# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 嫌いなこと | SKY | 816 |
2 | 世界平和 | 藤澤マイコ | 782 |
3 | 恋の花 | ゆきかおり | 900 |
4 | 小枝の話 | 14番 | 934 |
5 | つぶらな瞳にアイラブベイベー | え? | 335 |
6 | 月の上で | あき | 944 |
7 | 隣家 | MoNo | 938 |
8 | 微過失 | 藤袴 | 1000 |
9 | 恋愛の通り道 | 菜月 | 1000 |
10 | 夏の剣 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
11 | 島 | わら | 1000 |
12 | 傍ら | 壱カヲル | 1000 |
13 | キュウリ | 森下紅己 | 977 |
14 | 擬装☆少女 千字一時物語32 | 黒田皐月 | 1000 |
15 | 画一世界 | Qua Adenauer | 846 |
16 | 瞬き | K | 1000 |
17 | 熱海と現実 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 994 |
18 | エレキ発電所映画祭 | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
19 | 夏の散歩 | かおり | 288 |
20 | 八月の光 | 三浦 | 999 |
21 | イリュミナシヨン | qbc | 1000 |
22 | 犍陀多の背中 | bear's Son | 1000 |
夏になると憂鬱になる。台風が来ると高揚する。そして、秋晴れが続くとまた憂鬱になる。晴れが嫌いなのか? しかし、西高東低の冬が来て、寒い晴れが来ると何とも思わない。
新聞を見ると、落ち込んだ。今は晴れているが、午後雨が降るという天気がいいなぁと思ったが、今日は一日中曇天だった。降水確率は20パーセント。
しょうがないので、早退する理由でもおきないかなぁ、と思いつつ着替えた。念のため熱も測った。平熱であった。
グズグズしていると遅刻しそうだったので悪あがきをやめて、出発した。
「行ってきます」。
中学校までの十分間、平坦な道。ノロノロとカバンを背負いつつ歩いた。自転車が猛スピードで駆け抜けていった。そんなに急ぐ必要があるかなと思って、時計をふと見て、「やべぇ」と走り出した。只今、八時二十八分。ホームルームまであと二分だった。
ギリギリで駆け込んだ。担任はたまに早く来るので焦った。そんなことが杞憂に終わってよかったと思ったのも束の間、ホームベースの顔をした担任が入ってきた。
「この後水泳だけど忘れ物している奴はいないよな?」ホームベース(以下「本塁」)は見渡しながらに言った。
「僕の水泳パンツが無いんですけど……」声が後ろの方から起こった。たちまち、クラスはしーんとした。アヒルと呼ばれているそいつはクラスの嫌われ者だ。ひどいことに、「自分で探せ」と本塁も言った。実を言うと、海パンは誰かが隠しているのだが、アヒルも知っているのか、本塁にそれ以上言わなかった。言ったところで、本塁が担任とは思えない、ひどい扱いをするのだから。
気づいているかもしれないが、水泳が嫌いだ。泳げないというわけではない。太もものキズを見られたくないのだ。右足の太ももの裏に、十字架のようにあるそのキズは、生まれつきあるらしい。どんだけ母親の中で暴れたのか知らないが、とにかく生々しい。持ち主の自分でさえ目を逸らすほどなのだから。
「あ、雨が降ってきた」
M子は久しぶりに実家に帰り、一泊して翌日朝、もうすぐ定年の父と一緒に家を出て、仕事に向かった。駅までおよそ15分の道のり。35歳独身で仕事しかしてこなかった娘と父の間に、今更会話も何もない。でも、不仲でもない。そんな父が口を開いた。
「あ、いつもの女の人がいる。今日もいるな。」
うれしそうにいう。みると、40代くらいで細身の、髪の短い女性がバスを待っていた。特に目立つ様子もなく、スーツ姿で、見たところ通勤でバスを待っているようだ。
「何、お父さん、そんなこといちいちチェックしてるの?ストーカーっぽいよ。」
「そんなんじゃないさ。ただ、毎日同じ時間、同じ道だろ?同じ風景や同じ人がいることは安心感があるんだよ。」
父はさらに照れくさそうに付け加えた。
「これが世界平和のひとつ?ってな・・・・。」
父は自分の言ったことに少し気まずくなったらしく、黙った。M子は気にもせず、電車に乗った。だが、電車に揺られながら、はっと気づいた。
昨日、同僚のT男が言った言葉だ。
「俺と結婚するつもりで付き合わないか?」
飲み会での言葉に多少驚いたが、酔った戯言と思っていた。だって、T男は入社以来の同期で仕事も一緒。小さな出版社で、仕事量もハンパじゃない。辛くて苦しいときをさんざんノーメイクで過し、みっともないところを見せている。助け合いもしたが、罵り合いもした。だが、一緒に仕事してやりやすい。遠慮もいらない、性格もよく知っている。それはお互い様だ。もはや異性でも、色恋沙汰というより、日常だ。
「安心感か・・・。T男もそれ?」
社内恋愛は仕事のじゃまだ、と思いつつ、そのことについてどうしようと迷ってる自分に気がついた。
「世界平和ねぇー。お父さん大げさよ。」
今日T男はどんな様子だろう、いつもと同じ挨拶してくるのだろうか?
M子は心が躍るのを感じていた。でも、冷静を装い、職場に向かった。
最初は苦手な人、としか印象がなかった。
百合子は新宿のラブホテルでフロントをしている。系列店がすぐ近くにある。
早番の仕事に慣れ、仕事にもやりがいを感じ始めた頃、遅番の異動辞令が来た。
30歳とはいえ、独身の百合子は遅番への異動をためらった。体力的にも酔っ払い相手にもどうなのか不安だった。
系列店の遅番のフロントは、古株男性社員だが、これもまたくせ者だ。皆がつけてる陰のニックネームは「独裁者・細谷」。
百合子より2つ年上だが、更にずっと年上の40代50代の清掃員にすら細谷はキツい発言をする。何々をする!あれをする!言われたことはさっさとやる!…といった言い方で、それを真面目に仕事をしている者にまでキツい口調を変えず、一事が万事、俺様流といったイメージだ。細谷にとって世界は自分が中心のようだ。更に、仕事が出来るからややこしい。
百合子は異動をする時、真っ先に細谷に挨拶をしに行った。
「遅番はキツいからね。頑張ってね」
と、言われ、(あなたがキツいのでしょう)と内心言い返した。案の定、異動初日から細谷の鬼のしごきが始まった。
何でも「ハイ、ハイ」と素直に返事をし、言われたことを必死でこなす。たまにミスなどしたら独裁者の言葉のパンチが飛ぶ。
心の中で泣いて顔は笑顔で日々をこなす。
遅番明けの朝は売上を合算するため、独裁者のいるホテル行く。
言葉のパンチが少なくなった頃、百合子は細谷の動きに心が惹かれた。ふと見た時に気づいた。
細谷の、茶道の動きを思わせるような、小指にまで神経の行き届いた所作に美しさを感じた。
細谷に袱紗や指揮棒を持たせたら相当似合うに違いない。
百合子は細谷の動作を毎日観察するようになった。美しい動きに彼の世界観が現れてるように思えてきた。
彼は自分の仕事と職場を愛していると思う。愛が美しい動作をさせている。
百合子はいつしか、仕事中にかかった電話を取ると、それが細谷の声だと心が明るくなった。美しい動きの細谷に、恋に落ちた。
職場は社内恋愛が禁止であり、ましてや百合子の片思いだ。
百合子の思いは報われないかもしれない。
恋の花がいつまでも美しく咲いていることを願って、百合子は今日も仕事に打ち込む。
「王様、白髪が・・・」
「・・・・・そうですか、もうそんな時期ですかか」
「まだあまりに早過ぎます!」
「いいから、いいから早く皆に伝えなさい。そして明日の朝までに準備させなさい。」
「かしこまりました。しかし本当に・・・」
「私も一度は通った道です。立場は違いましたけどね。これ以上の衰えを見せるわけにはいきません。」
「はい・・・」
「たしかにもう少し生きたいとは思いますが衰退した実例もいくらかありますからやはり国民が一番大事です。」
丘の上には小屋が建てられ、小屋の周りには幾百の兵士が配備されました。私はその小屋の中でその時を待ちます。
「さて、どのような方がここに来るのでしょう。できれば一度で来てほしいものです。どんなかたちであれ人が傷つくのは私は嫌です。」
こんなことをいくら呟いても私にはどうすることもできないことはわかっていました。私には何も出来ない。
金属と金属がぶつかる音がすこしずつ近づいてくるのがわかります。
「どうかこのような事がもう行われませんように。」
私はそう呟きましたが、本当にそう思ったかはわかりませんでした。
乱暴に扉が開かれましたた。入ってきた一人の男はその扉を丁寧を閉めました。男の顔はよく見えませんでしたが兵士とは違う甲冑を身に纏っていたのでこの男で間違いないことはすぐにわかりました。私は準備してあった剣を手にしました。
「王様、私は王様が自然死すると国が衰退するだなんて信じたくありません。」
驚きました。まさかそんな事を言われるだなんて。
「だから王様は逃げてください。」
「しかし・・・なにか証拠と言うかその・・・」
「大丈夫です。私がどうにかします。」
私は迷いました。本当にこの男を信じていいのか。私はいつの間にか手にした剣を置いていました。私は信じたいのかこの男を。
「わかりました。こちら側から外に出れば兵士はいません。私はいきます。あなたの為にも決して見つからないように。」
「はい。」
しかし私がそこで男に背を向けたのは間違いでした。
「信じたくはないですが本当に国が衰退したら困ります。私は王様がかつて剣術の達人と謳われていたことも知っています。」
そういうことか
私と同じだったなんて少しも気づきませんでした。不思議なものです。
翌年は豊饒を迎えた。
夏は良い季節ではあるが、溢れんばかりに湧き出す性欲の暴れようにはまったくもってうんざりする。それが夏の風物詩と言ってしまえば確かにそうなのだろうが、しかしやはり濃厚な欲望を眼前にすると顔を引きつらせてしまうものである。
「愛してるわよん」と、勉強机に居座るミニチュア七福神さんに語りかける。それからなんだかイライラしてきて、「このやろう、ニヤニヤしてんじゃねえよ」と怒鳴りつける。でもミニチュア七福神の皆さんに拳をあげたり、唾をかけたりはしない。なんだか、そういう天罰みたいなものに妙に敏感になってしまうのだ、夏という季節は。
「ええい、じゃかあしいわ」と、沈黙の中叫び、七福神の皆さんの後ろにあるピサの斜塔の模型を手に取り床に叩きつける。ううむ、これは性欲の一種であるか。
幾重の願いを掛けたくなる、月。夜の中に儚く浮かんで、あたかも微笑んでいるかのように暖かく、優しく光って、その美しき月光を、夜道いっぱいに降らせて。
だけど……そんな月の実体は。石と砂、幾つものクレーターのみが存在する、寂しい世界……
――或る時、そんな月に、一人の少女の魂が現れた。少女は暫く目蓋を閉じていたけれど、やがてゆっくりと開いた。
「? 此処は……」
私はさっと起き上がると、辺りを見渡した。音の無い、石と砂、幾つもの窪みだけの世界。青い筈の空は、真っ暗で。だけど、幾つかの星がぽうぽうと光っている。
私は声を上げずに笑って、呟きを零した。
「約束のとこに、来れたんだ……」
そして、遥かに遠いあの星……地球を見詰める。
初めて遠くから見るな……青くて、キレイ……私はあの星で、生まれ育ったんだなあ……
そう思うと、胸の中がキュウ、と痛くなった。だって……私は、もう……。今頃、皆どうしてるんだろう。私の体……もう、燃やされちゃってるかな……
考えれば考える程、あの星に帰って息をしたくなる。地球から離れた月に居て、息が出来ないけれど全く苦しくない私が思っても思うだけ無駄なこと、知っているのに。
「さゆ、あれが月だよ」
ふと、大切な人……灯の声が、頭の中で響く。
……灯は……あの星で生きている間、何時も私を憶えていてくれるだろうか。想っていてくれるだろうか。……ああ、こんなこと、思っちゃ駄目だ。そう思うのは、灯を苦しめることに等しいことなのだから……。
私は灯たちの居る青く輝く地球を見詰めながら、その場に座って目を閉じる。
その時、目蓋の裏に、ラベンダーの花が浮かんだ。……この花……灯にあげようとした。
「――灯、私、灯にあげたいものが有るんだ」
「ん?」
「はい、……ラベンダー」
「さんきゅ、でも何で?」
「ラベンダーには、……うぅっ」
「さゆ!」
――結局……灯にラベンダーの意味を教えてあげることも出来ずに、発作起こして、死んじゃったんだっけな……
灯はそれでも、約束……憶えていてくれるかな? 灯なら絶対、憶えていてくれるよね。
私は再び目蓋を開き、変わらず青く輝く地球を見詰めた。
――ラベンダーの花言葉。
「あなたを待っています」
――待ってるよ、灯。約束の、月の上で……
近頃、隣家が騒がしい。
午前中の隣家の騒音は、休息の間さえ与えず、うるさかった。午前中いっぱいまで、主婦の笑い声が聞こえる。他人の話など聞かずに、雰囲気に合わせて頷き、自分の話す機会を覗っている。愚痴、世間話、無駄知識、タレント・・・。午前中の彼女達はどこまでも元気な喋り場を持っている。
五月。
蝉の喧騒には程遠い。窓から見える近くの道路。少し視界で追い続けると、曲がり角が見える。その角に立つ、縦長の鉄看板。黄色いヘルメットを被ったおじさんのイラストが施されている。下水道の整備の看板だった。午後からその作業が始まる。実在のヘルメット達が一斉に動き出す。隣家の騒音は、外のドリルで掻き消されていた。
午後に見える隣家の影は、主婦ではなかった。
それは大きな体格をした男性だった。隣家の夫は毎日のように午後帰宅するほど、夫は偉くなさそうだ。重役なんて、もっての他だ。とすれば、あの男性は誰だと言うことになる。次第に、わくわくしてきた。
まさか、密会か?
忌憚な性格なら、これ以上言及しないが、そんなことを考えるのが悦になっていた。きっと密会が発展した先に、不倫と言う、いかがわしい所に行き着くのだろう。妄想がまた、一つ膨らんでいく。
ふと、窓から手をはなす。
首を回し、顔を振った。昼食が無いことに気付き、カップヌードルを作り、食べた。昨日と同様、テーブルにカップヌードルの抜け殻を重ねて、再び窓に手をかけた。テーブルには十個単位でカップヌードルの抜け殻が並んでいた。
子供達が帰ってくると、大きな男性の影は消えてしまった。
子供の空腹の叫び。冷蔵庫を捜索する音がした。
黄色いヘルメットのおじさんたちはサボり癖があるらしく、四時と言えば作業をやめて帰ってしまう。
そのせいで工事は長引き、税金を長期的に消費することになる。一方で、隣家の迷惑な騒音は消滅する。両者の結果が中和して今日も工事に対する感情はなく、隣家を眺めていることができた。
夏が来て、静かなところに引っ越した。
騒音問題には到底懸け離れた場所だった。蝉の音も皆無だ。コンクリート壁や部屋が狭いなどの不満はあった。そして何より、窓が無かった。なんだか落ち着かなかった。
そして、いつまで経っても、自分がストーカーであることは自覚しなかった。
ついうっかり、と過失を起こしてしまう事がとても私には多い。もう一枚洗い場の皿を取れると思って手を伸ばしたらもう片方の手に持ってた皿を割ってしまったり、パソコンで作成していた書類を立ち上がった際にキーに手を当ててしまい誤ってソフトを終了させてしまいしかも保存してなかったので打ち込んだ文を一瞬で消失してしまったり、という事が私はとても多い。昔からだ。全く学習しない。今までで幾つの損害を私は周りに与えてきたのだろうか?悲しくて頭を抱えてしまう。「生まれてきてごめんなさい。」と、ミスを起こすたび心の中で思うのが癖になってしまうほどに。
しかし今までのミスは損害をそれなりに出したが自分が弁償・補償・謝罪すればなんとかなる類の物ばかりだった。皿はまた買えばいいのだ、書類はまた打ち直せばいい。うっかりによる過失はなんだかんだと言ってたかが知れている。自分が責任を持って後始末すればいいのだ。(そういう考え方だからきっと学習しないのだ。私は。)人生は結局なんとかなる。死にたくはなるけど。と、嗚呼今までそう思ってきたのに。このミスは流石に、どうしようもなくて。…過去私と同じような過ちを起こした人はいるのだろうか?居たら話を聞きたい。どうやってこのミスを対処したのか。と聞きたい。とても聞きたい。その人はどれほど謝ったのだろう?どれだけ後悔したのだろう?あまりに苦しいミスだからもしかしたら他人の所為にしたのかもしれない。
パソコンのモニターを見ながら片手で机の引き出しを開けた。引き出しの前にはたまたま妊娠中の上司が立っていた。そんなに強い力で開けた訳ではないが、一番下の大きな引き出しだったためか、それは上司の大きなお腹に当たり彼女は蹣いて、傾いて、仰向けになって、悲鳴、周りが駆け付けた、そして今床は血まみれだ。
嗚呼!どうしよう私が非難される。前方を見てない私が悪いと。私は引き出しを開けただけなのに!ああ、許してくれるだろうか。上司が「いいのいいのまた作るから気にしないでね」と言ってくれるだろうか。そしていつもみたいにみんな私を許してくれるだろうか。もし自分が補償するとなれば私が子供を産んで上司にあげればよいのだろうか。上司はしきりにお腹を押さえて呻いている。この血で汚れたカーペットもひょっとして私が弁償しないといけないのだろうか。遠くからサイレンが聞こえてきた。生まれてきてごめんなさい。許して
「どうしてなの」
そう彼女が問うた。
答えられるはずがない。
答などないのだから。
彼女の勘違いに過ぎない。
しかし、説明するのはひどく面倒だった。
無言が、彼女にさらなる疑問を呈させる。
「それは肯定なの」
ため息をひとつ。
彼女をさらに不安にさせると分かっていて
それでも、ため息をもうひとつ。
彼女は長い黒髪をかき上げる。
形のいい耳が露わになる。
それが気を奪う。
美しい、聡明な人だと思う。
けれど、僕はそれと対照的な人間だ。
彼女のように巧く言葉を操れたなら
彼女のように論理的思考ができたなら
彼女をこんなにも不安にさせることはなかっただろう。
けれど、僕はそんな人間ではない。
彼女を抱きしめたい衝動に駆られる。
それで、彼女の不安がそれで払拭できるなら
それで、この沈黙が終わるなら
そうするのに。
今度は彼女の唇からため息が零れた。
彼女の唇が艶やかに光る。
いつも、それに気を奪われる。
自分が彼女に惹かれていることを、感じる。
けれど、彼女にはそれは伝わらないだろう。
「何故、黙っているの」
哀しげな声が彼女から零れた。
そんな声を出させたくはなかった。
それでも、僕には沈黙しか方法がなくて。
聡明さが、こんな時だけ欲しくなる。
「違うんだよ」
ようやく、その言葉を紡ぎ出した。
それが、限界だった。
「何が、違うの」
「とにかく、違うんだ」
彼女の誤解を解きたくて。
でも、その術を僕は持ち合わせていなくて。
もどかしいまま時間は過ぎていく。
雨が降っていた。
美しい人は僅かに雨に濡れていた。
僕はその湿った髪を見つめていた。
そして、それは終わった。
突然に。
彼女が立ち上がり、玄関へと向かう。
僕はその背中に掛ける言葉を持たず
ただ、無言でその背中を見つめた。
彼女は華奢なミュールにその美しい脚を入れて
そして、意外にも微笑んで振り返った。
彼女は、僕の分までも、ひどく聡明で。
そして、一言、美しい唇で呟いて去っていった。
そうして、日常が戻ってきた。
不思議なことに。
僕は言葉を持たなかったのに。
彼女は、僕の隣に居続けた。
以前と変らぬままに。
聡明な彼女は、僕の一言だけで真実を信じてくれたのだろうか。
あの日、彼女は言ったのだ。
「違うならそれでいいのよ」
そんな言葉で疑惑を許せる女性を、僕は他に知らない。
そして、言葉を操る術も僕は知らない。
どうして、恋愛は、それでも成り立っていくのだろうか。
言葉を操れない僕は、それを問う術を持たない。
それでも、恋愛は通り過ぎていく。
我が秘剣をムチの如くしならせて背中へ、左胸とみせかけて右脇へ、逃げるとみせかけて攻め込んできた彼女の剣を巻き込んで、自分のを相手のへそにすべりこませる。
実戦を離れて10年たっていたが、フェンシングの勘と腕はそれほど鈍っていなかった。控えめなパールのネックレスが似合っていた彼女は焼けた鉄のように熱くなっている。
引越先の県立高校に部が新設されたときいて、その夏合宿とやらに、ふらりと遊びに行ってみたのである。学生はランニング中ということで、顧問の女教師が僕の相手をして遊んでくれているのだった。
「エペもやりましょうよ、お手柔らかにね」
「こちらこそ」
首より下、腰より上の胴しか突いてはいけないフルーレから、頭から靴の先っぽまで触れればランプがつくエペに切り替える。
我々は剣を重ね合わせる。さっきまでの獰猛さはお互い影を潜め、狙うは手首の骨。相手が剣を突き出してきたそのときにひょいとかわしてこっちの剣を残しておけばいい。だから僕はまっすぐ腕を伸ばして彼女を誘う。だが彼女はのってこない。お互い、ぶらぶらと剣をこすり合わせながら、待っている。
(きた!)
彼女が一度腕をひいて、僕のマスクをめがけて思いっきり飛び込んできたのだ。待ってましたとばかり、手首の骨を狙う。ところが、彼女は思いっきり屈みこんで、こっちの剣先をずらしたかと思うと、とたんに僕の靴の先に軽く触れたのだった。それだけで色ランプ。試合は完敗。
マスクを脱ぐと学生が戻ってきて、ここで初めて自己紹介をして練習に混ぜてもらった。猿のTシャツを着た初々しいマネージャーが「夏蜜柑しぼったんです」と生ジュースをくれた。淡い酸味が口に広がる。男子部員が腕を伸ばし、雄叫びをあげながら、天井から吊るしたピンポンを突いている。十年前の自分と同じだった。
彼らの年齢だった頃、僕の剥き出しの精力はこの剣突きに集中した。だが団体戦は僕の勝利虚しく呆気なく終ってしまったのだ。仲間に腹をたてっぱなしの十年だった。28歳の僕は自分がやりたかった社内企画がいつのまにか同僚のものとなって、また、その企画がすぐに潰れてしまったことに二重に憤っている。気がつけば社の厄介者となって、飛ばされてここにいる。
(ちいせえなあ)
ヤスリで剣を磨いていると、隣にいつのまにか、負けて拗ねているのだろうか、部員が座っている。なあ、ジュース、飲もうぜ、と声をかけてみた。
昔見た風景を探しに島に来た。「来た」と言うと語弊があるかもしれない。遠いこの島に行こうと僕はいろいろ頑張ったのだが、失敗して死にかけた。気がつくと布団の中にいた。起きたかい、と知らないじいさんが言った。ここは何処、と尋ねるとじいさんは、島だ、と答えた。アンタは「百舌鳥の丘」に打ち上げられていたんだ、とじいさんは教えてくれた。僕は偶然島に上陸できたのだった。
じいさんとご飯を食べながら、島に来た理由を話した。じいさんは僕が探している場所は「禊の丘」かもしれないと言った。行きたいと言うと、じいさんは近所の少年を呼んで僕を案内するよう言いつけた。
少年が自転車を貸してくれた。だが彼は原付だった。ついて行くのが大変だった。なにせこの島は「〜の丘」がたくさんあって、坂ばかりなのだから。
間もなく夜だった。自転車をこぎながら右手を見ると、僕が打ち上げられた丘が見えた。丘の上に誰かが立っていた。その奥は海と沈む太陽。太陽のすぐ上はもう夜だった。この島には夕焼けがないらしい。左手には道の端に年寄りが列を成して座っていた。よく見ると彼らは島のミニチュア模型を作っていた。この島の主要な産業なのだと、少年が教えてくれた。
しばらく行くと島の中心地に出た。もう夜だったが繁華街は賑やかで、街中にアークティックモンキーズの曲が流れていた。懐かしいね、と少年が言った。古いバンドでもあるまいと思ったが僕も懐かしさを感じた。少年の横顔を見ると、僕の父に似ていた。
「禊の丘」はまだ先なのでコンビニで休憩することにした。飲み物を買う前に雑誌を立ち読みしていると、「島にありがちな怖い話」という本があった。読むとこう書いてあった。
「マグダの丘」近くで霧の出ている時に車を運転していると、飛び出してきたカップルや老婆をはねてしまう。しまったと思って車を止めて見ると、向こうにはねとばされたカップルや老婆は、ゆっくり立ち上がって平気で歩いていってしまう。よく聞く話だ。
「禊の丘」に向かうには「マグダの丘」を通るのだと少年が言った。ぞっとした。
思えば昔見た風景というのも漠然としていて、何故僕はわざわざ死にかけてまで島に来たのかわからなかった。そもそもそんな景色を見たのかも定かではなかった。となると残るのは「マグダの丘」でカップルや老婆を見るかもしれない怖さだけだった。
行こうか、と少年が言った。嫌だなと思った。
私の母はここ最近、死んだ魚のような目で夜中に帰ってきていた。そのわけは、父のいないこの家を支えるためパートに明け暮れ、出来の悪い娘を高校にいかせているからではない。一年前から祖父が認知症を患ったからだ。
元来、鳶職一筋で生きてきた祖父にとって、作業中の事故で寝たきり生活を強いられたことは相当ショックだったのだろう。その後、母へのやつ当りが毎日といっていいほど続いたが、それでも母は辛抱強く世話をしてた。私はそんな母の気持がわからなかった。
祖父が娘である母の顔をみて「あんた誰や」と言い始めた頃から母は変わった。心の柱が折れた様な、心ここにあらずの様な目をしているのだ。しかし母は、以前にも増して口数は多くなり、表情も豊かになった。私はそんな母が余計にわからなくなっていたが、傷物にさわるような目で見ていたことは確かだ。
「なんでそんなにがんばるの?」そう母に尋ねたことが一度ある。今思い返すと、なんと軽率な質問をしたのだろう、と後悔している。その時母は、流しにたまっていた食器を洗っていたのだが、ふと手をとめて何かを考える時のいつもの癖で天井を仰いだ。しばらく蛇口からでる水の音だけがその場の空気を一層重たいものにしていたと覚えている。母は少し口元を緩めて「さぁ?なんでやろぉね。お母さんにもわからへんわ」と返答した。食器を洗い始めたときに、母の頬から流れ落ちた涙が、流しから飛び散る水しぶきに落ちていく様子を、私は今でもはっきりと思い返すことができる。
母がいなくなってから一週間が過ぎた。疲れとストレスが限界にきていたらしい。葬儀は私一人で行った。その時のことは何一つ覚えていない。今私は、先に娘に逝かれた祖父の傍らに座っている。窓の外をボーと眺めている祖父を見ていると母の気持がわかったような気がした。いや、わかるはずがない。今まで母が娘の私に、相談したり、愚痴をこぼしたことなど一度もなかったのだ。祖父の額を濡れタオルで拭ってやると、視点が定まらない目で私を見つめ「・・・恵子」と呟いた。母の名前だ。「なぁに?お父さん」と私が言うと、祖父はまた窓の外を眺め始めた。私も窓の外を眺めたが電線が二、三本垂れ下がっていて、どんよりと曇った空が遠くにあるだけだった。私は結局最後まで母の気持がわからなかったが、こうして祖父の傍らに座っていると、なぜか母のような強い女性になりたいと思えてくる。
あたしにはビキの癖がある。ビキってのはつまり万引き。
今日も盗んだ。家から二駅離れた、ドラッグストアで。
ビューラー、リップクリーム、冷えピタ。
あたしは化粧はしない。そして、熱もない。だから盗んだものに意味はない。盗むだけ。
役に立ちそうなものは、友達にあげる。役に立たないものは、捨てる。
一度、何で自分がビキをすんのか疑問になった。だから智子に相談した。
「女の万引きってさ、性的欲求不満の証なんだって」
智子は一蹴した。そうなんだろうか。あたしには、確かに彼氏たるものは居たことがないけれど。
うちの親は仲が悪い。親父は外に女がいる。母さんは親父を責めない。だけどあたしには愚痴る。
「ママ、そんなに老けたかしら」
あたしは家が好きじゃないのだろう。だから遅くまで、スーパーでバイトなんかしているのだろう。そういえばこの間給料が上がった。高校生が月に五万もらってるくせに、ビキしちゃうってやっぱおかしい。
夏の終わり。十時前、閉店間際。あたしは倉庫でチェックをし、店頭に出た。
母さんがいた。野菜売り場にひとりぽつんと立っていた。あたしには気付かずに、じっとキュウリを見つめている。
声を掛けようとしたときだ。母さんの手が動いた。
ゆっくりとも、すばやくとも見れた。
母さんは、キュウリを一本、自分のバッグの中に入れた。
そしてそのまま、店から出て行った。
「ただいま」
何食わぬ顔をして家に戻る。
母さんは台所に腰掛けてパックをしていた。
「親父は?」
「女のところ」
母さんは答えて、ふと笑う。
「なんだかね、馬鹿らしくなっちゃった」
パックを剥がすと鏡を覗き込み「まだ若いんだから」と頷く。何かに満ち足りたような、そんな笑顔。
「あ、そう」
あたしはごく自然に冷蔵庫の野菜室を開けた。冷凍庫も、クルーザーも、くまなく。
「何してるの」
母さんは訝しがる様子もなく言った。
「いや、小腹が減って。サラダかなんか、ない?」
「ないわよ。生野菜は今は痛むから」
「そう」
母さんは「もう寝るわ」と言って寝室へ引っ込んだ。
それから後、あたしは彼氏が出来た。成るようになるもので、無事、初体験を済ませた。ビキが性的欲求不満の証なのかは未だに分からない。でもひとつ言えること。あたしはビキをしなくなった。
「そらごらん」
久々に会った智子はそう言って笑った。
そういえば、母さん。
あの日のキュウリはどこへやったのですかね?
七月十五日、午後八時。夏休みにもなっていないのに夏祭りとは早いと思うのだが、昔から決まっていることには何となく逆らえない。浴衣を着る慣習にも逆らえないが、好きだからそれは構わなかった。
まだ熱帯夜の時期には早く、夜は適度に涼しかった。そういう時期なので、僕たちの間ではかき氷よりも焼きもろこしの方が売れ行きが良かった。その中で僕は、まだ口に入らないほど大きいリンゴ飴をぺろぺろと舌を出してなめていた。
「うわ、それマジ可愛い」
横から急に黄色い声が飛んできて、思わず舌を引っ込めないまま目だけでそちらを見ると、それはもう一度繰り返された。
「お姉さんがもう一個リンゴ飴買ってあげるから、後で家に寄ってってよ」
「誰がお姉さんだ。同じ歳だろ」
「いやまあそれはともかく、本当にお願い、帰りに家に寄ってって」
こうして一緒に遊んでいるように、それは珍しくもないことだった。だから僕は、何の気もなしに承諾した。思い返せば、小さくなった飴を咥えていたところに射的を一ゲーム奢ってもらったのは具合が良すぎた。
何となく全員で彼女の家になだれこむと、買ったリンゴ飴をなぜかまだ自分で持っていた彼女がいきなり、僕の帯を替えようと言い出した。
「浴衣帯を文庫で結べば、超可愛いと思うんだけど」
緊急動議は賛成多数で可決され、黒の絣の浴衣に合わせて白の浴衣帯が用意された。賛成多数なので抵抗はできなかった。その多数に身体を押さえつけられた上に、随分と伊達締めで締め上げられた。
「って言うか、同じ年なのに人の着付けができるってどういうこと?」
と抗議ですらない驚きを口走っているうちに文庫は完成したらしく、約束のリンゴ飴が手渡された。素直にお礼を言うと、どっと歓声が沸き起こった。抗議すると、髪型が良いとか肌がきれいとか、口々に褒められた。褒め殺しだ。もう何も言えずに、動かしたくても動かせない口でリンゴ飴をなめると、また歓声が沸き起こった。元の帯は返してもらえず、着けた帯はあげるとまで言われて、僕はそのままの格好で家に帰された。
祭りが終わった時間帯で多くの目についたはずなのに、驚いたことに誰も僕とは気づかなかったらしい。家に帰ると親にまで、どこのお嬢さんかと思ったと言われる始末だった。可愛いよりも格好良いと言われたいんだけど、と膨れて飴をなめたところがまた可愛かったと言われてしまっては、僕にもうできることはなかった。
今度、西暦が廃止されるらしい。
何でも、コンピュータの高速化の為に、非合理的な西暦を止める事になったそうだ。
これも時代の流れというやつなのだろう。
反対する者達の小さな集会が各地で行われているようだが、マスコミは、業務効率化になる為か、揃って支持している。
マスコミが右を向けば右を向く国民、もうテレビにコメンテーターは必要ない。
政府もそうだ。
総理はマスコミの支持があるから総理でいられる。
マスコミに人気のある人を閣僚に選ぶ。
能力は必要ない。何をやるかはマスコミが決めるし、実際の仕事は官僚達だ。
飽きられれば首を切られ、別の話題になっている人が次の閣僚となる。
大昔にそんなお笑い芸人が沢山出た時代もあったらしいが、何に於いても効率化を求める現代では、政治の世界までもそうなってしまったのだ。
確かに、マスコミの支持に合わせておけば、今大衆の意識を作っているのはマスコミだから、反対も少なくスムーズに社会は進んでいく。
マスコミはお互いに協定を結んで、何処も同じ報道をしているから、どのチャンネルでニュースを見るかなんかは、キャスターが美人かイケメンかという程度の話だ。
そのせいか、テレビで芸能ニュースを最近見なくなった。
私は、ここ何十年も、今の社会を批判する本を書いてきた。
インターネットによって人々が自由に情報を受発信していたという、昔を再評価すべきであるとずっと訴えてきた。
確かに、良い情報も悪い情報もあったのだろうが、ある問題に複数の意見があり、皆がそれらを見、自分の意見を持つ事が当たり前であったのだ。
十人十色という古語がいうよう、本来的に人々は意識を共有しているわけではないのだ。
今、少なくとも私は、この点について、私個人の意見を持っている。実は他の多くの人々も、そうなのかも知れない。
友人らに電報を打ってみたが、返事はない。
この文章は、他の全ての私の文章と同じく、現代人に読まれる事はないだろう。
しかしそれでも、私は書き続ける。
いつか、私の考えが、大衆の画一的な意見となる事を願って・・・。
公園につむじ風が、枯葉の群れを散らしながら吹き抜ける瞬間、目の前では一人の少年がぽつんとジャングルジムの上に乗っかりながら夕陽を眺めており、その静かな眼、無表情に朱色く照らされる顔貌、足と手でもってしっかりと固定された躯の全部、青色のペンキのところどころが剥がれ落ちて錆が明るみになった少年の身の丈の数倍はあろうかというジャングルジムの上に佇む小さな姿、住宅地に程近く隣接され白々しく等間隔に桜の木が植えられた公園の中他のたとえば買い物帰りの主婦や遊んでいる子どもたちも見当たらずたったひとりで虚空を見据えるその少年と無機質な全景に、霊感を受けたような気がして、想像さえつかぬ宇宙の果てから導かれたように錯覚をさえする記憶は、まだ幼かった頃少年と同様に、もっとも同じ公園であろう筈も無いが、ジャングルジムに登って雲の上には空がありその果てには宇宙がありまた果ての果てには何かより広大なものがあるのではないかと妄想をしていた己の姿を現出させ、急激に押し広げられる想像力が膨張していくのを感じながら見下ろす砂場に建設された不恰好な城や、敷き詰められて茶色く萎びた落ち葉の風によってそれぞれの表皮を擦れ合わせるかさかさという音、果ては己の手の届かぬ高さに翼を躍動させながら飛翔する鴉の影さえもが、まったく下らないものに思え、己の想像力はもっと高いところまで届くのだ、だからこそこれらのことを考える必要も無いのだと妄信していた記憶が鮮明に、あたかもそこに昔の自分が重なってでもいるかのように浮き上がって、図らずも高揚してしまった己の心中を察すると、記憶の糸がそこでぷっつり切れたように少年と重なった己の姿がぼやけていくのを認識し、とつぜん、少年が仮にジャングルジムから足を手を滑らせて落ちてしまったらどうするのだという恐怖が胸のうちに押し寄せ始め、地面にぶち当たり躯が躯としてそこにあって痛みにのた打ち回る己か少年かの姿が宇宙の果てへと続く想像力を断絶してしまうその状態が頭のうちに表象されて、もう既に分かちがたい同一のうちにあった少年と記憶とが、名状しがたい隔たりの中に落とし込まれるのを苦い確信をもって認識すると、眼前にはただジャングルジムの上でぼんやりと時を過ごす少年の姿しかなく、夕陽は全く変わらぬ高度を保っており、一瞬のつむじ風が行き過ぎてしまうと、私は目が渇いたのか、ゆっくりとまばたきをした。
誰もがみな理想の自分にしばしの別れを告げる月曜日の朝、電車に揺られたはずみで頭の中身を混ぜられた私は、「つい熱海」が「網タイツ」のアナグラムであることに気付いた。無意識の内を装って熱海を訪れることで日常の諸問題がすべてびりびりと音を立てて解けていくという仮説に辿り着くまでには、一駅の間を要しなかった。
熱海はどこにあるのか? どうすれば行けるのか? それまで熱海の無い人生を送ってきた私には、わからないことばかりだった。とりあえず西日暮里に着いてしまったから、と乗り換えることにしたのは勤め人の悲しい性だった。
しかし、世紀の発見の直後で脳が著しく活性化していた私は、一目見て汚ないというほどではないがどう考えても綺麗とはいえないその駅が網タイツに通ずる控え目な淫靡さを備えていることを、黄色がかった照明の下でたちまちに見抜いた。毎日のように利用していた駅が既に大いなる網の一端であったという事実は、私の胸を高鳴らせた。
そこで新宿のことを思い出した。新宿といえば東京でも有数の利便性を誇る駅なのであって、熱海と接続されている可能性も極めて高い。西日暮里から伸びた糸を新宿まで辿れば、熱海は目前であり、タイツもまた然り、というわけだった。
緑の電車がホームに入ってきた。緑はその日も爽やかな色だった。タイツにしたらさすがに気持ち悪かろうが……と思いながら開いた扉に身体をねじ込むと、牟田さんがいた。
牟田さんは私と二ヶ月違いで同じ会社に入った人で、わりと気軽に声をかけられる相手としてお互いに重宝しているところがあったのだが、彼女は三鷹の方に住んでいたはずなので、この時間にこの場所で会ってしまうと、気まずい相手でしかなかった。
「おはようございます」
「あっ、どうも」
「混んでますね」
「そうですね」
舌打ちが聞こえたのをきっかけに、私たちは口を閉ざした。舌打ちをした男は、その後ずっと、チッ、混んでるなー、クソッ。チッ、混んでるなー、クソッ。と繁殖期の鳥のように繰り返していた。
クソッ、のタイミングに合わせて「コンドルか!」と男の頭をはたく妄想をリピート再生していると、池袋に着いた。牟田さんが私を押し出すような格好で、二人ほぼ同時に降りた。
つい降りてしまった。仰いだ天に糸はなく、見下ろした腿に網はない。
「池袋はリアルですね」
視線を上げて、パンツスーツ姿の牟田さんに声をかけた。
「私達は行き交う人皆旅人であるが終わりない旅が好きなのかと言われたら必ずしも好んではいないと言うと思う」
砂漠。
「全ては一つで一つの場所に収められていて一つの鍵で開くのだけども全て開くのだけれども」
花園。
自由である。
翼が西の発電所で燃えている。
バースデーケーキ。
リボン。
全て引きずりながらバイクは走り続ける。
ハッピーバースデートゥーユー。
ビル風。
七百キロ何も無い道。
「そう言えばあなたは何も伝えて来なかったね。ずっと一緒だったけど何も伝えて来なかった」
港に辿り着く。砂漠港で積み込まれるのを待つ三千台のフェラーリ。
スクリーン。
スクリーンの中の裸の男女達はお互いの耳の中に指を差し入れる。ぶちぶちと音を立て血を滴らせながら鍵を取り出す。
あたしの傍にはゴッホが立っている。
皆が血だらけのまま思い思いに車に乗り込んでいく。
「あと少し行けば宇宙船街だ」
「知ってる」
戦車が音を立ててやって来て、砲弾を放つ。
新宿の壁に砲弾が直撃してポスター壁が崩れ落ちる。
着替え中の少女達の姿が露わになる。
「太陽王先生の家にはクーラーが千台もあったって」
「知ってる」
TV画面には先生の撮ったポルノ映画。裸の男女達。鍵だらけ。
「眠い」「うん」「ハッピーバースデー」「駄目よこれが表現なのよ。勉強のために観なくちゃ」「表現って何? 楽しくちゃ駄目なの?」「駄目なのよ。魂の根源からの衝動じゃなくちゃ楽しくても表現にならないのよ」「表現って何? 楽しくないのが表現なの?」
『楽しくねえよ表現を表現出来なきゃ楽しくても楽しくねえよ、さっぱり意味ねえよ』
砕け散るポスター壁。
「だから無差別殺人を無くしたいのなら厳罰化、江戸前名物の錆ノコ刑を復活させれば済むって。でも皆スリカエが大好きだからね。スリカエとギロンが大好きだから朝までやってればって感じ」
「ねえ戦車って公道走って良いの?」
「良いの。どうせあたし達はノモンハンでは惨敗したことになっているし」
無茶苦茶に並んでいる看板。行き止まりの一方通行。
発電所にギターとアンプを繋ぐ。自由だ。静寂。ノイズ。
静寂。静寂。ノイズ。静寂。砂漠に無茶苦茶に突き立っている看板。
何か思い出せそうな気がする。
全て忘れてしまった。
ギターを弾く。
「そう言えばあなたには何も伝えて来なかったね。ずっと一緒だったけれどあなたには何も伝えて来なかった」
歌を歌う。
東京から愛媛の宇和島まで飛行機と電車を使って来た。松山のように何かあるわけではなく、早く用事を済ませて東京に帰るつもりだ。
夏本番を迎える宇和島に着くと、駅から徒歩20分位のところに「天赦園」という伊達家ゆかりの庭園があると知った。私は一応行ってみた。
園内は清掃された砂利道を進むと、池泉廻遊式庭園の景色が開け、茶室や書屋もあった。土曜日なのに誰もいない。
池のせせらぎ、夏虫の鳴き声、すべてが今私一人のものになっている。
観光客で賑わないが、何もないわけではない。穏やかな優しさに包まれたくなった時は、こういうところのほうがいい。
私はもう少し宇和島に留まることにした。
大きく揺れてエンジンが停止した。薄手の白い手袋越しにハンドルを握り締めていたレベッカは、目を大きく開けたままブロンドの巻き毛を揺らして助手席を見やると、首無デュラハンが近くにいるみたいに声をひそめながら「何がおきたの?」とその青い視線を、白い眉の陰でじっと彼女のことを見つめていた正面の瞳に向けた。虹彩の青い溜まりに老醜を晒した彼は、幼い子供にアルファベットの綴りを教えるためにそのちいさな手を握ってまだ何も書かれていないノートの上にゆっくりとAを出現させていく心優しい家庭教師のように、自動車の仕組みについて語り始めた。運転席に座る年若い女生徒は時折白い帽子を縦に揺らしながら彼の講義にじっと耳を傾けていた。素朴だが的を射た質問とそれへの回答を最後に閉講となると、レベッカは真っ赤な唇の合間から美しく生え揃った白い歯を覗かせながら「なんだって知ってるのね!」とシートの上で軽く跳ねてみせ、彼の合図でたどたどしく、だが力強くエンジンを始動させると、彼が頷くのを待ってからアクセルペダルを慎重に踏み込んでいった。黒い前輪が丘の緑に牙を突き立てる。「ちゃんと見てる?」
「ああ……見ているよ」彼――マキシムは、おそるおそる海面に足を伸ばし始めた真夏のアポロンの眼差しを浴びている彼女の横顔を、うっとりと眺めていた。巻き毛は光と区別がつかなくなり、繊細な産毛のひとつひとつが輝いて『イレーヌ嬢』の輪郭を浮き立たせ、そしてその中で頬だけがマグマを溜め込んでいるかのように黒々と燃えている。(ああ……これこそ生命だ……)
マキシムは今、彼女をモチーフとした十三年ぶりの新作を書き進めている――これが最後の小説になるだろう。タイトルは決まっている。『賛歌』だ。批評家はこれを酷評するだろう。『八月の光』(ヒロシマでの被爆体験を持つ日本人のアメリカ大陸放浪譚)の巨匠は小説を捨て女と寝たのだと揶揄されるだろう。そうあるべきだ。私は孫ほども歳の離れた女と寝た。あれは輝きだった。地中のモグラが初めて光を浴びたのだ…………私は安堵している。小説家という襤褸を脱ぎ捨ててカーテンコールを迎えられることに――その時、開幕ベルと共に客席の照明が絞られていくかのようにマキシムの視界が閉ざされていく。黒い漣が黄金の島を侵蝕していく。手袋が、帽子が、唇が、瞳が、レベッカが……門が閉じていく。アポロンが没し、闇が大口を開ける。
芥川の「蜘蛛の糸」を思い返していた。
お釈迦様がもし犍陀多(かんだた)の善行を思い出されることがなかったら、どうなっていたのだろう。・・・・・・。
研究室で机に噛り付いていると一人の白人女性が僕に話し掛けてきた。彼女はなかなか流暢な日本語で話してきた。
彼女は今度ここの院を受験するとのことだった。ここは良い所ですかと聞いてきた。僕は居やすい所ですよと答えた。
彼女は僕に、私をケイトと呼んで下さいと云った。最初ごそごそと自分の名前を云っていたが、日本人には覚えにくい、だからケイトと呼んで下さいと彼女は云った。
留学生枠の入試は面接と小論文があった。小論文は日本語で書かなくてはならない。僕は比較的小論文が得意だった。彼女は書くことは苦手だと自信のない顔をした。
その日から僕は彼女の小論文を見てあげた。彼女はいつも夕方に研究室に来て書いてきた小論文を僕に見せた。僕はその添削をした。
ある日、夜も遅くなり彼女をアパートまで送ってあげることにした。彼女は遠慮しながらも僕の車に乗ってくれた。頭を使った後は甘い物が良い。僕はコンビニに寄ってシュークリームを彼女におごった。僕達は親しくなっていった。
ケイトの小論文はそれを得意とする僕から見ても酷いものではなかった。いくらか日本語の間違いと時々論点がずれることがあったが、闊達な視点でテーマを捉えてくるのには魅力がある。合格はできるだろうと僕は思っていた。
彼女の受験日が近づくにつれ、僕は学期末の課題に忙しくなってきた。大丈夫、こことこの単語を直せばいいよと、一読して彼女に返してしまう日もあった。受験の前日、彼女は大丈夫かしら、合格できるかしらと僕に聞いてきた。僕はあとはよく寝るだけだよと、シュークリームを手渡して彼女を帰した。
入試が終わり、彼女は何度か研究室に来たが、課題に忙しい僕を見て段々と研究室に来なくなった。
僕は最後の課題を提出し終えた時、先生から何某というイギリスの女の子を知らないかと聞かれた。ケイトのことだと分かった。この前の会議の発表で彼女は不合格になったとのことだった。
今学期の課題提出が終わり、僕はコンビニに寄ってシュークリームを買った。助手席の鞄の上にそのシュークリームが置いてある。買ったはいいが気が咎める。
僕は車を運転しながら、蜘蛛の糸を登りきった犍陀多の姿を思い浮かべていた。