第69期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 我等普遍の子供 くわず 1000
2 事実だけを話そう。 SKY 538
3 青春だらだら 藤袴 710
4 ウサギとカメ 悲劇のM 978
5 配給 ひょっこいK 711
6 自己責任 笹帽子 1000
7 擬装☆少女 千字一時物語30 黒田皐月 1000
8 ROLLは何処へ消えた? 影山影司 854
9 水たまり 1000
10 お楽しみはこれからだ! 宇加谷 研一郎 1000
11 小人レシピ 柊葉一 984
12 なんて憂鬱な日常! 水野 凪 865
13 雲の上 bear's Son 1000
14 愛と汚穢 qbc 1000
15 空が走る (あ) 1000
16 iCon るるるぶ☆どっぐちゃん 1000
17 熱帯夜 三浦 999

#1

我等普遍の子供

 アーサには兄弟が50000いた。いつか、母親からそう告げられた。
 或る時50000の兄弟の内の誰かが、西を目指そう、と言った。声の主は誰だか知れないが、そこは血縁、100000の爪先が瞬時に西へ向いた。幼いアーサも従ったが、彼の、どうして西なの、という小さな呟きは、50000の雑踏の波に消えた。
 西を目指す道中、50000の兄弟は幾つもの町や村を通り過ぎた。そこで居を構える決意をした兄弟がいた。中には人攫いに攫われる兄弟もいて、アーサは四歳の時その兄弟に鉛筆を一本貰った事がある様な気がしたが、似た兄弟であったかも知れぬ。何せ50000もいたので。
 45000の兄弟の道行きは、陽に愛でられてばかりでは無かった。大嵐では3000の兄弟が吹き飛ばされ、雷光に500が焼け、1500が吹雪で氷漬けの兄弟になった。そうして40000の兄弟になった頃に質の悪い風邪が蔓延し、たちまち38000の兄弟になった。アーサも少し洟は出たものの、概ね健康であった。
 近隣を荒らし回る盗賊一味が棲み着いているという深い森に差し掛かった。噂を聞いた1000の兄弟が森に分け入り、盗賊一味を追い出した。が、そのまま1000の兄弟は森に棲み着いて、近くの村々で悪さを働いた。見るに見兼ねた1500の兄弟が、1000の兄弟を250ぐらいにして追い出した。と、今度は1500の兄弟が悪行を重ねたので、すぐさま3000の兄弟の手によって霧散した。その3000の兄弟も、5000の兄弟によって蹴散らされた。そんな事を繰り返して、12000の兄弟になった。アーサは、西を目指そうと言ったのが誰なのか尋ねたかったが、一人々々訊いて回るにはまだまだ数が多かった。
 砂漠に2200の兄弟が倒れ、300は獣の腹に収まり、2700が戦争に駆り出されていった。2000の兄弟は肥えて動けなくなり、切り立った崖から1800が身を投げ、3000の兄弟の力を老いが奪い去った。
 独りになったアーサが遥か西の方角を見遣って佇立していると、背後から地鳴りの様な跫が響いてきた。彼の、50000の弟であった。アーサは彼らに、どうして西へ向かうんだ、と尋ねたが、その叫びは彼の姿ごと50000の雑踏の波に消えていった。
 50000の兄弟は西へ向かった。その中にアーサに似た兄弟を見る事もあったが、よく似た兄弟であったのかも知れぬ。何せ50000もいるので。


#2

事実だけを話そう。

事実だけを話そう。余計な気持ちなんていらない。

もう一度。

事実だけを話そう。



ただ私はクラスの一番のイケメン、大輝君に告白しただけだったのに……。いけなかったのは、その現場にクラスメートが通りかかったということ。
シャイな性格の大輝君は照れてしまった。そして、返事をした。
「ごめん……、僕、恥ずかしい」

あーあ。まぁこういうこともあるよね。ちなみに通りかかった子は私の一番の親友、由美子。その後かなり謝られたけど、悪気が無かったし、許してあげた。

その日は部活があった。私は女子ソフトボール部でピッチャーをやっている。一球一球に気持ちが込められたので、先ほどのことなんて忘れていた。
だが問題は、終了後、着替えている時。外で話声がする。
「私、大輝君のことが好き。付き合ってください!」
え。突然のことに驚き、耳を傾けてしまった。(ダメなこと)
「う、うん。ありがと……」
……爆。やっぱり大輝君だった……。ねぇ、私が聞いているんだよ。恥ずかしくないの?
追い討ちをかけるように、大輝君に告白していたのは、由美子だった……!

どうやって家に帰ったのか分からない。
私の気持ちは「悲しい・悔しい」の二つに絞られていた。

やっぱり、気持ちが入り込んでしまった。


最後に言おう。

事実だけの小説は、駄作に過ぎない。


#3

青春だらだら

「ここからやっぱり逃げない?僕らかけおちをしよう」
と君が言ったので私はとりあえず家に戻って荷物をまとめることにした。

 今自分が持ってる上で一番大きな鞄に入るだけ衣服上下下着類、でも三日分しか入らなかった。次にきっと退屈だろうからと今お気に入りの漫画を数冊、ゲームと携帯とオーディオプレイヤーの充電器を一つづつ。勿論本体も。トランプとかUNOとかはそういうのはきっとしないからおいていこう、お気に入りのぬいぐるみも家にいるなら必要なものだからええい、部屋に置いていこう。あと、念のために薬箱から適当に風邪薬、絆創膏、シップ、生理用品、勿論化粧品も、最後にお母さんの部屋の部屋の戸棚の菓子箱から私の通帳と判子、あ、箱の中に5万円入った封筒がある。これなんのお金だろういいや持って行こう。


 「きたよ」
言われて数時間後私は君の家のチャイムを押した。大きな鞄一つもって。生きる為に最低限必要な物がぎっしりつまった夢の鞄だ。
 「入って」
 「・・うん。かけおち、用意した?」
 「なんか帰ったら手紙が置いてあってさ、親が今日から三日帰って来れないんだって。泊まってってよ、で、二人が帰ってきたらかけおちしよう」
 「うん、分かった。じゃあ三日泊まってくね。そのあと出かけよう。あ、私お腹減ったな。お金五万円あるからピザ頼もう」
 「そうだね、あ、僕ポテトも食べたいな」
 「うん、頼もう頼もう。チラシどこにある?」


私は早速、笑いながら夢の鞄の中からがさごそ封筒を取り出す。君は慣れた仕草で携帯で電話をかけ始める。
こんな風にちょっと不良の私たちが二人で生きていくことなんてめんどくさくてやっていけない。今回もどうせどこにもいかない。わかってた。


#4

ウサギとカメ

昔々あるところに、いつも喧嘩ばかりしているウサギとカメがいました。
ある日、ウサギはカメに言いました。
「カメさん、俺達このままいがみあってても意味ないと思うんだ。だから今度勝負して長年の決着をつけようじゃないか」
「いいけど、どんな勝負ですか?」
すると、ウサギは離れた場所にある山を指差して言いました。
「あの山まで競争して、先に山頂に着いた方の勝ちっていうのはどうだ?」
自分の脚力に自信のあるウサギは、自分に有利な勝負を投げかけました。
「いいですよ、私がウサギさんに負けるはずないじゃないですか」
「フンっ、言ったな。じゃあ勝負は1週間後だ。」

そして1週間後、ウサギとカメの勝負は観衆に見守られながら始まりました。
「カメさん、本当にいいのかな?今なら取り消しても構わないよ」
ウサギがニヤニヤしながらカメに聞きます。
「ウサギさんこそ、後で撤回したりしないで下さいよ」
「二人とも、準備はいいかな?」
審判の猫が言います。
「「はい」」
ウサギとカメは声を揃えて言いました。
「では位置に着いて、ヨーイ・・・ドン!」
パン!!と始まりの合図の銃の音が響きました。
ウサギはスタートダッシュを決め、もう観衆の目にはいませんでした。
一方のカメはというと、のろのろと歩いて近くを歩いていたカタツムリに抜かれました。
これではカメの敗北は確実です。
しかし、カメは慌てる事なく一歩一歩地面を踏みしめて歩きました。

「ふぅ〜、楽勝だな」
途中の野道まで来たウサギが言います。
ふと、近くに給水所があるのが見えました。
かなり走って疲れたウサギは、その水を飲むことにしました。
その水は美味しく、ウサギの体力は回復しました。
「ぷはぁ〜、美味しい」
すると、辺りを見回して言いました。
「カメの奴、ノロマだから少し休憩しても大丈夫だろう」
ウサギはその場に横たわりました。

ウサギの目が覚めた頃には、もう夜でした。
「うわぁ〜、大変だ。カメはもう山頂にゴールしてるかもしれない」
ウサギは不安にかられ、一目散に山頂を目指しました。
山頂に着くと、案の定カメはゴールしていて、観衆の皆と祝杯をあげていました。
「く、くっそ〜」
ウサギが悔しさに地団駄を踏みます。
「ウサギさん、この勝負私の勝ちですね」
「俺の負けだ。カメさん、俺は君を見直したよ」
「そういって貰えると光栄ですね。ところでどうでしたか、私の作った強力催眠薬の味は」


#5

配給

田村と中村と佐々木と広田が隊列をなして配給を運んできた。

我々はその前に食器を持って並び、自分の配給分が配られるのを待つ。
やつらはぞんざいに、我々に食事を配った。

システム…コンピューターを使った情報処理機構。
この集団は自由意志を持った人間たちによって形成されているはずだ。それにもかかわらず、不思議とこの言葉がこの場所には相応しく思われるのだった。

我々の青春は戦いの中に消費されていく。

時々、そんな戦いの暮らしに耐え切れず、家へ帰りたいと泣き出すものさえいた。
しかしシステムに組み込まれたこの場所において、それは空しい願望でしかなかった。

日々の戦いに摩滅され、我々は性的なものを欲しなかった。
仮にその欲を見せてしまったとしたら、それはこの組織の中での重罪を意味し、多くの場合さらし者にされるのだった。
また、睡眠も許されなかった。

性的なものも、睡眠さえも許されないここでの生活の中で、配給は、つまり食べるという行為は、我々の唯一の慰みとなっていた。



ところがそんなあるとき、配給を受け取りに行ったはずの田村が泣きながら帰ってきた。
何故かやつの手には配給が、握られていなかった。

同様に配給班の全員が涙を流していた。

動揺する我々の間に緊張した空気が流れる。
めいめいの間に「いったい何が」とか「まさか」といった言葉が浮かんでは消えていった。

その中、嗚咽に咽びながら、班長の中村が説明を加えた。



「せんせー、ひっく、たむらくんがぁ、ふざけていておかずを全部こぼしましたぁ」



田村め、やりやがったな。



罪を憎んで人を憎まず、という教師の有無を言わせぬ言葉に事態は一応の収束を得、我々はとぼとぼと昼休みの「運動場覇権争い」へと向かうのだった。


#6

自己責任

 このごろの季節は日が落ちるのも早くなり、もう空は真っ暗である。男の子は塾からの帰りで、一人夜道を歩いていた。まだ半袖で通している男の子には、少し肌寒い。この長い坂道を上りきれば家につく。さあ、早くおうちに帰らなきゃ。

 突然、男の子の背後で、バシッ、と鞭で地面を叩くような音がした。驚いて男の子は振り返る。すると、後ろに、包丁を持った男が立っていた。ギラギラした目、包丁を持ちかすかに震える手、一目で危険と分かるような男だ。突然の事で、男の子は足がすくんでしまい、後ずさろうとするも転んでしまう。口を開けても声は出ない。

 道の反対側で、バシッ、と音がした。男の子と男は音の方を向く。すると、銃を持った男が立っていた。包丁の男と同じ、黒いテカテカした服を着ている。持っているのはゲームに出てきそうな細い銀色の銃だ。銃の男は、包丁の男に銃を向けた。包丁の男は、それに驚くと、一目散に坂道を駆け下り逃げて行った。

 包丁の男が角を曲がって消えて行き、あたりが静かになった。男の子は、助かったと思った。しかし今度は、銃の男がにやりと笑って、銃を男の子に向けてきた。包丁が銃に変わったのでは、状況が悪くなっただけだ。

 バシッ、と、今度は銃の男の向こう側で音がした。直後、キンという人工的な音が響いて、銃の男がふらつき、スローモーションでドサリと崩れ落ちた。倒れた男をまたいで、また別の、テカテカした青い服を着た男が現れた。
「あ、いや、眠らせただけだよ。お前、怪我は無いか?」
 男の子は怪我はしていなかった。青い服の男が助け起こしてくれた。
「お前なぁ、ホント俺ってやつは本当にとんでもない事をしてくれるよ」
 そう言って青い服の男は、何やら携帯電話のような黒い装置を取り出して、倒れた男の体にあてがった。と、次の瞬間には倒れた男の体はバシッという音とともに消え去っていた。青い服の男はポケットから取り出した、既に火のついた銀色の煙草をくわえて、話し始めた。
「今から十五年後だけどな、お前とんでもない事思いついちゃうんだよ。まあ禁止されたらしたくなるってのは今でも自分の事のように分かるけどな、これが後々面倒なんだ。なんだって過去に戻って過去の自分を」

 そこまで言ったところで、バシッという音がして、男は消えてしまった。煙草の煙も消えた。男の子は、忘れていた肌寒さが戻ってきて、身震いした。はやくおうちにかえらなきゃ。


#7

擬装☆少女 千字一時物語30

 六月二十三日、午後四時。今日もだらだらと降り続ける雨に、僕は苛立っていた。
「もう。毎日毎日雨ばっかで、せっかく可愛い服着てもそれだけじゃない」
「梅雨だからね。夏に水不足になられても困るからね」
 苛立つ僕を目の前に、光恵はまるで動じずに間延びした返事をした。この女はそのくらいで動じたりはしない。そうでもなければ、僕に女装をさせるなどという変態趣味は、たとえあっても実行はできなかっただろう。僕が知っている光恵の驚いたたったひとつのことは、こうして僕が乗り気になったことである。
 別にそれが見たくてこうして光恵に付き合っているわけではない。純粋に面白いと思ったからである。周りの反応が面白かったことが、もっと面白かった。みんな一様に驚いて、それから毒気を抜かれた笑いをする。そのコーディネーターが光恵であり、これがまた熱心で、一週間と呼び出されない日はない。
 しかし今日も外は雨。コーディネートしたところで、そのウケ具合を見る機会はない。この呼び出しを無駄だと思っているのではない。一日も早くウケるかどうか試してみたいだけだ。そのためには、この雨が邪魔だった。
「傘も可愛いんだけどさ、見るのは良いけど濡れる方は辛いんだよね」
 光恵に止められながらも、僕は一度それを敢行していた。しかしもう二度とやりたくはない。
「そうでしょ。そうなると他には……」
 語尾を伸ばしながら考えていると思いきや、突如光恵はクローゼットを漁りだした。
「あまりお勧めできないけど、こんなのどう?」
 レインコートにデザイン性があることなど、初めて知った。丸い襟とポケットに施された花柄のテープと同じ柄のくるみボタン。シンプルさの中に、可愛さがある。僕は喜んでそれを着て、やはり花柄の傘を差して外へと出て行った。
 夕方、意外の感に打たれて戻った僕を、光恵はわかっていたかのように迎えた。
「そこまで本気だったんだ、って言われた」
 雨合羽など本来は面倒なものだ。雨に濡れさえしなければ良いところをわざわざ女の子らしさを追求したことに改めて驚いたのだと、言われたのだった。
「だってそうなんでしょ。それとも、自分で気づいてなかった?」
 そんなつもりじゃなくて、と口ごもった僕に、光恵はさらにぴしゃりと宣告した。
「でももう後には退けないよね。変態サン」
 そう言われて、この不評を絶対取り返してやる、と思った僕は、やっぱり変態なのかもしれない。


#8

ROLLは何処へ消えた?

 鼻から重力が垂れていた。慌ててチリ紙で拭き取ってゴミ箱に投げ捨てると、ゴミ箱に吸い取られるように綿埃が舞った。このまま放置するとブラックホールが出来てしまうので、世話人を呼んで処理してもらおう。

 奇病『Like A Rock'n Roll』

 学者の癖になかなか洒落の分かる奴が居たので無理を言って学名にしてもらった。この病気(といえるかどうかも分からないが)を発症してから、僕以外の全てのものが、僕の汗や鼻水、小便といった体液に飛びついてくる。ギターヒーローに群がるバンギャみたいに。
 おかげで僕は実験映画でもなかなか出てこないようなシンプルな部屋に住んでいる。排泄物や、ゴミを入れるためのゴミ箱。宇宙飛行士が使うようなベルト付きのベッド。後は壁に埋め込まれたテレビと、最新電子錠でロックされた扉、だけの部屋。監視カメラでもしかけてるのかと思ったが世話人に聞いたところそれは無いらしい。試しに世話人(女)を口説いてSEXしてみたが、特に止められることも無かった。
 唾液がつかないようにキスはもちろん禁止。汗を掻かないようにタオルケットの上でゆっくりと楽しんだ。世話人が用意周到にコンドームを持っていたから全部実験の内だったのかも。
 そう思ったら、急に意地悪な心がムクムクと膨れあがった。
 どうせゴムに吐き出されたものも検査に回してるんだろう。
 抜き取るとき、こっそり腹の中に零したのは気づかれたかな?

 呼んだはずの世話人はまだ来ない。部屋全体がメキメキと軋む。
 電子錠がデタラメに叫んでUNLOCK。ひしゃげるように部屋が変形して、僕はそのまま外に放り出された。

 Like A Rock'NRoll
 Like A Rolling Stones

 世界中の人が、物が、一定の方向へ転がっていく。
 この世界で立ち上がれるのは、もはや僕だけなのだ。
 夜空の星々はあっという間に流れてしまい、月はゾクゾクと大きくなる。この世の終わりだ、とラジオが叫びため息のようにノイズを吐く。

 Like A Rock'NRoll?


#9

水たまり

 砂利道に窪んだ、直径一メートルほどの平たい穴に、水が溜まっていた。水たまりである。雨が降ったのかもしれないし、誰かが水を撒いたのかもしれないし、子供がじょうろで水を流し入れたのかもしれない。水たまりは緩やかに屈折しながら光を反射し、一面の空を薄青く映していた。水たまりの中は、水が満たしている。いや、厳密に言うならば水のほかに、不純物が水たまりの中には混入しているのだろうが、俺はそれを水たまりとしか捉えることが出来なかった。水たまり、水たまり。

 水たまりが映す世界は揺らいでいた。俺はこれを題材にした小説が書けぬものかと考えた。散歩中、ふと水たまりを見つけた俺は、立ち止まって眺め、次第に水たまりが精神を映す鏡のような錯覚に陥る、水たまりが風で緩やかな波を立てるのに合わせて、俺の心中が揺さぶられ、次第に前後不覚に陥ってしまう、がっくりと頭を垂れる俺、遠景からの水たまり、ズーム・アップしていくと、水たまりには屈折した俺の顔が映っている。どうだろうか。俺は小説を考えつつ水たまりを眺め、水たまりの精神性を見極めようと努めたが、水たまりはただ水たまりであった。俺は次第に、水が溜まっているから水たまりというのか、水たまりという「言葉」それ自体、水が溜まるのとは無関係に成立しているのか、わからなくなってきた。どこからどこまでが水たまりであろうか。水は「み」「ず」である、水たまりは、「み」「ず」「た」「ま」「り」である。

 考えているうちに、水たまりのかさが減っているのに気がついた。日照りは強い。蒸発して外気に溶け込むのだろう。しばらく経つと、この水たまりは消えてしまい、地面の窪みとなってしまう。水たまりが、水たまりでなくなる?俺は歩いて別のことを考えようと思った。そうしないと、水たまりが消えてしまうのだと一人合点していた。考えるのをやめるのは水たまりが無くならないから?どういうことだろう?

「おう、奇遇だな」
 新藤が目の前に立っていた。俺は何を喋っていいかわからなかった。
「あ、ああ」
「何してたんだ、こんなところで?蹲っていたようだが」
「いや、ちょっとね」
「妙なやつだな、金でも落ちてたのか?」
「違う違う、これがさ」
 指で地面を指した。俺が示したのは、水の溜まっている直径一メートルほどの窪みだった。砂利がえぐられて平たい窪みになっているのだ。
「ん?」
 水面から、蒸気が静かに立ち昇っていた。


#10

お楽しみはこれからだ!

 丸窓や四角い縦長窓、屋根裏部屋の明かり窓の配置が最初、女の目に留まった。壁面のスクラッチタイルも、ねじり柱にもムードがある。仕事帰りに何年も通ってる道なのに気づかなかったなんて……と古いビルを見上げていた女は、エントランスから出て来た翁と目があった。翁は生々しい猿の剥製を抱いていて、女は少しひいてしまった。

「ペパーミント・ソーダ飲まないか」

「え?」

「それとも珈琲……どうだい我がビルヂングから夕暮れを一緒にブレイクしないかい」

「え?」

 女は翁からナンパされていたのだったが、剥製の猿に魔法をかけられたかのように、ついていってしまった。そして驚いた。翁の部屋に入ると、彼は自分の顔を両手で掴み出して、瞬く間に青年に変身したからである。

「実は、変装してたんだ、ごめんよ……でも……目から鼻に抜けるような色男じゃなくてもっとごめんよ」

「あ、うん」

 男は太い眉が繋がっていて、お世辞にも二枚目から遠く離れていた。我にかえった女は急に現実に引き戻された気がして、どうしてここにいるんだろうと思っていると、台所から男が盆を持って戻ってきた。珈琲だった。

「窓際に椅子があるんだ、一緒に飲もうよ」

「うん」

 珈琲を飲んでみると紅茶のように飲みやすかった。女はほっと一息ついて、さっきまで翁だった三枚目顔の男に少し親しみをおぼえた。

「眉……カットしてあげる」

 失礼かな、と思ったものの女は口に出していた。男は苦笑いして「たのむよ」と言った。そういえば夫の眉さえやったことがない、と女は思った。しばらくすると男の印象はさっきより爽やかになったので、女は自分のことのように満足した。

「僕は昔、足つぼマッサージ師だったんだ。足を触ると話さなくてもその人を感じる。眉のお礼に足を揉ませてくれないか」

 返事のかわりに女は長靴下を脱いで、椅子に突き出した。シェフがトリュフを見極めるような仕草で自分の足裏を触っているのが女には恥ずかしいような可笑しいような気がしたけれども私も眉を触ったんだから、と思うと平気だった。

「君のくるぶしは美しい。いいくるぶしをしている」

 男が芝居気たっぷりに言うので、女は思わず「チャタレイ夫人!」とはしゃいだ。すかさず男は「そう、君は実にいい尻をしている……歴史上のちょっといいセリフだね、吉田健一も褒めてた」

 女はここで男が文学好きなのがわかって弾んできたが、もう帰らなければいけない時間だった。



#11

小人レシピ

一人暮らしを始めた。
実家から職場まで1時間という距離に、ほとほと嫌気がさしたのだ。気軽に女の子を部屋に呼べないのも、この部屋に移り住んだ理由の一つだった。
住み慣れてくるとやはり、なかなか快適だ。
しかし、一つだけ気になることがあった。
押入れの下の段の、左隅。そこに、小さな家があるのだ。
この部屋に住み始めて一週間ほどたったころ、実家から運んできた衣装ケースを押し入れにしまおうとした時に、初めてその家の存在に気付いた。暗がりの中、その家を覗き込んでみると、珍しいことに、小人が住んでいるようだった。
奇妙な状況に戸惑いはしたが、今更この快適な部屋を手放す気にはなれず、結局、小人との同居生活を送ることにした。

小人は2人暮らしらしく、部屋でゆっくりしていると、彼らの小さな話し声が聞こえてきた。あの小さな家の外で話していると、なおさら聞き取りやすく、注意して聞いてしまうのだった。
「今日は、何が食べたい?」低い声が言う。
「いちごのジャムがいい」もう一人は対して甲高いキーキー声で答えた。
「じゃ、上の部屋へ行こう」
そんな会話がよく聞き取れた。彼らはどうやらこのアパートの住人の部屋から食料を調達しているようだった。おそらく屋根裏などをつたって移動しているのだろうと、勝手に想像した。
彼らは人間に姿を見られたくないようだった。だからこちらも、なるべく彼らに干渉しなように努めた。

そうして1カ月が過ぎ、2か月が過ぎ、蚊が飛び始めるうっとおしい季節になった。寝ている間に足の親指がかじられたようになっていることもあった。ドアの立て付けが悪く、小さな虫なら入ってきてしまうようだった。
もう半年もしたら新しい部屋を探そうと思っていたとき、久しぶりに小人たちの会話が聞こえた。なぜか好奇心にかられ、押し入れを覗き込んでみた。彼らはまた、食事の話をしていた。
「今日は何が食べたい?」また低い声が聞いていた。
「シチューが食べたい」甲高いキーキー声が答えた。くすんだ緑のつなぎのような服を着ていた。
「じゃ、野菜とミルクは上の部屋で」低い声の主は立派なワシ鼻を持っていた。
「肉は?」キーキー声が聞いた。
不意に、ワシ鼻の小人が、こちらを見たような気がしたが、暗くてよく分からなかった。耳をすませる。
低い声が答えた。
「すぐそこにいるから、また寝てる間にでも」
ワシ鼻の彼と、つま先で視線が交差していた。


#12

なんて憂鬱な日常!

ああやるせない。
身体中だるくて胃が口から出てきそうだ。
口に手を突っ込んでみても出てくるのは胃液ばかりで解決案なんて出てきやしない。

何の変鉄もない日常に嫌気どころじゃない何かがさしてきて低い声の混じった溜め息がもれる。

やるせない気分のまま鏡を見たら死んだ顔が映ってて、更に鬱な気分になった。

いつもの履き慣れたスニーカーを蹴り飛ばしてお気に入りのぶかぶかなパンプスを履いて暗くなってきた外へ出る。
特に目的地もなく、何をするでもなく出た。
ぼんやりのんびりぶかぶかなパンプスを引きずりながら歩く。

カツン、ズッ、カツン、ズッ、

左足が浮腫んでるみたい。
ぶかぶかなはずが調度よい。

カツン、ズッ、

ああ、このまま車にでも引かれてしまおうかと思うのに律儀に横断歩道まで行き赤信号で止まる足。

カツン、ズッ、カツン、ズッ、

どんどん暗くなる空に冷たい風。
アタシ、風船になりたいな。

カツン、ズッ、カツン、ズッ、

すぐ横を通る車の音も届かないくらいにアタシはいかれたみたい。

カツン、ズッ、カツン、カツン、

あ、右足も浮腫んだ。
少し軽くなった足でアタシは丸まった背中を伸ばして歩いてみる。

カツン、カツン、カツン、カツン、

お気に入りのパンプスで背伸びした今のアタシには、この町が小さく見える。
やっぱりアタシ闇になりたい。

カツン、カツン、カツン、カツン、

気取って歩いても所詮、アタシはアタシで見える景色は気持ちしか変わらないし、しょっぱい雨も止まらない。


カツン、カツン、カツン、カツン、


でも、やっぱりなりたいのはあの小説の主人公かもしれない。

家を出たばかりのはずなのに足はもう帰路を辿ってる。
帰りたくないのに行く場所もない。
ああ、やるせないやるせない。
もう家が見えてきた。

違う、ここじゃない、アタシの居場所は。
そう、ここなんだ、アタシの居場所は。

矛盾してる矛盾してる。

唇の隙間から侵入してきた小さな滴がものすごく、しょっぱかった。

上を向いたって溢れてしまうものよ。

カツン、カ、ツン、




ああアタシ、猫になりたいんだわ!



ふてぶてしい顔した猫がアタシに向かって小さな威嚇をした。


#13

雲の上

 梅雨入りして雨日が続いた今週、休日の今日も分厚い雲が空を覆っていた。隣の家に半分柴犬の血を持つ雑種が飼われていた。ケンと云った。僕が庭に出ると、いつもケンは柵の向こうの庭から鎖に繋がれた首を僕に向けてきた。散歩に出掛けるケンを僕は見たことがなくて、ケンは鎖が繋がる杭に決まってションベンを掛けているようだった。雨が降るとションベンの臭いが僕の家にまで来た。今日はその苦言を隣に云おうと決めていた日だった。犬は悪くない。隣の家族が悪い。電車で出掛けた後、帰ってきたら云いに行くつもりだった。
 CDを買いに定期を使って栄まで出掛けた。思いを寄せる子がカラオケで「これ歌えない?」と聞いた曲のCDを探しに来た。いつもは通りすぎる栄に久しぶりに降りて、高層ビルが低い空を支える街の中を歩いた。栄は汚かった。ショップに入ってCDを探した。今週のイチオシの棚にあってすぐに見つけられた。その歌手KKを知らなくて、その彼女から聞いて始めて知った。棚の前にKKの紹介があって、僕よりも年下と知った。彼女は僕の一っこ下だけど、その彼女よりもまた年下だった。
 そんなKKが一押しの恋の歌を歌う。棚の隅の視聴機で聞いてみた。最近僕と同い年や年下のスポーツ選手が日本代表に出てくるようになった。また、以前に大江健三郎の『死者の奢り』を読んだ。この前は、それまで興味のなかった村上春樹を始めて読んだ。『風の歌を聴け』だった。今の僕を三十歳になった僕から見た時後悔したくないと、まだ文章を読み、いつか芽を出す蓄積を続けようと選んだ。KKの歌の歌詞を聴いた。この曲を買う気になれなくて、何も買わずに電車に乗った。
 栄は汚さと幼さが溜まった嫌な所だった。栄から同じ電車に乗った女の子の、口に付いた銀の玉のピアスが、まだ僕にまざまざと突きつけて来た。特急の通過待ちする車両からホームに降りて、続く線路の分岐点を見つめていた。街が混濁する浅い池のように見えた。――僕も雲の上へ飛び出したい。重苦しい空気を脱ぎ捨てて……。

 家に帰った僕に母さんが声を掛けた。
「隣のケンちゃんがいなくなっちゃったんだけど。」
 僕は庭に降りてケンのいた隣の庭を見に行った。奥さんのケンの行方を案ずる憂苦な声が聞こえてきた。杭の鎖が切れて地面で寝ていた。僕はそのションベンで錆びた鎖を見ながら、僕に振り向くことも忘れて遠くの闊達な地を走っていくケンを思った。


#14

愛と汚穢

(この作品は削除されました)


#15

空が走る

 ジャスコへ直進40km。
 こういう看板が実在することはネタとして知っていたけれど、いざ目の当たりにすると有無を言わさぬ迫力を感じる。広域農道、直線道路、車は一台も見当たらない。北国の六月の朝は早い。遠方はもやがかかっている。
 照明のついた看板の下で空が屈伸運動をしている。長い髪は後ろで一つにまとめられていて、体の動きにあわせて揺れている。私はビデオカメラを助手席に固定していたのだが、手を止めて彼女の様子を見た。いわゆるジャージでも着る人によってカッコよさが全然違うということを改めて認識する。よかった、私はジャージを着てこなくて。

「ねえ、だいじょうぶ?」
 私は窓から身を乗り出して尋ねてみた。何が、というわけではなかった。ただ空を呼びとめたかった。
「靴は問題ないよ。そっちのカメラと車はどう?」
 空に問い返された。そういえば東京でリハーサルをした時は原付を使っていて、私は走っている空を撮るのに夢中になり事故りそうになったのだった。今日はあの時よりも数倍の速度を出す予定で、ソフトもメカも最新のバージョンだから、実際のところ心配し出したらきりがない。
「動くかなあ?」
 漠然とした不安が私の口からこぼれ出た。

「動くって。応答速度はMEMSによる微細化で改善する方向だからOK。DSPのパフォーマンス向上も効いているし。耐久性は私の体重ぐらいだったら差し支えないかと」
「安全性は?」
 あえて体重のところにツッコミを入れずに問う。ていうか、説明された内容ぐらい熟知している。なにしろ私の修士論文のテーマなのだ。
「なんだか学会で質問されているみたい」
 空は笑って私をはぐらかした。

 空はフロントガラスの向こうで手首と足首を回している。やがて手でこちらに合図を送る。私は録画を開始する。空は振り向かないまま走り出す。ハンドブレーキをはずしアクセルを踏む。空の姿はすごい勢いで小さくなっていく。スピードの秘密は靴にあって、でも靴の外見は普通のものと変わらないから、何も知らない人が見たら空の走りに仰天するはずだ。車を加速させる。40kmの看板が後ろに流れていく。空の笑顔が思い浮かんだ。続けて不穏な想像がするりと頭の中に忍び込んできたので、一生懸命消そうとする。
 さっきよりも明るくなってきた。はっきりしてきた緑、その中を空が駆けていく。30kmの看板まで設計上はあと三分少々。祈るように私は運転を続ける。


#16

iCon

 宗教画みたいな柄の蝶々が飛んでいる。
 パレード。
 虹。
 行き止まりの壁に貼られた虹の設計図。
(行き止まりに描かれた最後の晩餐)
 今日はパレード。今日は聖人の命日だから。音楽。ロボット達の自動対空砲が、虹の向こう側へ。虹の向こう側へ虹の虹の虹の向こう側向こう側へ。
「音楽がやかましいな」
「……」
「何か言えよ」
「……」
 シスター達が笑っている。美しくて傲慢で愚かで賢くて愚かで賢くあるのがシスターになる条件だった。ロボット達の対空砲火。爆発音。燃え上がる。虹。虹、の向こう側。飛行機と蝶々が、燃え上がる。オーバーザレインボー。
「静かな音楽なんて音楽じゃないなんて言いたいのか? ディストーションギターがポップミュージックにもたらした影響だとかを言いたいのか? テクノの、ヒップホップの、馬鹿みたいな音圧のバスドラムがどのように世界を揺るがしたかとかの話か? それらにサンプリングされて使われるアラブ、インドの宗教旋律のことか?」
「蝶々を捕まえたよ」
「なんだと」
「ほら」
 虹の設計図。行き止まりの二人。宗教画。ロボット達。行き止まりの、最後の晩餐。シスター達はワインを飲んでいた。パンはあまり食べない。ワインばかりを飲み続けている。美しい人々。美しくて傲慢で愚かで賢くて優しくて何も信じられなくて好きだったものをすぐに嫌いになってしまって絵がうまくてでもそれよりうまい絵はいくらでもあって世界を何週もしてでもどこにも辿り着けなくて何も見えなくて何も聴こえなくて蛇に抱きしめられて蛇は暗闇を抱きしめていて百人のあなたでもこれも違ってあれも違って千人のあなた地平線これも違うあれも違う全部違う、そのような条件のシスター達。
「これが兄さんだよ。綺麗で賢い、お前の兄さんだよ。いい飛行気乗りで、だから今も、永遠に空を飛び続けている」
 母が子にそう言って見せたのは、明らかにゴッホのひまわりだった。
 干からびた湖。パレードが通り過ぎる。羽。花々が当たり一面に散らばっていて。歴史書。宗教画。あたり一面に、見渡す限りに散らばっていて。

 三十年経ったある日、オークションにてゴッホのひまわりを落札する。
 虹。虹の設計図、の向こう側。超高精細スキャナにてひまわりをスキャンする。何枚も。何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も。宗教画を描く。
 朽ち果てたロボット達。朽ち果てた何十本もの虹。
 オーバーザレインボー。
 宗教画を描く。


#17

熱帯夜

 重々しい風が、ようやくあの甘美な夢魔が支配する屋敷の門戸へとたどり着こうとしていた千江美の魂を揺さぶった。彼女を乗せた馬車を曳く二頭の黒毛馬は、薄笑いを浮かべた三日月に向かって高々とその前脚を掲げると、海に漂う航跡のように白い小道を引き返していった。
 千江美は目を覚ますと、天井が見当たらないことに気がついた。蒲団がかかっておらず(だが、それは暑さのために蹴飛ばしたのだろうとすぐに了解した)、まるで診察台のように素っ気ないベッドの硬さに頭に来て、寝返りを打った時、死をカウントしているような赤い点滅が目に入った。彼女はようやくそこで自分が自衛隊の敷地内にある滑走路で寝ていたことを思い出したのだった。
 報道管制が敷かれているために、彼女の寝室は、鼓膜を打つヘリコプターの羽撃きも蚊柱のように現れる報道陣も寄せつけない、聖域と化していた。水を打ったような闇が、フェンスの陰で震えていた。
 千江美の力を見出した研究者達は、彼女を元の姿へ戻す試みを放棄した。それには彼らなりに十分な理由があったのだが――彼女が日に一度は必ず出撃すること、エネルギー維持に大気の摂取だけで事足りることが判明し、食料の確保を必要としないこと――巨大化したまま生きていくことになった彼女には、当然、無慈悲な行いにしか映らなかった。
 千江美は堪え切れずに泣きはじめた。自分の鼓動が、それだけで周囲の者の耳を聾する程であることを、彼女はわかっていた。手で口と鼻を覆い、嗚咽を封じ込めても、自衛隊機が離着陸する音と大差ないだろうということも、よくわかっていた。だが、悲しい事実が――今朝、敵に突き飛ばされた千江美の下敷きになって、黛くんが死んでいた――彼女から自制心を奪っていた。
 赤い点滅に追いやられた闇が、千江美がつくる陰の中にこっそり逃げ込んで来た。
 煮染めたような暑さだった。替えの服などなく、体を洗えるのは出撃後の海の中でだけ――もちろん、報道陣のカメラが狙っている――彼女の肉体は、魚が腐ったような酷い悪臭を放っていた。そのことに自覚的な彼女の心は、ヤスリをかけたように、日々、磨り減っていった。
 風がやんだ。
 あの二頭の黒毛馬に曳かれた馬車が、ゆっくりと姿を現した。千江美は読みさしの『アンの愛情』を閉じて脇に抱えると、やって来る馬車に、潤んだ視線を投げた。腰掛けていたベンチから立ち上がると、じっとそれを待った。


編集: 短編