# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 自動筆記 | 秋好夕霧 | 996 |
2 | 春に、長い髪の彼女を思う | イス川 | 1000 |
3 | 手 | K | 998 |
4 | The Blue Marble | さいたま わたる | 1000 |
5 | サクラ・テレパス | 八海宵一 | 907 |
6 | ケチャ | わら | 1000 |
7 | 血流 | 笹帽子 | 1000 |
8 | あの娘になりたい | 藤袴 | 540 |
9 | 水面下に生きる | 柊葉一 | 866 |
10 | 擬装☆少女 千字一時物語28 | 黒田皐月 | 1000 |
11 | 綻び | bear's Son | 1000 |
12 | とあるひととき。 | ちぃ | 992 |
13 | あー休日は寝たいけど寝たらすぐ終わるしさようなら。 | Revin | 1000 |
14 | ドミノ | 浦上やず | 998 |
15 | 白山羊 | はるひ | 697 |
16 | 家庭教師 | qbc | 1000 |
17 | 存在のゆらめき | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
18 | イマジナシオン | 崎村 | 935 |
19 | 声に出して、ネバーランド | fengshuang | 968 |
20 | 九龍 | sasami | 1000 |
21 | 嚥下 | 森 綾乃 | 997 |
22 | ホーム | 川島ケイ | 1000 |
23 | 箪笥角 | 三浦 | 999 |
大体サァー? もうワケわかんなァーい。アタイもうワケわかんなァーい。もきゅーうぎゅーって感じー? 殿下ァー、クシャナ殿下ァー、小生もうダメであります! 殿下の、殿下の、殿下ァァアアーー。私の死が其処におります! イエ殿下、此処です、この咳き込み過ぎてズキンズキンと痛むこの胸に、であります。殿下ならば殿下ならば……殿下、どうしてでしょう……どうして? 殿下、殿下の巣穴に裸足で踏み込むのはアリですか? ……いや、殿下、あ、ナ、ナウシカ殿! オデュッセウスはどうされた! ナニ!? ……ほうほう、ナニ、セイレーンに……そうでござったか。あいやソレはご愁傷サマ! さぁ……うっ、急に腐界の毒が! じんこーこきゅーしてもらわないと死ぬー! 母さん……助けて母さん……東京都新宿区新宿……映画の中の母でさえ殺せない私とは一体何なのだ……? ……母さん……鳥が囀り海が漣なのは世界が終わった事を知らないからかな? だからさ、本能は壊れてんの。知らない? じゃないとこんなに多種多様にならんの。感情と本能が炎を纏った剣でチャンチャンバラバラ丁丁発止のバッコンバッコン! なんでだ! 何故そのように考えるのだ! ……あ、セイバー? 今一寸手が離せないから後でね。何故! ……だから、えっ? いいの? マジで? ぐへ……本当に? リボムでグルグル? えーっ、それはサァ……ヘヘ……困ったナァ、セイバーのは凄い摩擦係数だからなぁ……熱エネルギーとか30万km/sとかでもう光速だからなあ。やめて、あっ、や、やめ……やめて…殿下、用意が整いました。で、殿下! そんな! お、お召し物を! キャー、す、すげぇ…、お、お止め下さい! ああっ! えっ!? マジかよコレ……うわぁ…そうなってそうなのか……うはー、存在論的にね、あいや、存在的にだね、この便所は用を、用をだよ、コホン、なさなくなったのであるな。ではp.32を開いて。ハイ、そのおどろおどろしい巨塔は私を惹きつけた。入ると同時に内面が見透かされるような感触を覚え、私は不安だった。まるで空に落ちてゆくような、微かな浮遊感がある。然し階段を登るにつれ翼が生えたようになり、いつしか私は恍惚感さえ覚えていた。なんだろうこの気持ち。不思議だわ。でも……ああっ、そう! そうなの! イエス、イエスよ! イエス! とんでもないくらいにイエスだわ! サナバビーッチ!
日曜、朝五時の街はしんとしていて、僕は奇妙な乖離の感覚を覚える。僕は東に歩き、影は西に歩く。平衡感覚を失いつつも、世界は綺麗にまとまりを保ち続ける。やがて僕の前方にあるアパートメントの谷間から朝日が昇る。それは何とも形容しがたい気分だ。ビートルズはハニー・ドントを甘く響かせ、春先の無垢なる小鳥たちは美しく嘆く。空は青さを取り戻し、今日も一日が始まる。僕はベンチで地球の形状的な不完全性について思った。
*
「夏にはデンマークに留学するの」と彼女は言った。僕の好きになる人はすぐにどこかに行ってしまう。これはもう一般常識であるようだった。お隣の犬も、近所の小学生も、みんな僕の好きな人が消えてしまうことをルールとして知っているように感じた。
中学一年生のときの彼女も、三年生のときの彼女も、結局は僕をある種の段階として通り過ぎ、そしてすぐに霧の向こうにいなくなってしまった。それは決して予測できることではなかった。灰色の線が直角に曲がって僕らの道を引き裂き、そして二人を穴に突き落とした。二つの経験は僕にとって、何よりも大きな絶望だった。輪郭のない暗黒だった。
そして、彼女は何も分からぬままデンマークへ渡ってしまうのだ。デンマーク?それは僕に月の裏側を思わせた。いくら漕いでも辿りつかない、そんなところに彼女は行ってしまうのだ。
彼女の長い髪をもう見ることはできないのだ。そう考えると僕は酷く胸がこわばっているのを感じた。体中の水分がなくなってしまいそうな苦しみだった。またしても僕の愛した人間は横を通り過ぎてゆくのだ。それはある意味では宿命なのかもしれない。あるいは誰だって結局はそういったものなのだろうか?
*
考えていると、太陽は完全に朝の上昇を終えた。僕は進まなくちゃいけないのだ。それは一般論である。しかし一般論は果たして誤っているのだろうか?僕は進まなくちゃいけない。それは後ろ向きに歩こうがスイカの種を飲み込もうが変わりようのない伝統的な事実だった。社会科の教師が言うように、涙を飲まねばならないときがある。
僕はベンチを立ち上がった。全てはそれなりの形状を取り戻すのだ。もともとガスの集合だった地球も、確かに不完全ではあるが一応の楕円形を保っている。これは奇跡でありながら当然のことなのだ。全ては丸く収まる。そんな風に世界は成立している。
どこかで猫が鳴き、どこかの川のせせらぎが聞こえた。僕は歩く。
「これが、俺の手えか?」
祐樹は、掌に幾重にも刻まれた色の濃い皺を陽にかざした。油にまみれ、粉っぽい埃がこびり付いて乾いていた。
「お前の手えや」
木のベンチを軋ませながら勝が煙を吐き出して言った。眉根に皺を寄せ、勝は祐樹の方に顔を向けた。
「ええことも悪いことも全部その手えでやってきたんや」
浅黒い目尻の皺を畳みながら、勝は笑った。二人の作業服は薄汚れていた。一帯に広がった太陽の光がそれぞれを黒く浮き立たせていた。
「勝さん、俺は今初めて気付いたような気がしたんや、俺がここにおるのも生きとるのも、全部この手えでやってきたんやな」
祐樹は両手を勝の目の前に突き出した。袖口から糸がほつれていた。
「忘れとっただけとちゃうか」
祐樹は虚を突かれたような顔をした。
「忘れとったって?」
「それか、気付かんようにしとったか、どっちかや」
勝は斜め上に煙を吐き出した。顔は祐樹の方に向けていたが、勝の視線は裏手の山に伸びていた。祐樹は顎を擦りながら考え込んだ。
「俺は何年も気付かんままにしとったっちゅうことか」
喉の奥から搾り出すような声で、祐樹は呟いた。
「せやろな」
勝は表情ひとつ変えなかった。日照りは強く、アブラゼミの声が緩慢な午後を洗っていた。それ以外には何の音もなかった。祐樹が考え込んでいると、勝は煙草を灰皿に揉み潰した。
静かに、工場が軋り始めていた。勝は立ち上がって片手で腰を叩いた。
「勝さんはどないなん、気付いとったんか、気付いてへんかったんか」
祐樹が詰問するように言った。
「何や?」
トタン張りの外壁には蝉が一匹とまっていた。コンベアが稼動し、無機質に湧き出る機械音が辺りに溢れると、蝉は羽音を立てながら飛び去った。
「俺はな、気付いとったたで、でもな」
勝は一旦そこで言葉を切って続けた。
「考えへんようにしとる」
そう言って勝は歩き始めた。
コンベアは同じコースを一定の速度で廻っていた。電源スイッチが切れるまで止まることのない音が、軌道に乗って轟音を立て始めた。それは何年間も一切変わり映えすることのない日常だった。
「ほら、早よせんか」
勝が急かすように言った。祐樹は慌てて立ち上がり少し小走りになった。茶色く変色した祐樹のスニーカーがコンクリートを踏みしめ、くぐもった音を立てた。祐樹は歯を食いしばり、手を硬く握り締めた。駆け足のまま祐樹は、錆び付いたドアノブに真っ直ぐ手をかけた。
「オイ、出かけるぞ」
皇子が襖の彼方より声を掛けてきたので、ヘイと答えて私は従者となる。
「今日は、どちらへ」
返答がないのは、正妻のもとへ向かう合図だ。すらりとした立ち姿、匂い立つような所作に、あまた異性が靡くのも分からぬではない。妻がいるにも関わらず浮き名を広める奔放さの陰には、皇子とはいえ妾腹の第二子という立場ならではの政治的配慮があるのだろう。あいやこの瓜実顔、人間本能の全面肯定を基盤に行動しているだけやも知れぬ、などと他愛もないことを思いつつ私は、無言のまま後を付き従う。
前を歩く影が細長く伸びきり、ふいにその影は小首を傾げた形ですっと止まる。皇子はうすら笑いを浮かべ
「方違え、するわ」
と、脇の路地へと折れる。ああ、またか。四つ年嵩の奥方がよほど苦手なのだ。暮れゆく夏。夏は夜。闇夜に新たな異性を求めさすらい、従者は今夜も寝ずの番、俄然軽やかとなる衣ずれの音は、やがて街のはずれあたりにたどり着く。
「あの明かりは、いったい」
燦然と輝く光の下に一本の大樹。この世のものとは思われぬ賞賛の芸術だ。九つの丸い実をつけた大樹へ、つい思わずという様子で、引き寄せられやがて立ち止まる。
ちょうど小腹が空いたところだ、それへ登ってあの実をひとつ取ってくれ、エエエ私がですか、オマエしかおらぬではないか、それはそうですが、いやか、いやけしてイヤというわけでは、ならば早く、わかりましたわかりました急かさないでくださいのぼりますこうみえても木登りは昔から得意中の得意。袖たくし上げ幹に取り付き、ヨイこらしょのエイサほさ、もひとつおマケにホイさっさ。さあてどの実にしますか、この馬鹿でかいのにしますか、それともあの黄金色のやつにしましょうか。
「上から三番目の実が旨そうだ、違う違う、その赤い実のひとつ上の、そうそう、その青い果実だ」
私は、皇子の指さした実をもぎ取り戻る。その果実の表面は、白波を立てつ広大なる無辺の海。早くこちらへ寄越せ、とばかりに肩越しから伸びくる腕には逆らうこと叶わず。「いけません皇子、果実はすでに虫が湧き、あちこちから毒素が噴き出され」なにを小癪な従者め、という目の牽制に身動きならぬこの身が、ひたすら恨めしく情けない。そんな私の気持ちなぞ知る由もなく、
「なあに、構うものか」
がぶりがぶりうまいうんまいと齧り尽くすと、皇子翌日より腹を下し、三と七、二十一日の間どっぷりと寝込んだ。
校門脇の自転車置き場から、校舎にむかって伸びる桜並木のひとつに腰かけた直哉は、鞄から文庫本を取りだし、ゆっくりとページを開いた。部活を終えたこの時間、陽は傾きはじめたが、まだ本を読むのに不自由のない時間だった。暖かい風が直哉の頬を通り過ぎ、桜の花びらが、寝ぐせの残る髪に着地する。
春眠暁を覚えず。
心地よい風に包まれた直哉は、ページを2、3度めくっただけで無防備な寝顔を見せ、かすかな寝息をたてはじめた。瑞穂の部活が終わるのを待つ時間。そんなわずかな時間でさえも成長期の体は眠りを欲しがり、スイッチが入ったように睡魔に降伏する。女子バスケ部は、直哉のブラスバンドよりも熱心だったから、新年度になってから直哉はなんども瑞穂に起こされ、からかわれた。ロボットじゃないんだから、と。でも、自転車置き場から少しはなれたこの場所は、木の陰に入ってしまうと人目につかないし、なにより色づく桜の花びらがきれいだったから、直哉は、ついつい油断してしまい、眠りの世界に落ちた。もしかしたら、霞につつまれたような別世界がそうさせているのかもしれない。
春眠暁を覚えず。
唇に春風が触れた。生暖かいとけるような甘い感触。その感触はしばらく続き、眠っていた直哉は目を覚ました。
「おはよう、直哉」
目の前に瑞穂が座っていた。部活が終わったばかりだからだろうか、彼女の頬は桜色に染まっていた。いつもは見せない少し緊張したようすに、なぜだか直哉の頬も上気し、鼓動が早くなった。いまの感触はもしかして……。
「おは、よう」
ぎこちなく返事を返すころには、耳の先まで赤くなっているのがわかった。手がかりは、唇に残っている感触だけ……でも、それで十分だった。
今までに感じたことのない予感。新年度、新学期……わかりきったことだけど、なにもかもが新しく始まりだす。ぴかぴかで、わくわく胸躍り、そして、少しだけ怖いような感覚。
直哉は木にもたれかかっていた半身を起こし、瑞穂に顔を近づけた。そして、そのまま、静かに唇を重ねた。
そう、この感触。まちがいない。
だから、ふたりの時間はそのまま、しばらく静止した。
心地よい風に包まれたまま、桜の木の下で。
仰々しい撮影機材を手に日本人がぞろぞろやってくることは、この島ではあまり珍しいことではない。だが彼らの前でタンブールを務めることは、若いワヤンにとって大変な名誉だった。
「ニョマンが怪我したばかりだが撮影は受ける。ワヤン、代わりにやれるか?」
長にそう言われた時、ワヤンは素直に喜べなかった。プトゥと目が合ったからだ。ワヤンは知っていた。プトゥがタンブールに誰よりも憧れ、誰よりも努力していたことを。
「プトゥ!」
ワヤンは何か言わなくてはと思って呼びかけたが、プトゥは黙って出て行った。
「うまくできるだろうか」
間もなく本番だ。日本人たちも慌ただしく機材のセッティングを始める。
「ワヤン!」
呼ばれて振り返る。
「プトゥ!」
だがそこにいたのは松葉杖をついたニョマンだった。
「ん、プトゥがどうかしたか?」
「いや、なんでもありません」
「緊張してるのか?」
「はい。本当に俺でよかったのかなって」
「お前を指名したのは俺だぞ。お前ならできるさ」
元タンブールはワヤンの肩を叩いた。
「え、そうだったんですか。でも何故?」
何故プトゥではなくて俺が、とワヤンは心で続けた。
「お前が、優しいからさ」
ニョマンは笑った。若者の心中を見越したような笑顔だった。
半裸の男たちが無数に集まり、その中心にはワヤンが立っている。
チャッチャッチャッ
男たちが歌う。その中央でリズムを取り、歌を導く。それがタンブールの役割だ。
プンプンプン
ワヤンも歌いながら男たちの歌を聴く。と、プトゥの姿を認めた。いつものように一生懸命歌っていた。ワヤンは胸が熱くなるのを感じた。
プンプンプン
声に力が入る。ワヤンの熱は男たちに伝播する。全員の精神が一つになる。
だがワヤンは違和感を覚えた。中心にいるワヤンだけに感じられる、とても小さなズレ。
ワヤンは目を閉じ、耳を澄ませた。
「プトゥ!」
不協和音はプトゥから発せられていた。プトゥはわだかまりを捨ててワヤンの下で歌っている。だが彼自身も自覚のないうちに、嫉妬心は意識の底で小さく燻っていたのだ。
ワヤンはプトゥを見つめ、想いを乗せて歌った。一瞬、プトゥが笑ったように見えた。
ケチャケチャケチャ
男たちはついに一つになった。ワヤンを中心に、彼らは大地と一つになり、空と、森と、海と一つになった。
バリの夕焼けは美しく優しい。男たちは地面に伏し、ワヤンだけが大地に立って夕日を見ていた。
若い娘の血はうまい。でももう選んでなどいられなかった。血が騒ぐのだ。ともかく吸わなければならない。目覚めたときから頭が痛く、立ち上がって動く事ももう出来ない。気が狂いそうだ、いや、既に狂っているのか。左腕はすっかり噛み尽くし、手首には骨が覗いている。赤が白の表面をすべっている。まだ滑らかな右の二の腕に噛み付いて、吸う。
そこら中が赤く染められた蒲団の中で、不気味に白い天井を見上げ、俺は、濃くなった吸血鬼の血を吸い続けていた。
夜のJRで見かけた、おとなしそうな女子高生に目を付けた。やや長い紺のスカート、白いブラウスに白のセーター、手には文庫本、幼くて素直そうな口元、小さめの眼鏡、ぱっちりした目、肩にかかる黒髪。こういう大人ではなく子供でもないのが、一番うまい。人影もまばらなプラットフォームの闇。虚ろに赤い電光掲示板を過ぎ、白く輝く自販機の前を過ぎ、彼女の後を追って階段を降りる。彼女のうなじが目に入り、唾液がもうどうにも止まらなくなる。これはうまそうだ。吸血鬼の血。騒いでいる。早く噛み付くんだ。
やはり若い娘の血はうまい。吸血体質になってからもう長いが、女子高生の血が一番うまい。成熟し始めた身体のとろりとした甘い血の味は、吸うともう忘れられない。吸血因子の逆流入は俺にとって憎むべき悪運だったが、しかしこの味が楽しめるのはその呪いのおかげなのだ。運命を完全には憎みきれない。それくらいうまい。これもまた、呪いなのだ。
生温い六月の風。街灯が照らし忘れた路地裏。襲いかかり、ブラウスとセーターを引き剥がしはだけさせ、後ろから肩に噛み付く。顔を殴って暴れるのをやめさせる。若い娘の血を吸うときは鎖骨に噛み付く。それが一番うまい。柔らかく弾力のある肌にゆっくりと牙を差し込んでゆく。彼女の体が震える。甘い肉に牙が分け入り、とろとろの血を舌がすくう。香りが口の中に広がる。苦悶の声がきこえてくる。俺には悦びの声にきこえる。頭に血が上る。世界が白熱し、赤熱し、暗転する。これが一番うまい、うまい、うまい。
吸血鬼の血は一旦は静まった。頭がくらくらする。
へたり込んだ女子高生が、後ろから、吐き捨てるように言う。
「馬鹿みたい」
振り返ると彼女は、電車の中の姿からは想像できなかった、蔑むような嫌悪を目と口元に浮かべ、尖った歯を見せていた。飛び散った血がセーターになにか描いている。俺は口元を拭う。
今日も昨日も一昨日送信したメールの返事が来ない。
数ヶ月前からずっとこう。とても惨めになる。
今じゃ頻繁にこちらからコンタクトを取りに行くことさえ尻込みして、私は彼のブログを読みに行く。
あの子が貴方の日々に彩りを添えるようになってからずっとこうだ
相変わらずブログではあの子と貴方のメモリーが綴られている。
本当ならばあの子のポジションに私がいる筈だったのに。
・・・ねぇ、私はなれるならあの子になりたい
私もあの子みたいにあなたに愛おしく想われたい。
彼が好き。まだ好き。とても好き。ずっとずっと嫌いになれない。
だけど彼は私じゃなく、あの子をずっと見てる。
だから、できるなら、私はあの子になりたい。あの子になって彼をうんと愛してあげたい。
でもあの子には私はなれない 根本的に違う。
"素敵な性格" "純粋な心" "抜群のスタイル" "美しい肌" "愛くるしい笑顔"
ああ。私はなれない。どんなにがんばったって50%すら私はあの子にはなれない!悔しい。悲しい。
ねぇ早くあの子じゃなくて私がまだ とても君を見ていることに気づいてよ。すきなの、すきなの。とってもすきだから。
(・・・)
(・・・。)
(・・・ああ・・・本当に。ね、君はこの愛らしいだけの美少女アニメキャラクターのどこがいいっていうの)
人気のない廊下。カーテンに隠れた窓際。げた箱で横に並んだ時。
突然に、当然のように、キスをされる。
「なんで?」
僕は聞く。もう何度も、投げかけた問いだった。しかし、彼女は決まってそんな問いには答えてくれないのだった。
僕のネクタイを握って、上目遣いで僕を見つめ、ニッと不敵な笑みを作る。そして
「上原さぁ、泳ぐの得意?」
なんて思いもよらない話題を振ってくる。
今日は、僕が壁に押し付けられる体勢だった。夏休み前日の、放課後の教室。クーラーが切れて、熱気が押し寄せてくる。僕はじっとりと汗ばんでゆく体をうっとおしく思った。
「まぁ……それなりに得意だけど、なんで?」真面目にもそう答えながら、今回も問いかけを流されたことに、溜息をこぼした。
彼女から視線をはずして、天井を見上げる。彼女の肩を押して、無理やりにでもどかすことはできたけれど、僕はそれをしなかった。
そっと、彼女が僕に、体を預けてきた。シャツの上からでも、触れた彼女の熱が伝わってくる気がした。僕の襟元に、彼女の頬が押し付けられていた。
「いいなぁ……私、カナヅチなのよね。昔海で溺れたことがあって、それからもうだめ。」
「ふぅん、水が怖いの?」
「狂犬病のはなし?」
「いや、そうじゃなくて」
僕が言うと、彼女は僕の胸に顔をうずめて、くすくすと笑った。
「真面目だね、上原、いい人」
そう呟くと、彼女は急に静かになって、僕の背中と壁の間に、手を滑り込ませてきた。腕に、力が込められていた。僕の腕は宙ぶらりんのままだ。
「あの時、本当に死ぬのかと思った。太陽が水面で光ってるのが、沈んでいく時に見えて、それが本当に綺麗で、あそこから天使がっ降ってくるのかって思ったくらい。」
僕を見上げる彼女の手が、頬に触れる。
「あの時なら、死んでも悔いが残らなかったかもしれない。」
「今は、死んだら悔いが残るの?」彼女の視線に、僕は応えた。
「……キスしながら死ねるなら、悪くないかな」
わずかに開いた僕の口に、彼女は唇を重ねてきた。
されるがままに、キスに応える。
なぜだか一瞬、その行為は僕に、海辺の人工呼吸を連想させた。
五月十日、午前十一時。梅雨の時期にはまだ早かったが、傘を一本買った。それは大雨には耐えられなさそうな華奢な傘なのだが、先の雨の日に使った雨傘よりも値が張った。手に提げた袋には洗顔料の他に、日焼け防止クリームが入っている。それならば、今すぐこの日傘を開くのが道理だろう。それなのに、踏ん切りがつかずにいる。
臆病な自分だと思う。昔から、何かに挑戦しようとか何かに打ち込もうとしたことは、なかった。まだ開いてはいないが、この傘の下に隠れているようなものだ。だから、密やかなものに惹かれたのかもしれない。女装というものをどこかで知ったとき、甘くて柔らかでしかし危険な、ほの暗い悦びを感じた。それを手にしたくなって、闇の中を手探りするようにして調べた。これほどまでに何かに興味を持ったのは、初めてかもしれない。
予想した以上に奥が深いことを知った。耐えるべきはその瞬間の羞恥だけではなく、むしろそれに至り、維持するための自己管理と、立ち、歩くときをはじめとする姿勢を身につけることであると言う。だからまずしなければならないことは、シミやニキビを作らないための肌の手入れと、歩き方の習練と、腰周りを絞ることである。そのために、日傘を買った。日に焼けると肌が痛む体質だから、五月は紫外線の多い季節だから、急いで買った。
それなのに、開けない。この瞬間にも澄んだ色をした空から多量の紫外線が降り注いでいるのにも関わらず、日傘を開けない。日の光から少しでも逃れるように顔を伏せて急いで歩いていても、手にした日傘を開けない。焦燥は歩調を速め、身につけるべき歩き方からも遠くなる。捨ててしまいたいという思いがよぎる。しかし買ったばかりのものを捨てられるほどの度胸は、ない。
家に帰り、布団の中に潜り込む。もう何も見たくない。それなのに闇の中には完成された女装の姿が浮かんでくる。薄手で淡い色のブラウスとスカートの清楚な姿が、鏡像のように目の前に浮かんでくる。目をそむけようとする。しかし今度はそこに横顔が浮かぶ。手を前で揃え、伸びた膝を揃えて立つその像は、僅かな汚れも落とした自分の顔をしている。
布団をはね、日傘を開いた。日傘を開くと、日傘を開いただけだった。クリームを塗って外に出て日傘を差すと、日傘を差しただけだった。諦める度胸もないのだと自分を笑って、目深に日傘を差したまま、膝を離さないようにして歩き出した。
街外れにある小高い丘、宅地分譲の住宅予定地に白いコンクリートが立ち並ぶ。丘の上、雑草が生い茂る中を、木の枝を持った子供達が走り回る。
年長の子供が一番長く、形の良い枝を手に持つ。勝利するのは彼だけで、彼だけが勇者の役をする。勇者の仲間は要さず、勝利する資格を持つのは彼以外におらず、他の子供達は彼の敵になる。
敵役も年齢によって役割が決まる。全ては必然と決まっていて、年長と同い年の子供が最後に勇者と対人し、一番長い決闘の下、倒される。一つ年下の子供達はその前に立って陣取る。他の年下の子供達に地位はなく、決まった持ち場だけを得、勇者が進み来る道に並ぶ、コンクリートの壁に一人ずつ待機する。
この常に同じ結末になる遊びは、春の陽気が満ち満ちていた昼過ぎから繰り返されてきた。年下の反論を持たない子供達は、勇者が現れるたびに斬られ、身体を盛んな雑草の中に沈めてきた。斬られた子供達は誠実に、指一本と動かさなかった。
陽が傾いてきた。
風の冷たさに陽気が追いやられ、子供達の服に染み入った雑草の匂いも冷えてきた。小糠雨が降り始めた。一味の雨。続演のさなか、綻びが影を潜める。一人の地位のない子供の脳裏に思い出される母親の声――「身体ヲ冷ヤシテハイケマセンヨ」。土の冷たさを拒む気持ちが不意に襲った。
今まで繰り返されてきたように、勇者がまた新しい冒険を歩み始めた。困惑が膨らむ。今まで繰り返されてきたものとは違い、勇者を連れてくる時間が、どう仕様もない恐怖となって身体を包み込む。今までと違う、始めての遭遇だった。
小雨が掛かるコンクリートの壁から勇者が現れた。この状況、眼前する困惑を振り切ろうとするように、今まで斬られてきた中で必要としなかった身体のすべてを繰り出した。一羽の兎のよう。凛呼として立ち向かう。幼い子供の太刀筋は、勇者のまさにそれを超え、一太刀、勇者の身体に打ち込んだ。勇者は声を上げて仰け反った。
しかし、勇者が倒れることはない。全ては勇者のきらびやかな逆境となった。斬られても片足を引きて足の裏で土を掴み、勇者はさらに勇者となって、貫禄の一太刀で幼い子供の身体を突き破った。
これまでと同じように、幼い子供はうつ伏せに雑草の中へ倒れ込んだ。風が草木を撫でていった。服を通して冷えた土と雑草の汁液が身体に染み込んだ。
丘と子供を一緒にして夕日が覆う。緑の丘に空知らぬ雨が染み込んだ。
「冗ッ談じゃありませんわ!」
叫ぶように言った撫子の前には、数十枚の写真がずらりと並んでいた。
「何が悲しくて私がお見合いなんぞしなくてはなりませんの!?」
「まあ撫子、落ち着きなさい」
宥める父・良哉の言葉も撫子の耳には入らない。相当頭に血が上っているのだろう。
「落ち着いていられるものではありませんわ! お父様、私が今何歳かお分かりになって?」
「十八だねぇ」
のほほんと答えるその素振りがさらに撫子の怒りを煽る。もはや撫子の心理状態はヒステリーと化していた。
きいぃ! と吸血鬼ならではの犬歯をむき出しにしながら、先祖返りの撫子は良哉にむかってわめき散らすこと数時間。
事の次第を始終見ていた凛香は、ひとつため息をついて、ぽつりと呟くように言った。
「撫子、ここはひとつ、してみたらどう? お見合い。良哉だって一大会社の社長よ? 撫子は一人娘なのだし、跡継ぎのためにそろそろ許婚ぐらい決めておかないと」
「跡継ぎって……。私人間とは子供を造れませんのよ?」
吸血鬼の先祖がえりである撫子は一種の妖魔なわけだから、一般の人間との間には子供が造れないのだ。
「その辺は大丈夫。撫子が結婚したら、その間に養子を取ればいいだろう?」
のほほんと良哉が言った。
「じゃあお父様が養子を取ればいいのではなくって?」
「だって子供を造るのなら一人だけにしようって、母さんと決めたからなあ」
良哉の妻であり撫子の母でもある桜子は、遅くに生まれた待望の一人娘が吸血鬼の先祖がえりだと知ったとき、半狂乱になったという。
「それとも、撫子には好きな人でもいるのかい?」
撫子は即答した。
「おりませんわ」
「そうよね。撫子は昔から理想が普通の人より高かったから」
凛香も頷く。
「じゃあ、問題ないじゃないか」
ぽん、と良哉は笑顔で手を打った。
「さあ、誰でもいいから撫子の理想に少しでも近い男性を選んで。そうしたら早速お見合いの準備を……」
「お父様、ひとつ言ってよろしくて?」
「ん? なんだい?」
「私これでも吸血鬼ですの。妖魔ですのよ? 短命な人間との結婚なんてまっぴらごめんですわ」
まとめた写真を良哉につき返し、撫子は玄関へと歩き出した。
「撫子、どこへ行く気だい?」
「久己のところにでも行ってきますわ。ストレス発散に」
言って、撫子は一瞬で姿を消した。流石吸血鬼ならではの瞬発力だなぁ、と、良哉はのほほんとお茶をすすった。
五、六人の少年らが元気一杯に空き地で遊んでいてやあ今日は空も晴れ渡って気持ちがいい、たまの休みに散歩したらこういう光景に出くわせて俺もつまんない会社員生活を乗り切る活力ってのが湧いてくるよ。頑張るぞと思ってたら子供たちが投げているフリスビーか何かだと思っていたものはエロゲーの空箱でした。糞ボケ!ああああ居たよ大学の頃にこういうのを平気で研究室の棚に並べてた奴。ほえほえ〜っ、いい加減にしろ。そりゃ俺だってAV見るし風俗にも行くがdistinguish A from B。お前らは段階というものを知らないから終わってる。セックスは、社会が理性的に回っていくために隠匿されているわけであり、もしそんなものが何の脈絡もなく日常に顔を出せば大抵の人は「エッ」と思うように出来ているのである。それは幼年期からの成長を通じてみんなの頭の中にゆっくりとインストールされていかなければならない反射なのに、あんなもんを簡単に拾えるような所に放置して彼らの成熟を阻害する無神経なキモオタどもは全員死ね。はい、児ポ法が大幅にパワーアップ!いっぱい死刑です。みんな「おめでとう」シンジ「ありがとう」。
「コラーー」と大声を出して走っていくと、少年たちは一瞬こっちを見て俊敏な動きでズザザッと後ずさり、突っ込んできた俺を中心に円になった。構わず俺はおもむろに足下の空箱を拾って見る。『私立まんまん女学院〜聳え立つ男の塔〜』というロゴの下に裸で縛られた女の子たちがEXILEみたいな布陣で切なそうにしている。裏返すと、そこの教師たちがいかに邪智暴虐であるかについて具体的なエピソードが画像付きで列挙。
はー最悪だな、と思って顔を上げると、子供たちが「もしかしてそれが欲しくて来たの?」的な顔になっているのに気づいた。俺は慌てて言った。「バカじゃねーの。こんなもんで遊んでんじゃねーよ」。
すると箱の中から煙みたいにモヤモヤ〜としたものが出てきて髭面のおっさんになった。「いらないんなら、持って帰るよ」。おっさんは俺の手から箱を奪うと、空に向かって飛んで行って消えた。俺たちはしばらくポカンとしていたが、やがて子供の一人が「昇龍拳〜」と叫びながら拳を突き上げてジャンプした。それを見た他の連中も同じように「昇龍拳〜」「昇龍拳〜」と跳ねる。しょうがないので俺も昇龍拳をやると「ダメだわ、兄さん」みたいな顔をされた。えーマジかよ。
車両を降りて、改札口に向かう昇りのエスカレーターに乗る。頭と胴体と手足を欠くことなく備えた人間が織り成す階段ドミノ。俺が今倒れたら前の中年おばさんから順にばたばたと直線のアートを創りだすのだろう。素晴らしく美しい。そこでは俺が一番だ。俺が始まりだ。だがドミノは自分からは倒れることは出来ないし、許されない。それはドミノに意志があることを証明し、アートが成り立つ前提を覆す。ドミノである俺を圧倒的に凌駕する神の手が俺の背中をどん、と押すと俺はおばさんを押すからおばさんが倒れる。残りのドミノも以下右に同じ。
「あの」
刹那、額の上で浮かんでいた俺の美的創作がエスカレーターの下方に吸い込まれる。あからさまに嫌な顔をして振り向く。何だよ、君は。蛍光灯に照らされたストレートの髪が眩い。何だよ、その両肩のピンク色の紐のキャミソール。あと、何だよ、すごく可愛いですね、君。
「財布……あの人が持っていきましたよ?」
「え」
あ、無い。ジーンズの後ろのポケットに突っ込んでいたはずの財布が無い。目線をエスカレーター上方へ。あいつだ。俺のヴィトンをトートバッグの中に入れている瞬間を俺は見逃さない。顔も左半部だが目に焼き付けた。そこまではいい。だが足が凍って動けない。まるで元から其処にあったエレベーターの付属品だ。
「追い掛けないんですか?」
彼女の言葉に背を押されるようにして漸く足が動きだす。動き出せばもう大丈夫。さあ走れ走れ!俺!あいつがこっちに気づく。「うわっ」って口の形を俺に見せて逃げる。もう遅い。その距離3メートル。余裕だね。と、思ったら相手も韋駄天だ。負けられない。あいつが改札を飛び越える。俺も飛び越える。あいつが西口の階段を登る。俺は2段飛ばしで駆け登る。後1メートル。手を伸ばす。その汚ねえシャツ掴んで引き倒してやる。そこで俺ははっとする。そうじゃなかった。
「おらっ」
相手の背中を自分の体諸共ぶつけて突き飛ばす。トートバッグから飛び出る俺のヴィトン。
砂埃を払って一件落着。相手はショックでそのまま突っ伏している。ざまみろ。
「さて」
別に今日は予定があったわけじゃない。ただ、ぶらりと街に来ただけだ。だが、急務が出来た。あの、俺の背中を押しだした、神の手ならぬ神の声の持ち主、というか神を捜そうじゃないか。神に会えるなんて天運だ。
それにしてもあの神様、すごく可愛かったなあ、おい。ははは。
「ほらご覧、山羊がいるよ」
長細い手漕ぎボートから、友人の示す方向を振り返ると、成る程山羊がいた。山羊は、継ぎはぎのような二階建ての家の屋根にいた。苔生し広く張り出した一階の屋根に四足で立ち、頭を垂れて屋根に生えた苔だか雑草だかを食んでいる。それに合わせ、大きくも小さくもない角がゆらゆらと揺れていた。
「おや、本当だ。あれは呪術や悪魔に関係のある山羊かね」
「いやいや、白い山羊だから関係はないだろう」
「成る程、それも道理だ」
ボートの上で会話をしていると、山羊が頭を上げた。口を左右に噛み合わせて咀嚼しながら、砂時計のような瞳で我々を見据えている。
「山羊はどうやって屋根に登ったんだろうね」
「おやおや、二階の窓から入っていくよ」
山羊は、硝子も格子もない枠だけの窓を軽く飛び越え、建物の中へと消えていった。我々は、山羊が再び出てこないものかと、少しの間その建物を見つめていた。
ほんの数分しか経っていなかっただろう。やがて一階の扉が開き、山羊髭をたくわえた老人が出てきた。まさか先ほどの山羊が、この老人に化生して出てきたのだろうか。
友人が大声で老人に声をかけた。
「あなたは、先ほどの山羊ですか」
そんな疑いを晴らすかのように、二階の窓から「メェー」と鳴き声が聞こえた。
「君達は実に元気が良いね。君達は誰なんだい。何が言いたいのかね」
我々は誰なのだろう。何を言っていたのだろう。友人は身体を揺らし、全身を覆う黒い毛を振るわせた。私は友人を振り返り、首に吊るした大きな鐘をカンラカンラと鳴らした。
「白い山羊なら、平穏に暮らせたろうになあ」
「ああ、全くだ。我々が黒いばかりに」
空が青いとそれだけでいい気分になる。鉄道に乗って町へ出かける高島は満足だった。と、隣りあわせた男が
「空が青いって感動する奴今でもいるかな」
と女に喋っている。高島は苦笑した。
男はダーツ得意なんだ、お前にみせたいな。と話し始める。高島には彼が平安時代の貴族に見えてきた。
昔は春になると素焼きの皿を的に投げる遊びが流行ったらしい。釉薬をかけない土器の茶色をかわらげ茶という。高島は慎み深い色あいのかわらげ茶がこんな空に、舞っていた時間を空想した。
麻布十番で鉄道を降りると、永坂で天ぷらソバをすすった。カツやソバを食べる度に漫画界の大文豪東海林さだおの肖像を瞼の裏に描く。彼がロシア文学を学んでいたこと、でも大学は中退したこと、友人だけ売れっ子になったこと、電柱に昇って叫んでいたこと、にも拘らず、ショージ君が生まれたこと。
生きることは天ぷらソバを食べるみたいにおいしいことなんだ、と高島は何度ショージ君から教わったことだろう。ソバ屋を出て、たぬき煎餅を買った。
空はまだ青い。踏む青と書いてトウセイというが、高島はますます気分よく広尾までの道を踏みしめていく。有栖川公園図書館の最上階の食堂で番茶を飲みながら、東京タワーを眺めているうちに、足がむくむくと芝公園へむかった。
そういえば西脇順三郎の墓がここにある。「存在はみな反射のゆらめき」という詩人の言葉も好きだった。墓参りをおえて、電車通りを右折して公園をあとにした。東京タワーは50年たった今でも空に鉄塔を突き上げ存在しているが、かつてここは大地震でめちゃめちゃになり、空襲で焼け野原になった土地だった。でもそんな出来事も、今では都市を語る時の香辛料となっていて、こうして高島が思い出すことさえも許してくれるのだった。都市の記憶に比べれば人間というのはちっぽけだ、と思うと哀しくさえなったけれども、たぬき煎餅を一枚ほおばると、うまかった。
ああ楽しかった、と思って鉄道に乗ろうとしたとき、高島の後ろからそっと後をつけていた一匹の猿が「もういいかい」と声をかけた。「うん」と高島は返事をした。「そろそろ千字だぜ」猿が言った。高島は千字小説の登場人物の一人だったのが、どうしても実際の東京を歩いてみたくて一日だけ抜け出してきたのだ。猿が腰にさしたナイフで高島をあざやかに斬ってしまうと、高島は音も立てずに、それこそ煙のように消えて、再び本の中に帰っていった。
「オーストラリア」
「モルジブ」
「イタリア」
「遺跡も素敵」
「バチカン市国」
「ニュージーランド」
「いいね、キウイだ」
「カカポもいる」
「韓国」
「ペ・ヨンジュン……」
私たちはコタツの中にもぐり込み、お金もないのに、行きたい国について語り合う。会話と温度の心地よさに、少しずつ意識が遠のいてくる。うとうとと。
「いつか、世界一周したいなあ……」
本当は彼と一緒ならこのコタツの中でもいいんだけど。
「一人で寝るなよ」
彼はそう言って、私の足を引っ張る。
「ん……、寝てないよう」
「コタツは駄目だな。人を堕落させる。おい、起きろ」
最初、彼は悪戯っぽく足をぺちぺちと叩いたり、くすぐったりしていたのに、そのうち、彼の触り方がいやらしくなってきた。そして、暫く間があったあと、柔らかくて温かいものが私の足の指を包み込んでくすぐった。こんなちっぽけな足の指でさえも、彼の舌の柔らかい感触や温度を感じ取る。気持ち良さと同時にそんなことを考えた。
「ねえ、今度の休みにはニュージーランドに行ってみようか」
あの時、確か彼は「うん」と言ってくれた筈だ。しかし、私がニュージーランドに行くことはなかった。
ギリシャ、トルコ、ノルウェー……、あなたを忘れるには、きっと、どこに行っても……。
彼のことをうだうだ考えて、こうやってうとうとして……。そんなことを繰り返して私はまったく進歩しない。コタツにうずくまる。
こんなはずじゃなかったのになあ。
その時、コタツの上でケイタイのバイブが鳴った。私はその音に吃驚して跳ね起きる。その瞬間、コタツ台に思いっきり脚をぶつけて、コタツ台が少し浮き上がった。
「うう……」
思わず声をあげた私は一枚の紙切れを目にした。
『コタツの正体、それは日本人を堕落させる某国の兵器だった』
彼の字でこんな言葉が書かれていた。その横には、私がコタツにもぐり込んでいる様子が、ふさげたイラストで書かれている。
この紙切れ、多分、コタツ台とコタツ布団の間から出てきたのかな……。今頃、こんなメモ見ても……。
私は、ふうっと息を吐いた。そして、もぞもぞとコタツから這い出て、窓を開ける。青い空がすっきりしている。
「コタツ布団干して、もうしまおうかなあ」
目の前には、夏が始まっている。
子どもの頃に戻りたいとか、ネバーランドは永遠の憧れだとか嬉しそうに話す人たちをテレビは映していた。
二十歳までに、まだだいぶある僕は疑問に思う。
僕は……昔、階段から落ちた。正確には飛ぼうとした。飛べるものだと思っていたんだ。
それが原因で、僕は居てもいなくても同じだった親の所から施設に入った。
僕は憧れない。怖いよ。子どもだけの世界なんて。
「ねえ、子どもに戻りたいと思うときある?」
施設の先生にそう訊いた。
「ん? 何だ、突然」
「理由を言う前に、質問の答えを」
「答えを・・・・・・っておまえなァ・・・・・・。そりゃああるぞ。子どもに戻りたいなァって」
「ネバーランド行きたい?」
「行きたいって・・・・・・連れて行ってくれるのかい?」
そうじゃなくて、と考えてることを言ってみた。
「達巳、そうだな、そのとおりかもしれない。が・・・・・・」
困ったような顔で先生は頭をかいた。
「にわとりが先か、卵が先かって議論になるかなァ。
子ども同士でも年上が年下をしつける。ここでもそうだろう? 達巳が想像している程危険じゃないはずだ」
「ふうん」
「達巳」
先生が真剣な声で呼ぶ。
「達巳、お前の年頃というのは一般的に善悪に厳しくなり、大人びてくるんだ。反抗期にもなる。でもお前は、それすっとばして大人っぽくなっちまった。だから……周りを気にするな。子どもに戻れ。疑問は今みたいにすぐ訊くんだ。今子どもでいないと――いや、まだ、ネバーランドみつけられるかもしれないぞ」
「ネバーランドは創作だよね?」
「まぁな。でも、だからこそ、子どもの思い出いっぱい作っとけ。楽しいことなるべく覚えとけ。そうすると大人になった時、あの時は良かったなと思う時が来る。それが達巳に必要なことかもしれないな」
「そう、かな」
「ああ。そうさ。でも、だからって、空を飛ぼうとかは勘弁してくれよ」
先生は言う。他の先生はそれをタブー視して言わないけれど、この先生は言う。そこが好きだ。
「わかってる。それは自分の身で学習した。飛びたくなったら、バンジ―ジャンプにしとく」
「ほどほどにな」
頭を力強い手でぐしゃぐしゃとされ、その手をのけながら、また浮かんだ疑問を一つ先生に訊く。
「先生、ニワトリが先か卵が先かって何?」
あんぐりと口を開けた先生を見て、僕はやっぱりまだ子どもかなと感じた。
彼女の名前はカオルーン。九龍。そんなばかげた代物が戸籍に登録されているはずもなく、死んだ父親は爽やかな五月の朝に生まれた彼女を祝福し「薫」とちゃんと名づけたはずなのだ。行ったこともない国の、しかも植民地だったという容易ならざる歴史を持つ半島の名前に、彼女が後に自分で「つけ直した」なんて聞いたら、またその理由が「死ぬほど退屈な社会科の時間に」「たまたま地図帳で見つけたんだけど」「響きがとにかく、いい、と思って」だと知ったら、あの丸々と肥えていた父親はお墓の中でどんなに悲しむことか。
だけど、カオルーンは余り気にしていない。彼女は殆ど何も気にしない。ただ、本当に可愛いなあたしの名前は、と時折口ずさむだけ。誰も知らないのが残念、と思っている。
彼女は海辺の田舎町に住んでいる。その町は小泉八雲が一度通ったことがあって、そればかりか八雲先生はその日の日記にただ一言「通った」と気紛れにお書きになったものだから、まるで鬼の首でも取ったかのように、小泉八雲は今に至るまで町の偉人なのである。信じ難い話だけれど、記念館がある。八雲の足跡、という銘菓もある。
カオルーンは、その菓子が肌理細やかな粉砂糖が散りばめられた真っ白いブッセであることに、食べる度に少し感動する。この町の人々は(たとえ彼らの多くが『怪談』を知らなかったにせよ)、八雲先生の白い肌を心から敬愛していたのだ、と。彼女はついにこの間『怪談』を読んだのだ。図書室から借りると怖い本はもっと怖くなる。醤油の染みだか血痕だかわかったものではない。
彼女は本が好きで本は片づけない。尤もこれには理由があって、読み終わった本をすぐさま片づける淋しさが、彼女には我慢できないのだ。例えばソファに投げだして、視界の隅に本がちょっと入るようにしておきたい。何かの拍子に、背表紙が彼女の体のどこか柔らかい部分と触れ合うようにしておきたい。そうすると、物語の片鱗がまだそこに残っているような気がするから。
勿論母親は小言を言う。彼女はちゃんと説明しようとして言葉に迷い、言葉の、その圧倒的な事足りなさにふと気がついてぎょっとした。暫し茫然とし、ややあってむっとする、本にぐるりを囲まれて。
やがて母親は笑いだし、カオルーンも何が何やら可笑しくなって(そうだ! いつかあたしの本当の名前を母さんにも教えてやろう)、黙ったまま、二人は上機嫌でじゃが芋の皮をむく。
殺された日の話をしよう。
家族で遊園地へ出かけた。前日、姉に生意気な口をきいたと父に怒られ、十三歳の私は拗ねていた。姉の言葉だけが全面的に信用されたことに納得がいかなかった。告げ口をした姉も憎かった。父と姉の顔を見たくなかった。しかし、行かないと言えば父の機嫌をさらに損ねようと思い、暗い顔をしてただ付いていった。父は、俯いて押し黙る私を、感じが悪いと吐き捨てるよう言った。
到着する。ハリボテの街並みは、それでも美しく楽しい。色鮮やかな催しには、悲しい気持ちも多少紛れ、無理にはしゃいで母親に甘えた。父と姉には一切話しかけなかった。迷いがあった。衒いがあった。何より、萎縮していた。
父が激昂した。私の根本を否定する言葉が、衝撃波となり押し寄せる。最低の、気にくわなければ人を侮辱し貶める人間、嫌いだ、顔も見たくない、等。成人男性の罵声は暴力である。喩えるならば、四方からの殴打。耐え切れず倒れた体が、何度も何度も踏みつけられる。視界が歪み、四肢の感覚がおかしくなった。どこまでも伸びるような、あるいは見えないくらいに縮んでいくような、熱を持つような――微動だにできない。怒号に驚いた顔の人々が、ひどく遠かった。父の表情を、その服装を、今でも覚えている。よく確認したからだ。これは、一体誰なのだろう? 私を全力で痛めつけんとするのは誰か? ああ、紛れもなく自分の父親である、と。
私の幹となるべき何かが、その時死んだ。完璧に整備され、夢のように輝く街で。人々の笑い声響く春の空の下に。
父は、少しばかりやりすぎたと思ったようで、頭の冷えた後はとても優しかった。私はすっかり機嫌を直したように笑い、甘えた声を出し、もう自分には何ものもいとおしむことはできないのだと思った。
七年前を思い鳩尾が鈍く痛む。耳を塞ぎ、固く目を瞑って、できる限り小さくなる。遠い罵声が聞こえてくる。
骸から何とか目を背けようとしてきた。布を巻いて暖かくしてやれば、いつか動き出すと思いたかった。あるいは、丸ごと忘れたかったのだ。野晒しで日に焼け、劣化した布をかさかさと除く。白い骨だけ残っている。それは、鋲のように確実に死んでいる。生き返りはしない。あたりまえの事実をようやく認める。一番小さいかけらを、しばし指先で操り口に入れる。舌で弄る。奥歯で砕けない。意外に鋭利な角で喉の粘膜を痛めながら、今、私は嚥下する。
階段を足早に上る途中で、空気の抜けるような音が聞こえてきた。まずい、と思っても遅い。すぐに扉の閉まる音が続く。ホームにたどり着いた私の前を、電車は静かに動きだし、少しずつ速度を速めながら流れ過ぎていった。
高尾山口行きの特急は、これを逃すとあと10分待たなければいけない。ただの10分だけれど、気にもかけないほどの余裕はなかった。
空いているベンチに座ると、夜風に冷やされたアルミの感触がスカート越しに伝わってくる。抱えていた箱を、刺激を与えないようにそっと膝の上に置いた。
黒くてつやのない箱は、私の肩幅より少し小さい。見た目よりは軽いけれど、確かな存在感があった。ちょうどいい袋がなかったから、そのまま持ってきてしまった。せめて包装紙に包むでもしてくればよかったのだ。
「冷えますね」
不意に声がした。失礼、と頭を下げながら男が隣に腰をおろす。スーツを着ているが、サラリーマンのようには見えない。男が手ぶらだったからか、妙な違和感を覚える。
「もう4月だっていうのに、これじゃあ落ち着いて夜桜も見られない」
あいまいにうなづいて返す。世間話などしたい気分ではなかった。
「このあたりではもうあらかた散ってしまいましたが、高尾のほうはまだまだですよ。私は山登りなんて好きじゃないが、あれはなかなかいいもんです」
視線を落とし、線路を見つめる。雀がとまっているのが見えた。早くおうちに帰りなさい、と思う。いつまでもそこにいると轢かれてしまう。
「いい箱をお持ちだ」
冷たくなでるような声だった。手に力が入る。この箱は、あなたには何の関係もない。本当は私にだって、何の関係もないはずなのだ。
「ご存知か分かりませんが」
雀が羽をせわしく動かして飛び去った。風に吹かれた空き缶が、乾いた音を立てて転がる。
「今朝、三鷹の公園で女性の遺体が見つかりました。遺体そばの地面には、まるでそこだけ抜き取ったかのように正確な四角い穴があった。そこにはその女性の――」
はじかれるように立ち上がった。バランスを崩しそうになり、あわてて箱を抱えなおす。先頭車両の乗り場まで歩いても、男はついてこなかった。同じ姿勢のまま座って、こちらを見ている。
風が冷たく頬をなでる。ホームの向こうから甲高い笑い声が聞こえてきた。学生だろうか、とぼんやり考える。ぐらぐらと震え出す箱を、両手で強くおさえた。線路の先に目をやる。電車はまだ来ない。
「その稀有な力を是非国防の為に活用して頂きたい!」とテーブルの角に小指をぶつけてもんどりうっている最中に言われたものだから千江美は突如現れたその黒服の男に反射的に殺意を覚えた。「いやあ惚れ惚れするようなもんどりぶり」わっはっはと男が快活に笑うとその後ろにいた残りの黒服も唱和して手を叩き出した。なーにもー意味不明だし腹立つし痛いしあそこのハゲにパンツ見られてるしー。
ごがばじゅぎべびぶぼじばぁという音と冗談みたいな地震が襲って来たと思ったら天井が消えていた。千江美の部屋は二階建てアパートの一階にあるはずだが青空が広がっている。こんなにいい天気になんで私は正体不明のグラサン連中にパンツを凝視されてるんだろうああ黛くんとセックスしたい。「ぎぇーっ」そうだここはパプアニューギニアだあれは極楽鳥の鳴き声だものくんくんくん腐っちまったか母さんの小鯵百匹。ちがった。どろっとした真っ赤な血液を体中にかぶっているのだった。不意に暗くなる。空が何か巨大なものに塞がれていた。「ちんちんぴじょーっ」今絶対ちんちんって言ったよなと千江美が現状を把握できていないうちにも黒服の男達はどんどん血の塊へと変わってしまい、残るは一番初めにパンツに注目し出した気色悪いハゲだけになっていた。
「しっかりして鈴木さん! 早く箪笥の角に小指をぶつけるんだぶわぇおばぅぎじぶびぴゃっ」ハゲの言葉で我に返った。影しか見えないが巨大な人型の何かがハゲの体を捩じ切っている。千江美はラクロスの試合中を思い出していた。こうすると全身に力が漲って来るのだ。箪笥の角に小指をぶつけるには立ち上がって二歩進まないといけない。自動車大の腕がこっちに向かって来た。でかいくせに妙に素早い。だが千江美は焦らない。エースだから。
次の瞬間千江美はミニチュアセットの中にいた。途方に暮れる暇もなく昭和懐古展にあるブリキのロボットみたいなものが突然脛にしがみついて来た。気味悪いので慌てて振り払うとそいつはあっさり吹っ飛んで縦半分しかなかった千江美のアパートをぺしゃんこにしてしまった。おおそっかと事態を把握するや千江美はそのロボットを速やかに踏み潰しておく。どうやら殲滅。
ほっとして辺りを見ると、蕎麦宅配中の黛くんと目が合ってしまった。「わっ」慌ててしゃがみ込む。見られたか? あーもーもっとかわいーパンツ穿いとくんだったー。
今日はTバックだった。