第71期 #13

林先生

 林先生と初めて会ったのは家の近くの居酒屋だった。隣の席に坐っていた先生と意気投合して盛り上がったのだ。
 先生は六十歳過ぎくらいの白髪頭で、話がとても面白い。漢文に詳しいそうで、話しているうちに一度先生のお宅で教えてもらうことになった。
 約束の日曜日に一人暮らしだという先生の家に伺って、畳の部屋でお茶を飲みながら講義をしてもらった。まあ、寺子屋のようなものだが、これがとにかく楽しい。それでいて含蓄があって、すっかり気に入ってしまった。
 それからは毎週日曜日の朝九時から先生に講義を受けるようになった。教科書は中国書の専門店で買ってきた『説文解字』という古い漢字の辞書なのだが、文章が簡潔で解りやすい。それなのに奥が深く、次々と目から鱗が落ちるような話が出てくる。
 授業料を差し上げたいと言ったら、入門の際には「束脩」といって乾した肉をいただくことになっているとおっしゃる。次の週にビーフジャーキーを持って行ったらとても喜んでくれた。それ以来、月に一度くらい、いろんな種類のビーフジャーキーを持って行くことにした。
 こうして半年ばかり経ったある日曜日、いつものようにお宅に伺うと玄関口に異様なものが立っている。姿がはっきりせず、目も鼻も混沌としているが声と雰囲気は先生に間違いない。何事もなかったように教室代わりの和室に向かうので、度肝を抜かれたままふらふらとついて行き、そのまま授業が始まってしまった。
 授業そのものはいつもと変わらない楽しいもので、口調も同じだったので、話の合間に、勇気を振り絞って聞いてみると、先生が答えた。
「実は、私は定まった形を持たずに生まれてきたので、いつも人間の皮をかぶって生活しているのです。ところが、昨夜、書を書こうとして墨汁をひっくり返してしまい、すっかり皮を汚してしまいました。あいにく予備の皮を洗濯に出してしまっていたのでかぶる皮がありません。そこでこんな姿でお目にかかることになりました。今日は、よく知っているあなたに会うのですから、墨汁で真っ黒になった皮をかぶっているよりはと、皮をかぶらずにお目にかかったわけです」
 私は納得したふりをしたが、動揺を隠すことができなかった。

 次の日曜日、恐る恐る先生のお宅に出かけてみると、不在で、雨戸も閉まっていた。その後、何度寄ってみても誰もいる様子はなく、そのうちに家も取り壊されてしまった。



Copyright © 2008 小松美佳子 / 編集: 短編