「プリンセス……」

 猿がソウダ瓶を握りしめ、呟いた。古田さんは嬢と呼ばれても姫と呼ばれたことはない。女がいるんだ、と思って唇を噛んで抗議してみたけれど気がついていない。

 猿山は思い出していた。11年前の8月31日。日曜日だった。ダイアナ姫が殺された。本当は猿山とデイトする予定だったのだ。そうしたら必ず守っていただろう。空港の諜報員たちにうんざりして、姫に会わず日本人柔術家と英国人格闘家の試合を見にいったのだった……。
 猿山は亡くなった英国の姫にこっそりソウダ水を捧げ、そして、2008年8月31日の日曜日は、こうして東京の嬢をきちんと守っていることに満足を覚えていた。

 事情を知らない古田さんは怒っていたが、

夫を忘れてサルをみよ
サルを忘れて首にのれ
首を忘れて空でもみよ
空も忘れてサルを知れ

 猿が出鱈目に歌うのを聞いていると、女の一人二人なんてどーでもいいわ!と思えてきたのだった。

 その後、二人は演奏ホールへ出かけた。


Copyright © 2008 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編