# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 究極のオムツ | 八海宵一 | 1000 |
2 | 小鳥と宗教 | 森 綾乃 | 998 |
3 | 狩人〜闇の支配者〜 | 水崎遊離 | 501 |
4 | 悪 | クイント | 999 |
5 | マグナム(Magnum) | bear's Son | 1000 |
6 | かき氷 | ふじひろまるみ | 691 |
7 | テクテク、テク | イス川 | 724 |
8 | 二泊三日、つまらないはなし | Et.was | 941 |
9 | 透明生活 | 尚 | 603 |
10 | 空を飛ぶ | ハコ | 1000 |
11 | 夕鶴異聞 | 新井 | 994 |
12 | 規定 | 藤袴 | 532 |
13 | 仄あかり | K | 997 |
14 | 憧れのかたち | 柊葉一 | 763 |
15 | 記念日 | でんでん | 790 |
16 | その後の日常 | 鉈竹 | 763 |
17 | 桜と翁 | 宇佐美上総 | 535 |
18 | 夕凪 | 長月夕子 | 995 |
19 | 管理する人と管理される人 | 崎村 | 1000 |
20 | 飴玉と珈琲 | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
21 | 盗む者と盗まれる者 | わらがや たかひろ | 1000 |
22 | ゴドーと歩きながら | 三浦 | 999 |
23 | 甘い起業計画 | 戦場ガ原蛇足ノ助 | 1000 |
24 | 擬装☆少女 千字一時物語26 | 黒田皐月 | 1000 |
25 | 櫛にながるる | qbc | 1000 |
26 | 川野 | 川野 | 1000 |
「今回の新商品こそ、救世主になること間違いありません!」
会議室で企画部長のY氏が胸を張り、堂々と宣言をした。
「これが究極の紙オムツです!」
Y氏の合図とともに、新商品の紙オムツをつけた赤ん坊が、ベビーカーで運ばれてきた。なんの変哲もない紙オムツ。だが、Y氏は自信満々に赤ん坊を抱きあげ、プレゼン用の机の上に座らせた。
「今までの紙オムツの弱点がなんだったか、お分かりですか?」
唐突な質問に、社長をはじめ重役たちが、顔を見合わせて首を傾げる。Y氏は、それを見て満足気に頷いた。
「実は今までの紙オムツは、使い終わった後の処理が大変でした。トイレットペーパーのようにトイレで流すことが出来なかったので、普通ゴミとして処理をしなければいけなかったのです。この点が問題点でした」
「それで?」
重役の一人が興味深そうにY氏に訊ねた。Y氏は興奮気味に話を続ける。
「この毎回出てくるオムツの後処理が楽になれば、今の主婦層にウケるのは確実です。そこで考えたのが“水に流せる紙オムツ”です」
「おお!」
会議室がどよめいた。
「この紙オムツは、みなさんが用を足してトイレットペーパーを流すのと同じように、水に流すことが出来るのです。今までの紙オムツでは出来ませんでしたが、今回、我々の開発チームが、その夢のオムツを作り出すことに成功しました」
「確かに、今までの紙オムツは水に溶けなかった。無理に流して詰まらせたという話は、私も聞いたことがある」
社長の発言に、Y氏はますます自信をもってオムツのプレゼンを進めた。
「無理に流してトイレを詰まらせるのはよくありません。環境にも悪い。しかし、この新しいオムツがその問題を解決してくれるのです。では、もっとよくご覧ください」
Y氏は机の上に座らせていた赤ん坊を、オムツがよく見えるように抱き起こした。
そして次の瞬間、会議室の空気が凍りついた。
オムツがすでに半分、なくなっていた。
一体、なにが起こったのか。目を白黒させながらY氏は紙オムツを注意深く眺め、そして青ざめた。なんてことだ。目の前の赤ん坊が、うれしそうにおしっこを床にむけて発射しているではないか。
水に流せる紙オムツ。
目の前で起こっている状況に、血の気がうせていくのをはっきりと感じながら、それでもY氏は何事もなかったかのように、こう説明をした。
「いかがですか? おしっこの場合だとトイレに流す必要もありません」
梅田のファーストキッチン、昼下がりのオープンテラスに座るのは、一組の若い男女。さっき見た話題の映画は、ひどく退屈だった。男はポテトを食べて塩っぽい指を舐めた。同時に、今朝はインコの水を取り替えないのを思い出し、少し心配した。女がアイスコーヒーに注いだミルクは、繊細な模様を描いた。女はそれを煙に喩え、レース編みに喩えてから、飽きてかき混ぜ一口飲んだ。そして、おもむろに言う。
「ヒホウカンに行こうか」
女の口から零れた『ヒホウカン』が、男の中をしばし漂う。良い響きだ、と男は思った。悲報感?
「秘密の宝に、お館」
女がじれた様子で続ける。かちっとピントの合う快感と、どうしようもない違和感。温泉地にひっそり佇む、18禁の娯楽施設。突飛だがなかなか面白い冗談だと、男はにやりと笑いかける。しかし、女の鈍く光る眼は応じなかった。
「最寄のだと、淡路島」
電車は空いていた。高架の上をがたがたと走る。二人はボックス席で差し向いに腰掛け、窓の外を吹き飛ぶ民家・看板・街路樹・電線・畑を眺めた。男は時々、女の睫毛を草食動物の慎重さで盗み見る。女の濡れた眼が、突然男を捕らえた。
「見て」
女は、ゆっくりとかざした手で、窓の下側四分の一を丁寧に隠した。
「こうするとね、銀河鉄道になるよ」
男はしばし考え、倣って手をかざし、納得する。四分の三になった窓から見えるのは、機嫌のよい青空と、ちぎって口に入れたくなるような幾つかの白雲。意識的に自らを騙せば、ちょっとした浮遊感が味わえる。
「本当だ」
満足そうに笑い、女は言う。
「私ね、仏教の高校に通ってたんよ。毎朝、校内放送で般若心経が流れてた。今でも空で唱えられるよ」
「へぇ、それは初耳。ちょっとやってみてよ」
「またの機会にね。朝の読経中は、いつもこっそり『空飛ぶ教室』遊びをしてたの。こうやって。一度だけ担任に怒られた」
「あたりまえだよ」
「私はクリスチャンだから、読経しなくてもよかったはずなのに」
「それも初耳だ」
「嘘だからね」
「そうだろうね」
二人を乗せた銀河鉄道は今、輝く海峡を渡る。
淡路の海風が、女のゆるく巻いた髪を乱暴に弄ぶ。ようやく到着すると、閉館時間を五分過ぎていた。入り口付近の、男根を象った巨大な石像が、夕日を背に輝く。なにか神聖な気分になった男は、思わず小さく手を合わせた。女が澄まして吹いた口笛が、風に歪む。男は、孤独なインコの呼び鳴きを思った。
心と裏腹の晴天に、俺は思わず唸った。ビルの屋上から望む事の出来る街には笑顔が溢れている。
「平和だな」
皮肉げに呟く俺の横で、笑い声が響いた。見ると長年の相棒が笑っている。
「何だよ?」
「僕達に平和は不釣り合いだよ」
少年はちらりと俺を眺め、唇を持ち上げた。
「まぁな」
俺は口の端を歪める。漆黒の衣服を纏った俺は、『人間』ではない。
少年は微笑み、手を差し出した。
「さあ、時間だよ」
先程まで漆黒だった瞳が朱く染まり、俺を見つめる。
「強欲な社長の顔を拝みに行こう」
「俺は別に見たくない」
煙草を投げ捨て、悪態をつく。
「まだ言ってるの?」
仲間内では知らぬ者が居ない程の女好きに苦笑する。
「チッ……! 野郎なんぞ瞬殺だ」
「いや、それ無理だから」
ぼそりとツッコム相棒を睨み、意識を背中に集中する。コートが音を立てて翼へと変化する。
「行くぞ」
少年は頷き、一瞬にして大鎌へと姿を変えた。少年だった物を掴み、酷薄に嗤う。
狙うはただ一人。強欲で知られた男。
「愚か者には制裁を」
アスファルトを蹴り、空を舞う。
悪を重ねた者にはそれ相応の死が訪れる。
その力を行使する者達を、人はこう呼ぶ。
−−『死神』−−と。
その男には一つの信条があった。悪を撲滅させねばならない。世の中には悪がはこびっている。悪を撲滅する、それがただ一つの信条であり生き甲斐だった。民衆は犯罪が怖いと政治家に文句を言うくせに自分では何もしようとしない。奴らの中にも悪の元凶が潜んでいるかもしれない。きっとそうだ。おとなしい顔をして心の中は悪。犯罪などそうして生まれるのだ。男は自分が何をするべきか考えて悪を直接取り締まる職業、つまり刑事になった。もちろんそう簡単になれたわけではない。毎日厳しく精神と肉体を鍛え長い年月と警察での訓練をえてのことだ。くじけそうになっても信念だけが男を動かしていたのだ。刑事として悪を追ううちにやがて全ての元凶ともいうべく謎の大組織が浮かび上がってきた。その組織は銃、麻薬、売春、賭博など主な犯罪の全てに関わっていた。中小様々な犯罪組織も全てなんらかの形でその組織に関わり、ライバルとなる組織はことごとく潰されていた。メディアもその組織のことになると取り上げない。警察上層部に聞いても「その組織には手を出すな」と言うだけ。よっぽど政府の高官に息がかかっているのだろう。しかしそんなことでめげる男ではなかった。苦労の末、男は組織の本拠地と組織名をつきとめた。男は信頼できる部下を数名つれ本拠地に乗り込んだ。警察が来ることなど予想していなかったのだろう、戸惑う悪人達に次々と手錠を掛け奥へと進む。途中悪そうな男達が立ちはだかるも男は怯む様子も見せず手錠を掛け進みとうとう最後の扉に手を掛けた。扉を開けるとなんとそこには大きい赤い鬼。にやにやしている。部下がびっくりして銃を発砲してもびくともしない。「なんだ。悪が相手なら人間を追えよ。俺は人間の悪事を代行してるだけなんだぜ。」男は一瞬戸惑ったがそこで止めるわけにはいかなかった。悪は悪なのだ。するとそこに白髪の老人が現れた。神聖なオーラを放っている。「すまん、正義感の強い人間よ。わしは神じゃが人間があまりに悪いもんじゃからわしの手におえなくての。鬼に人の悪を代行させていろんな悪が増えないようにしてるのじゃ。」
男は少し考えたがあきらめることにした。神がついているのだ。鬼に金棒どころではない。それに悪が多すぎるのは事実。鬼が代わりに程ほどにやっていればそうひどいことにはならないのかもしれない。悪が一体なんなのかなんて気にするものか。神様が決めてくれるだろう。
米ソ大戦の中、アメリカ軍に徴兵された日本人でマグナムと呼ばれる男がいた。
白人が揃うアメリカ軍の中、背丈は目立たないが陽に焼けた銅版の皮膚を持つ男。傘下国日本の公募兵のため階級はないが、鼻の高いアメリカ軍人達の中でも寡黙で近寄りがたい空気を彼は持っていた。
入隊当時、新参の彼の態度が気に入らなかった白人兵が、椅子に脚を組んで腰掛けている彼の前で腰を折り
「Hey! Do you forget glasses in your cage? Jap's monkey!」と、彼の顔に向かって口角の泡を弾かせながら言った。
次の瞬間、組んでいた彼の右足は白人兵の脚を払い上げ、ブーツの盤面でその股を蹴り上げた。白人兵の体は宙に跳ね上がり音を立てて崩れ落ちた。意識の飛んだ男は白目をむき、目と口から泡の含んだものを出して痙攣していた。
陰のある空気に輪をかけて、第二次大戦前に無能な上官の頚動脈を彼のナイフで断ち、四年間の懲役を受けていたという噂が立った。それには大戦後アメリカに頭の上がらない官僚によって執拗な拷問を受け続けてきたという話も付いていた。実際の懲役は七年とも十年とも噂された。いつしか周りの男達は彼のことをマグナムと言うようになった。
「ソベルじゃ駄目だ。今日の行軍で分かっただろ? あいつの指示に従っていたら今度は全員スターリンの胃の中に連れてかれるね!」
「地図の読み違え、これで何度目だ? 誰かあいつの頭に風見鶏を乗せてやることだな」
「間抜けなオツムだ」
「隠れた土塀からその風見鶏だけが見えたりしてな」
「『マヌケハココデス!』あいつが真っ先に撃たれるからいいだろ?」
「しかしどうすればソベルを辞めさせることができる?」
「告訴状だと署名が必要になる」
「お前が殺れよ」
「次のペテルブルグ進軍中、迷子のあいつを全員で蜂の巣にすれば敵味方の誰がやったか分からない」
「後任がウィンターズだと確信できるなら俺はそれを支持するね」
上層部に対する内部告訴。それはどのような結果になろうとも反乱分子として見られ左遷は避けられない。今よりも戦況の荒い過酷な戦場に送られることもある。
部屋の隅で男達の会話を静かに聞いていた男が立ち上がった。壁から伸びる影の中、男の手の中で開閉を繰り返すバタフライナイフがギラついた。
「俺がやってやるよ」
マグナム(Magnum)
それは他の実包と比較して、装薬量を多く装填した質の高い銃弾。
「なついあつには、かき氷だね。」
また言ってる。何度聞いただろう。
あなたのくだらない言いまつがい。
たった2回しかなついあつを二人で過ごしていないのに。
あなたは何度も同じ言葉を、いつも同じ言葉で、私に言ったね。
お気に入りの喫茶店を見つけたのは私だった。
はじめて来たのは、母とだった。
すぐにあなたと一緒にまた来ようと思った。
連れて行くと案の定、あなたも一発で気に入った。
その店には何種類ものかき氷があった。
全てのみつは自家製だとメニューに書いてあった。
生姜黒糖に、梅みつ、小夏、宇治金時、今日はみぞれ。
まだ食べて無いのは、イチゴとレモン。
「全部制覇するんだ!」って子供みたいにあなたが宣言したのははじめて行った去年の夏だった。
全種類食べる頃のなら、2回めの夏が終わってしまうな。
その前に言わなきゃね。最後の言葉を、わたしから。
もう、イチゴとレモンは一緒に食べられないって。
制覇しようねって約束したのは、私じゃなかったもん。
あなただったよね。
だから、いい?
言っちゃうよ。
行っちゃうよ。
夏が終わるんだ。終わるんだ。
それと一緒に、わたしたちの関係も終わるんだ。
私は行くよ。行くよ。
あなたなしの人生を選ぶんだ。
後悔するかもしれない。
何度も自分のだした答えに、押しつぶされそうになるかも
しれない。
それでも、わたしは行く。あなたなしの人生を行く。
あなたはどんな顔をするだろう。
泣いてすがるだろうか。
それとも笑顔で受け入れちゃうんだろうか。
分からないや。
どっちも寂しい。
あなたのいない人生を歩くのはやっぱり寂しい。
でも行く。決めたんだ。わたしはわたしの道をいく。
それが答えだ。
わたしが出した最後の答え。
わりあい家の中が好きな僕に対して、君は外が好きだった。
「散歩が、好きなの」五歩ほどスキップをして僕の前に出て、振り返った君がそういった。寒いだけ、と言いかけてやめたのは、マフラーに突っ込んだ口を外に出すのが面倒くさく感じたから。揺れる粉雪に濡れる肩も気にしないで歩いた。
「どうして好きなの?」なんて聞かなかったけれど、君は僕の気持ちを見透かしたかのように答えだした。「あのね、散歩って意外と冒険っぽいの。なんていうか、いつもの道を歩くんじゃなくて、知らない道を歩く。それが楽しいんだよ。特に晴れた日はね」
僕はだんだん疲れてきて、足が上がらなくなってきた。そうするとスニーカーがアスファルトにすれてザー、ザー、と音を立てる。君はスキップで変わらず軽快な音を奏でる。この音が好きだ、そう思った。景色はあくまでバックグラウンド。青い空と舞い散る雪があって、一定のリズムから、たまに君の歌声が聞こえる。そのうち僕の声も入って、いつの間にか散歩ライブが始まっている。これが好きだった。
「散歩、いこ?」はじめはホントに嫌だった君の決まったセリフも、知らないうちに気にならなくなっていた。どっちかというと乗り気な感じで、「おう」と言うと僕はいつものマフラーと手袋とジャケットを羽織って外に出た。冷たくて甘い散歩道に。
*
だんだん疲れてきて、足が上がらなくなってきた。そうすると古くなったスニーカーがアスファルトにすれてザー、ザー、と音を立てる。雑であまり綺麗じゃない僕の音を素敵なバックミュージックに仕立てる君のスキップは聞こえなかったけれど、僕はマフラーからかわききった口を出して、大声で歌った。あの日君と歌った歌を、大声で、歌った。
それから泣いた、冬の散歩道。
今、頭にあるのは日常とは尊いものであり、混沌としているように見えて実は全てが一つの結末のみのために用意されたものであるという事を僕に示した指標のようなものだ。
苦しみの中にいる僕にとって稀に見る真っ紅な悪夢の世界こそが癒しである。その苦しみの原因は僕に光をくれた女性の存在だ。謎めいた彼女の存在が僕を悩ませ苦しめる。せめて彼女の存在にも意味があるのならば僕は救われるのかもしれない。
斉藤恭子が僕の前に現れたのは今年の冬。滅多に振らない雪が降り、交通は麻痺したし、僕の車はチェーンを巻いたところで全くだめ。留守番電話に今夜は家に帰れないとメッセージを入れ、ふと近くを通りがかったレインコートの女を
呼び止める、あの。これが彼女との最初の出会いで、その後彼女と出会ったことで僕にとって初めてのある体験があった、それは言い換えるなら小さな幸せ。
時の流れは早く、それから何年の月日が経ったというのだろうか。覗いてみてもたいした輝きは何もない。なのに、その歳月はひたすらに暖かくて、嬉しくて、ひたすら幸せへ向かって上へ上へ。
いまになって思うとずっと昂揚し続ける僕たちの幸せは所詮は紛い物で、決して永遠ではなかったよ。
あれはきっと一夜の夢の如き幻で、僕たちはただそれに魅了されて騙されて、あたかも火へ舞い込む羽虫のように、そこが明るければ明るいほど自らをより傷つける、ただそれだけの物だったのだろう。
彼女は僕の元を去り、僕は光を失って、苦しみ続けた、唯一僕を癒してくれるのは明るい過去。
いま君の元へ行くよ、とここ何日も言い続けているが叶わない、そして今日こそ……
なぜ、そんな僕の願いはいつまで経っても叶わないのだろうか、もう限界だよ。その願いの儀式のたびに増える手首の傷跡はいつまで増え続けるのだろう。
花を一輪彼女の写真の前に立てて、涙を流し。あの日の面影を思い出して涙が枯れていく、ただもう一度彼女に会いたい。
何度願っても僕の願いは一度も叶わないや。ただ、そのたびに心が痛み出す。
可笑しなほどに涙が流れ、きっといつかこの涙が一滴も流れなくなるまでこの苦しみは続くのだ。
本当を言うと彼女とであった事を怨んだこともある、でもそろそろ。
海の近くの町へ数日前から出かけていた彼女が帰ってくる頃だろう。
午前3時42分コンビニ前にて。 i podで「透明少女」を聴いていた。 小刻みに足でリズムを刻んでいたら怪訝そうな顔でこちらを伺いながら中年女性が入って行く... カーキの帽子にボロボロの赤のパーカー、スラックス着てスニーカー履いてる輩が深夜にコンビニ前にいたらヤンキーよか不審だろうな。 でも自分じゃ透明になった気でいた。 音楽を聴いている間は。 まさに某有名ゲームのヒゲ生やしたオッサンのトランス状態と同じ。 曲が終わたとき俺は電源を切り、途端に駐車場停めてあったバンの中から小休止を終えた清掃員がタイミング良く出て来た。 俺も店内に入る。 「いらっしゃいませ」どうやら既に透明ではないらしい。 仕方なしに無意味に店内を徘徊しローカルのファッション雑誌に手を掛けて気取った若者のファッションスナップを覗いたあとお勧めショップ一覧のページを覗くと「我々の今回のコンセプトは80sのドイツをイメージしたなんたらかんたら......」 この浮遊感あるイメージだけで構築されたディスプレイを見て曖昧さに憤りを感じていると「サッ!」と先程の清掃員が立ち読み禁止のプレートをかけて来た... う〜んなんとも先程から俺の意志をタイミングよく阻害する。 雑誌だけが浮いて見えたら近寄らなかったろうに... 透明なのは妄想だけ?こういう奴こそ世間じゃ無色なんだろう。 「ハァ〜」 溜め息だけは大きく響く。 4時05分。 うっすらと残った夜に色が差す前に俺は闇の中に消えて行く。
翼をつけず空を飛びたいという父親の夢を叶えてあげたいと思うことは今までにも幾度ということなくあった。ただ単に空を飛びたいというだけなら気球だってあるだろうしもちろん飛行機っていう手もある。
―ハングライダーだってある。
僕がそういったとても一般的なことを勧めると、決まって父親はことさら短絡的で邪道で無意味な答えだと云って僕のことを鼻で笑った。温度差か重力、あるいは風力に抵抗することで浮かび上がるというのは飛んでいるとは云わない。そういった意味では鳥だって飛んでいない。若かった父親の頑固ないつもの口癖だった。
「…」
理由などなかったが、かく言う父親を見ていると反発の反面、幼心にどうしてもそんな意味深長を共有したくなるから罪なものだ。翼をつけず空を飛びたいとは何か。幼い僕は二階の屋根に上がっていっそひと思いにと何度足を踏み込んだか分からない。結局、実行に移したことは無い。いつかそれなりに大人に成長してもいつまでも父親を越えられないと思い込んでいる。
―あの父親なら飛ぶのかも知れない。
馬鹿げた妄想を、心から永遠に消すことが出来ない。
いつからか、父親が一度でも飛びさえすれば、きっと僕も飛べるようになるはずと勝手に思い込むようになった。とても横柄でひとりよがりで、甘えた考え方だが幼いとはそういうことだ。父親はなるほどと云い、そしてニヤリと笑ってみる。
―じゃあ、飛ぼう。
真に受けた父親の、階段をのぼるその勢いの、腕を引っ張り足をひっぱり「やめてくれ。やめろよ」とすがりつく、結局は怖気づく僕がいる。いつまでたっても一枚上手、僕のコンプレックスは計り知れない。
父親も結局は、年老いた。空飛ぶ夢は語らなくなったし、若い頃、邪道だと言い放った飛行機にもその後バンバン乗るようになった。突っ込んでみても惚けるだけ。
―お前が飛べば万事、それで済むだろ?
でも、飛べない。飛び越えられない。
「パパあ」
いつか僕自身の子供も大きくなって、僕の父親は死んでしまって、僕はある日、あまりにも素晴らしいから屋根に上がって空を見上げてみた。透き通った空気を鼻で大きく吸いこんで、そしてゆっくりとゆっくりと吐いてみた。
―青空。
真っ青な青。今ならばきっと父親の気持ちが分かる。たぶん分かる気がする。僕は空を飛びたい。僕はたった今でも空を飛びたい。飛びたい。大きく羽ばたいてあの青になりたい。
―あの女房殿は鶴なんかじゃ無かったのですよ―
そうですね、去年の秋からだったですかね、巷で有名な『鶴女房』が来たのは。
見事な反物でございました。手触りは絹みたいに滑らかな、翼の透かしが入った雪のように真っ白な反物は大評判でしたよ。
だからですかね、あんな見事な布地が人の手で作られたなんて。
ねぇ、皆信じられなかったのでしょうよ。しかも、その女房殿は機織りをするときには亭主にも
『決して覗かないでくれ』
なんて言って織っていたものだから噂がたったんです。
“女房殿は鶴なんだ、あの反物は、鶴の羽を織り込んだ「鶴の千羽織」なんだ”
上手いこと言うなと思いましたよ。
確かに、あの布地は言うなれば羽のような素材でしたからね。でも女房殿は、そんな噂ちっとも気にかけておりませんでしたけど。
素直な方でした。買い取る時もこっちの言い値で素直に頷いて下すってね。そんなふうに接して下さるから、こっちもボッたりなんか出来ませんでしたよ。
私としちゃ、亭主の方が情けなかったですがね。
布地が売れ始めたらすっかり怠けちまって、ええヒモですよ。女房殿もたまに泣きはらした目でここに来ることもありましたよ。
女房殿が最後にここに来たのは少し春めいた頃でした。
手に取った反物は薄く緋色に色づいて、しかも酷くやつれた顔で、此れを最後にもう織物はしないと言う。
どうなすったか聞きましたよ。
女房殿はね、背中を見せて下さって、そこには真っ赤に擦り切れた翼がボロボロになって垂れ下がっておりましたよ。この翼は想像の現れだそうで。もっと昔の人間はこの翼で空だって飛べたんだそうですが、今じゃこの翼はすっかり見えなくなって、人は自分に翼が生えていることも忘れてしまったそうでございます。
それでも恋しく思う気持ちがあるから、思い出すのです。想像の翼を削って織った物を美しく感じ、そういう物が高く売れるんだとか。
女房殿の翼は、深くむしり取って 肉が爆ぜて 白い骨まで見えてね。
今回の反物がうっすらと赤いのは血が混じっていたんですよ。
“これだけ織っても、亭主は自分にも翼があることを気づいてくれなかった”
“一緒に飛んで行きたかったのに”
傷薬を渡して高く買い取りましたよ。
女房殿は鶴になって飛んで行ったですって?
とんでもない
あの人はもう飛べやしなかった。歩いて行きましたよ。亭主の家じゃない方向へね。
だからね、あの女房殿は鶴なんかじゃ無かったのですよ。
※作家Mと担当Hの会話より抜粋。
「私は常々貴様らに言いたいことがあるんだ」
「はぁ」
「はぁ、とはなんだはぁとは!この儂がわざわざ言っているのだぞ」
「ああ、すいませんどうぞどうぞ続けてください」
「全く…… まぁ良い。儂が言いたいのはこのXXX賞の規定についてなんだ。
なんだこの規定は。」
「はぁ、どこがいけないのでしょうか。」
「応募枚数、原稿用紙350〜400枚だと?」
「はぁ」
「これはどういう事だね。なんで枚数制限があるのだ?栗栖川栗栖の県名シリーズだけを読んでいて作家を志した人はどうする?皆が皆 京極春彦の本ばかり読んでいる訳ではないのだぞ!」
「県名シリーズには長編も含まれていたと思いますが…… 」
「それになんだこの規定内の文章作法とは! やれ”感嘆符のあとは一文字アケ”だ、”行頭禁則文字”だ〜? これはどういう事だね。東尾維古の本を読んで作家を目指した人間はどうすれば良いのだ!?」
「ああ…… 」
「これはけしからん!速急に変えたまえ。これでは応募できない人間が沢山出るだろう!儂もだ!」
「……でも規定を守れないのなら所詮そこまでの人だった、という事ですよね。」
「……。 」
「それでは失礼いたします。」
※(自称)作家MとXXX新人賞広報担当者Hの電話より抜粋
胡坐をかき、腕組みをした俺の前には、一本の蝋燭に灯る小さなあかりがあった。
火は小指の半分ほどの高さを保ちながら、部屋の暗闇の中にぴんと屹立しており、俺の関心は、専ら炭色の芯を燃やすあかりに集中した。薄暗い窓の外を見ることに、何の意味も無いように思われた。
ぼうっと黄色と橙が混じった中心部から天上の隅にかけて緩やかなグラデーションをつくり、まるでそこから空想上の生き物でも出てくるかの如き幻想性を備えた、仄かなあかりは、風の遮断された室内で、ゆらめきもせず佇んでいた。
一匹の蝿がそこに立ち現れ、一筋に闇に溶け行く小さな煙とでも戯れ合ってくれれば、その光景は更に興を帯びたものになったろうが、そういったあかりとの関係を俺が望んでいたのであれば、俺はきっと部屋の中でこのように凝っとしていることなどなかったろうし、眺め入るより他にすることがある筈だった。それを見つめるうちに俺は、己の全身が細かな塵の粒子に成り変わり、あかりの中に吸い込まれていくような気持ちがした。
目の前が、次第に灯されたあかりでいっぱいになっていく。それが単なる蝋燭の、作り上げられた幻だということを頭の隅に理解してはいたが、俺は我を忘れて没頭していた。塵となった俺はあかりの中を自由に飛翔し、跳ね回り、そして笑い怒り悲しんだ。俺は脳が焦がされるような安楽の中をあちらこちら彷徨っていた。
しかし、奇妙だと思った。俺はその中で跳躍し律動するうちに、何か見たこともない妖怪や化け物にめぐり会えるのだと考えていたが、ちっとも現れなかった。目の前に次々と現れては消える幻は、背中から翼が生えていたり、数え切れないくらいの足が生えていたり、珍妙な風体をしてはいるのだが、それらは皆揃いも揃って阿呆面をぶら下げて笑い、更に不愉快なことには、皆、鏡に映した俺の顔と瓜二つの相貌だったのだ。
はっとしてあかりの中を抜け出した俺は、依然として静まりかえった部屋の中で胡坐をかいており、目の前には灯された蝋燭があった。俺が驚いたのは、そこにただそれだけしかなかったことだ。
火を消すためには、窓を開け風を入れればいいし、水を垂らせばいい、更に言うなら俺が息をほんの少し吹きかければいい、だが俺はそれをできずにじっと思い悩んでいた。
目の前には、静かに燃え続ける火があった。それを消そうとしない限り、俺は一寸たりとも動けないことを直覚した。
父は母を呼ぶ時、「おい」とか「あのさ」とか言う。僕が居れば、「母さん」になったりもする。
母は父を呼ぶ時、「ねぇ」とか「ちょっと」とか言う。僕が居れば、「お父さん」になったりもする。
僕がまだ小学生くらいの時、夜中にトイレに行きたくなって起きたことがあった。そのときリビングの明かりがまだ付いていて、テレビの音も聞こえて、父と母の話声も聞こえた。僕は父に「まだ起きているのか」と怒られるのが嫌で、こっそりリビングの前を通り過ぎようと、忍び足で廊下を歩いた。リビングの話声が、一層よく聞こえた。
「この芸人、この間アレに出てたよな。」
「え、どれ?」
「アレだよ、和樹がよく見てるだろ、なんか地方ばっかりに行って、いろいろやるやつ」
「あーー……、ダメだ、私も番組の名前だけ出てこない。どんなのかは分かるのに……」
僕はドアを開けて、番組のタイトルを教えてやりたい衝動に駆られたが、どうにか我慢した。
「ボケたな……お互い年取ったよなぁ」
「そうねぇ……先輩は、いくつくらいで結婚しようとか、なんかプランみたいなのはありました?」
僕はここで二人の会話に神経を研ぎ澄ませた。
「……なんで昔の口調に戻すの?」
「分かんない、戻っちゃった。話題が話題だから?」
「なんで、そんな事聞きたいの?」
「なんとなく、思い付いたから。聞いたらダメですか先輩?」
母さんの口調はとても若々しく感じた。
「……じゃ、オレも久しぶりにちぃって呼ぼう」
この辺で僕は、なんだかいたたまれなくなって、忍び足ながらに急ぎながら、自分の部屋まで急いだ。
最近になってそんな事を思い出した。あそこにいたのは、僕の知っている父と母ではなく、恋人同士の「先輩」と「ちぃ」だった。
結婚を間近に迎えた今僕は、あんな夫婦になれたらいいな、なんて思っている。
ねえ。浴室に向かう僕を背後から呼びとめる声に振り返ると、ベッドの上に両脚をこころもち開いて横たわった女の足親指に、青白い炎がともっていた。思わず僕は足をとめた。暗い部屋の中、五センチほどの高さの紡錘形の光は二つの丸い親指を包んで揺らぎ、他の指もゆっくり呑みこみ始めていた。女は両肘を立てて上体を起こすと呟いた。ねえ、なんだろ、これ? 珍しい昆虫を捕まえた子供の声のようだった。熱くないの? 僕は訊いた。女は首を横に振った。それからしばらくの間、足先を包んだ光が青白い輪に変わり、踝から膝へ、カタツムリの速度で這い上っていくのを、僕たちはただ見つめた。輪が去った後の脚はすっかり炭化していて、青く光る飾りが縁についた黒い靴下のようだ。その靴下の縁が膝を越えて太ももに達した時、女は小さく咳をした。両脚が砕けた。下肢があった場所一面に黒い灰が広がった。女は何かを言おうとしてさらに激しく咳きこみ、ばつの悪そうな、恥じているような目で僕を見上げた。その時にはもう新しい火が左右の手のひらにともり、リング状の光となって二本の腕を這い始めていた。女が鼻を鳴らすのが聞こえた。笑ったのかもしれない。話しかけようとして、二時間前に出会ったその相手の、名前をまだ訊いていないことに気づいた。女は照れ笑いを浮かべたまま、自分自身の炭化した身体に左右から挟まれていった。黒い扉が女の顔の前で閉じ合わされた。後には人の形に見えないこともない灰だけが残った。その灰の中に、鈍く光る小さなものが落ちているのを見つけた。指輪だ。拾い上げて顔に近づけ、そこに刻みつけられた小さなアルファベットを読んだ。H・Y。たった今まで目の前に横たわっていた、名前もわからなかった女の、頭文字なのかもしれない。シーツの端でこすって灰を落としてから、僕はその指輪を自分の左の薬指にはめた。生まれて初めて女と寝た夜の記念だった。
さて、私が起きていつもの様にトイレに行こうか手首を切ろうか迷っておりますと。洗面台にすでに自分の手首が落ちているのに気づいたのであります。
「あぁ、そういえば」
思わす声に出してしまいました。
そう昨日の朝、とうとう片手首が落ちたのを失念しておりました。いやはやどうにも忘れっぽくなり、年は取りたくないものです。
歯を磨いて朝食をとり、なんとなく今後のことを考えてみたり、なにかしら時間を潰していますと起きた時間も遅かったのか、もう夕飯の時間になってしまいました。
さて今夜のおかずは何にしようかなどと冷蔵庫を開けてみますと、もう食料が底をついたことに気づいたのです。
恥ずかしいながら引きこもりがちな性格でして、一週間ほど買出しに出ていないことを思い出しました。
今更買出しに行くのも面倒だと、仕方無く何か食料を探していますと洗面台にあるアレを思い出しまして、さっそく取ってきて煮てみましたが、どうにもイマイチ。
仕方が無いのでばらして、炒めて、残っていたレトルトカレーに入れてみました。
美味いか、不味いかといわれれば後者に近くはありましたが、カレー味にすれば何でも食べれるというのは本当ですね。
まぁ腹は膨れたので良しとします。
そんなこんなの日常を送りまして本日も眠りに就こうかという時間になり、いつものように寝る前にトイレに行き、歯を磨き寝間に向かいます。
寝る前に一応念のために新聞紙を敷いておくことにしましょう。汚れるといけませんから。
輪っかに引っかかりながらぼんやりと薄くなる意識で、なんとなく明日の事などを考えていますとそのまま息を引き取ります。
といってももう一週間ですから明日ぐらいには発見されるでしょう。
この生活も悪くは無いですが、食料も無くなって来たことですしそろそろ上に行きたいものですナァ………。
それでは、おやすみなさい。
「貴方、私が死んだら、あの桜の下に、埋めてください」と、病床のお里は血の気のない痩せ細った腕を庭の方に伸ばして、掠れる声で云った。障子の合間から覗く庭には、子宝に恵まれなかったお里が老後の楽しみにと、去年植えた桜の苗木があった。
「相わかった」と、宗右衛門がお里の手を握り締めると、お里は事切れてしまった。今まで丈夫に暮らしてきた妻が質の悪い感冒に罹るとは露思わず、あれよあれよという間に、四十七歳でこの世を去った。自責の念に駆られた宗右衛門は生まれて初めて号泣した。泣くことでしか目の前の現実を理解できなかった。
葬儀はしめやかに営まれた。参列者達はお里の死を悼んだ。武士の宗右衛門は涙一つ見せなかったが、その目には悲しみの痕跡がくっきりと見て取れた。
宗右衛門は遺言通りお里の亡骸を桜の苗木の下に埋葬した。そして、その苗木を亡き妻と想い、大切に育てた。
それから十年が経った。宗右衛門は齢六十になり、頭はすっかり白髪になっていた。翁は今日も庭に出て桜の手入れをしている。桜は成長こそ早いが虫がつき易い為、翁は細心の注意を払っていた。その甲斐あって桜の幹は若々しく成長し枝振りもそれ相応になり、春になると美しい花を咲かせて、翁を慰めた。今年もその季節が来たのである。
静寂は透明な青、薄いベールが少しづつはがれていく。彼は息を殺してその瞬間を待つ。今日が生まれるのだ。一枚一枚はがれたベールが木の枝へひっかかり影になっていく。彼はそれらの現象を、誰にも気づかれないようにひっそりと見ているのだ。この一連の儀式のために、日々は激しく燃えながらいつも尽きていくのだろうと、夕日の残酷さを憂い朝日の静謐さに胸を焦がす。
暮れ方のまだ青い時間、賭けに乗るなら振り返ってはいけない。背伸びしてし続けたなら、それがあたしの身の丈だとおもわれて望まれても仕方がない。あなたはあたしの隣にいない。あなたはいつでも向こうの正面。ここまで来れるかと余裕の笑み。今すぐにでも裸足になってここから逃げ出してしまいたいけど、時限装置のような確かな強さで空は群青を帯びていくから。つま先の痛みに気づかないふりをして、あたしは走り出すつもりなのか?
20世紀のタバコの煙、耳をさらうのは黒いオルフェ。散漫な人々の談笑。僕は黙って、グラスの中を泳ぐ氷を見つめる。彼女の息づかいを感じながら。僕は待っている。滑らかな青いスカートで、20世紀の煙を切り開き、真昼の日差しのようにするりと現れるその瞬間を。ローランド・ハナも聞こえない。喧騒も置き去りに。そうして僕は20世紀を飲み干して、21世紀に帰っていくのだ。
春に天気が良かったら、青い匂いのするあの広場へ、死んでしまった彼の曲を聞きながら、死んでしまった彼女の漫画と死んでしまった彼女の小説を持って散歩に行こう。陽光のまぶしさ、鮮やかな草の海へ身を沈めて、僕もその深遠に触れてみたい。覗き込んでみても、大きく滑らかな魚のようにゆっくりと僕の手をかすめるのは、果たしてタナトスだろうかエロスだろうか。傾いていく日、影はより濃く僕を縁取る。ある春の晴れた日、僕の果てはまだ太陽の向こう。
雪がこの手の内へ舞い落ちる。ふわりと丸く暖かいおまえの魂のように。新しい風がやってきて、またどこかへと連れ去る。なあ、おまえはどこにいるんだろう。そんなにもろい魂抱えて、たよりにするのはたよりのない風ばかり。気が付くと消えてなくなる雪みたいに、おまえは生きていこうとする。今度会えたら立ち止まって、今度会えたら聞いてくれ、これでいいのかと。空がまた青くなる前に。
夕凪【ゆう‐なぎ】 夕方、日中の海風から、陸風へ変わる時に見られる一時的な無風状態
「おじいちゃん、夕ご飯の時間だよ」
私は箸、スプーン、らくのみを準備し、ベッドを起こす。
「今日のご飯は美味しいかな?」
病院の食事は、いつ見ても質素だ。
おじいちゃんは箸やスプーンをぎこちなさそうに使い始めた。米粒や和え物をぽろぽろとこぼす。でも、私は食べさせない。これも脳や筋肉のトレーニングなのだ。
食事の後、私が本を読んでいると、急に布団がもごもごと動き出した。
「富田次郎です。次は何をすればいいですか?」
私はおじいちゃんの肩にそっと触れて言う。
「もうお薬も飲みましたし、夜ですからねえ。ゆっくり寝て下さい」
「ああ、夜ですか……。分かりました」
多分、看護婦さんと間違えているのだろう。少し間があって、またすうすうと規則的な寝息が聞こえ始めた。
その後も数回、おじいちゃんは天井や壁に向かって、何やら話しかけていたが、私はじっと本を読んでいた。おじいちゃんの痴呆は今に始まったことではない。扱いには母親達よりも慣れているつもりだ。
私は床にシートを敷き、自分の寝床を作り始める。まだこの季節だと床が冷たく、窓の隙間からも風が入ってきて、寒い。毛布に包まり、時計を見る。あと、何時間寝られるかな? こうやって付き添いとして、病院に寝泊りするのにも、もう慣れた。
次の日の朝も、おじいちゃんの調子は特に変化なし。
「おじいちゃん、他の孫たちは来ないねえ」
「ううむ。遠い所に住んどるからなあ」
「たまには来ればいいのにね。寂しいね」
「それより、緋那子は結婚しとったかのう?」
「どうだったかな?」
「どっちじゃ」
「んー、してないよ」
「早く婿殿や曾孫が見たいのう」
彼氏を連れてきて会わせてあげようかと一瞬思ったけど、話がややこしくなりそうだったのでやめた。
その時、ポケットの中で携帯が震える。
「もしもし」
「富田です。いつもご苦労さま」
「あ、おはようございます」
「今ね、病院の駐車場まで来てるの。久し振りにお見舞い来なきゃと思って。だから、もう帰っていいわよ。また夕方からお願いできる?」
「分かりました」
「あ、バイト代は次回でいいかしら?」
「はい、いつでも結構です」
電話を切る。富田のおじいちゃんが私を眺めている。
「お母さんが今から来るんだって。私は一回帰って、また後で来るよ」
おじいちゃんは、こくりと頷いた。
病室のドアを開く。その瞬間、私は緋那子ではなくなる。本当の緋那子さんてどんな人なんだろう。
硬いと客。硬すぎるぞ、この牛舌、お前食ってみろ、え、食ってみろ、と荒げるので、恋人たちのささやきも消え酒場は静まった。
バーテンダーは、では、と客が一度噛んだ牛舌を口にいれた。申し訳ございません、仰るとおりでした、と彼は頭をさげた。客は「気に入った、ボトルいれるわ」と満足した。ありがとうございます、と微笑んだバーテンダーは以後彼の喉に牛舌を飼う。
場末時代を経て銀座で働く今も、喉の奥で黒い舌に血を吸われている気分になる。客に悟られないよう唇を噛んでグラスをふいた。
その日カウンターで女がシェリーを飲んでいた。いい女だ。凛とした英国風トレンチコートを羽織ったままだった。新調したばかりで嬉しいのかもしれない。よく似合っていた。額が広く、目に力がある。バーテンダーは内なる牛舌を忘れ、女が次に飲むにふさわしい酒を考えるのが楽しかった。
女はシェリーのイエローを眺めていた。そうしていると子供に返るのだった。思い出すソーダ水へのときめきが、色濃い日々を薄めてくれる。
ビー玉を持った友達が、女王様とよんだら緑と黄と赤をあげようと言ったことがあった。
「女王様」
即座に三色ビー玉を手にしたのは親友だった。彼女は「大臣とよんだら赤あげる」と言った。「いらない、よばない」とそっぽを向いて一人だけ帰ったのが少女時代のカウンターの女だった。親友が許せなかった。本当はビー玉も欲しかった。
そんな思い出さえ甘美となって、女はシェリーを飲んでいた。今はそれが欲しくなくても、相手がどんなに嫌でも、王様、いや、社長、とニッコリ呼ばなければならない。
まもなく猿の着ぐるみ男が来て女の隣に座った。その組合せをバーテンダーは訝しがった。「ビールください!」と威勢がいい。「私も!」と女も元気になって二人してビールをぐびぐび飲み始めたのでバーテンダーは面食らった。そのうちに花見帰りの常連達がやってきた。
「プライドってどんな味だろね」
「まずいんだ。ホコリだもん」
「ハハ」
空しさを笑いで紛らわせようとする常連も普段は一匹狼達だった。その呟きをみんなが聞いて、それぞれ溜め息をついた。
からん、と丸い缶を鳴らした猿男がみんなに飴玉を渡していった。
「どーぞ。梅干なのに甘い、玉なのに三角。これぞエータロの梅ぼ志飴でござい」
その飴を舐めながら珈琲を皆で飲んだ。猿男もどんぐりでも食えと投げつけられたことがある。飴玉と珈琲は彼ら酔客を潤していった。
ある日の夜のことだった。僕は、仕事明けで疲れた体を動かし、眠気と闘いながら、
職場から数キロ離れた4畳半の自宅アパートに帰ってきたのだが、
玄関のドアが少し開いていたのに気が付いた。
「(あれ?!)」
いつもと違う光景に、一瞬で眠気が覚めた。
出掛ける前に、ドアを閉め忘れたのかと思ったが、鍵を掛けた記憶があるし、忘れた筈はない。
「(もしかして、空き巣!?)」
なぜか、嫌な予感がした。
ドアを開けると、手前から奥に、玄関、板の間、畳の部屋がある。
中に入り真っ先に確認したのは、部屋の中のタンスや押入れや小物入れではなく、
畳部屋のタンスの陰に置いてある、テーブルの上のノートパソコンだった。
「(嘘だろ!マジかよ!!)」
散乱していた部屋の中を見回すが、どこにも無い。
無残な光景を目の前に、まずは何をしたら良いのか分からず、呆然とするしかなかった。
同じ頃、路地をフラフラ歩いていた男がいた。
両手で抱えたノートパソコンを眺めては、顔をニヤつかせている。
「(今日はラッキーな日かもしれない)」
定職にも就けず、一日を家で過ごす男は、たまに出掛けようと思い、
親に金をせびるのだが、罵倒され、その度に口論をし、家を飛び出すという行動を繰り返すばかり。
だけど、その生活に一時の終止符を打てるかもしれない。
このノートパソコンを売って金を手に入れれば、欲しい物が買えるかもしれない。
そう思うと、ニヤけてしまうのも無理は無かった。
だがその前に、まずは自宅に帰って中身を見てやれ。
そう思った男は、足早に自宅に向かっていた。
自宅に帰り、部屋に篭ると、持ってきたパソコンの電源を入れた。
――画像や動画データなど、独り言を言いながら、閲覧していく。
だが、ある画像を見て、ニヤついた顔は、驚きの表情に変わった。
複数の人が肩を組んだ画像に自分が写っている!
「(なんだこれ?)」
それを閲覧していくうちに、思い出したことがあった。
それは数年前、何気なく参加したボランティアで、親切に団体の事などを教えてくれたスタッフと、
イベント後の打ち上げに、記念写真を撮ろうと言うことになり、写したものだった。
慌てて所有者の名前を見てみると、リーダー的存在だった人の名前が書いてある。
「(やべっ!どうしよう…)」
たちまちに冷や汗と激しい動機が襲う。
だが、今更焦っても、事実は、いくら考えても消せやしない。
刻一刻と時間が過ぎていき、気が付くと、夜が明けようとしていた。
世界のどこかには家という入れ物の中ですっかり歩みを止めて生活している人間がいるらしいぞとゴドーはひさしぶりに再会した仲間から耳打ちされた。その仲間も他の仲間からその仲間も他の仲間からその仲間も他の仲間から。歩みを止めれば沈み込んでゆくのが当然なのに、その人間たちはその家という入れ物は一体どういうものなのだろう。ゴドーは仲間と別れて以来そのことばかりを駱駝の背で眠る時も。空を飛ぶ夢だった。それが答えだった。
麻里は後藤君の声に目をひらいた。なにも見えない。後藤君の声がする。こんな夜更けにきてごめんなというようなことを言って、後藤君は麻里を散歩へさそう。灯りをつけようとするなら俺は帰らないといけないというようなことも言うので、麻里はパジャマのまま出発する。この時になっても実は後藤君の顔は見えていなかった。麻里が住んでいるところはとにかく灯りがないし月も出ていない。後藤君はシルエットのままだ。どちらからともなく手を繋ぎ、麻里が後藤君から借りたCDの話をすると、それからはずっと後藤君がしゃべりつづけた。好きなミュージシャンのこと。人生で一番感動した本のこと。影響を受けた友達のこと。どこをどう歩いたのかわからなかった。手がどんどん汗ばんでいくことばかり気になってしまった。もう家だった。あがりなよ、とさそったが、来れたらまた来るというようなことを言い残して、後藤君はすっかり闇にとけてしまった。牛乳をコップにそそぎ、ぐびぐび飲みながら、これは夢だよな、と考えないようにしていたことを麻里は考えてしまった。死んだのだ、後藤君は、エレキギターに感電して、そりゃ夢だよ、これは。トイレにいき、手を洗い、すっかり冷えたベッドにもぐりこむと、手を洗ったことを何度も悔やみながら、それでもやがて眠ってしまった。
ゴドーは仲間の声に目をひらいた。駱駝が復帰できないところまで沈み込んでいた。歌を詠む。地平線上の月はどんどん小さくなっているという。それを止めるためにそこへ向かっているという。ゴドーは、また空を飛ぶ夢が見たいと思った。もううんざりだった。音楽がほしい。パートナーがほしい。歩みを止めていられる、家という入れ物がほしい。しかし、自分を待っているものがあるという感じが、それを拒むのだ。代わりの駱駝が来た。寝床はあるんだ、とゴドーは言った。おびただしい数のゴドーが、闇につつまれて歩きつづける。
最近はアイスカフェオレをよく飲むが、たまに理由もなくアイスコーヒーを注文することがある。
空席の方が多い夜のドーナツ屋で、私の接客にあたった店員嬢は熱意を持て余しているようだった。接客への熱意は退屈の裏返しとして生じる場合も少なくないので、自発的なやる気とは限らないが、随分と熱心にドーナツを勧めてきた。
店に入った目的が気を鎮めることだったので、甘いものを食べるのは理に適っているように思えた。普通のかたちのものを一つ食べることにした。
ミルクとガムシロップについて何も聞かれなかったことに気付いたのは、支払い用の木皿に小銭を置いたときだった。アイスコーヒーが用意されている間に辺りを見回して、レジカウンターの手前側の棚にその類の連中が雑然と押し込まれているのがわかった。
アイスコーヒーがトレイに載るのを待って、私はスティックシュガーをその脇に添えた。ミルクとガムシロップの容器が似た形状なのに対してスティックシュガーのそれは一目瞭然だから深く考えずに手に取ったのだと思うが、些細な行動の理由など、不毛な後付けにしかなりえない。
トレイに手を伸ばそうとすると、店員嬢が不必要に大きな声で私を制した。
「こちらにはガムシロップがオススメです!」
彼女の名前が藤島さんだとわかると同時に、スティックシュガーはガムシロップになった。
彼女はほんの一秒ほどの間に、トレイのスティックシュガーを拾い上げ、カウンターのこちら側に身を乗り出し(その瞬間私は反射的に胸の辺りを見て、おいしい眺めではないとわかってからは名札を読んでいたので、この後の藤島さんの行動は憶測に過ぎない)、スティックシュガーを棚に戻し、ガムシロップを取り、上体を起こして、ガムシロップをトレイに置いたのだ。気まぐれとは思えない、その速度!
いろいろと衝撃を受けた私は、ゆっくりと席に着いて、頭を抱えた。
砂糖の種類をオススメされたのは初めてだ、アイスコーヒーには溶けづらいかもわからんが問答無用で取り上げるのってどうよ、俺はガムシロップはあまり使わないのだが……。
迷う脳、ブドウ糖重要、と過剰に韻を踏みながら、ガムシロップをブチ込んだアイスコーヒーを飲んだ。
すると確かに旨かった。参った。そして決めた。
ガムシロップの会社を作ることがあったら、商品名はきっとフジシマにしよう。
コーヒーにフジシマ。フジシマが、千字をお知らせします。
四月二十五日、午後四時。名門K高演劇部の入部試験が、講堂を借り切って開始される。入部希望者は一人ずつ壇上に立ち、課題の演技を披露する。そこには審査をする演劇部員だけでなく、多くの観衆が集まっている。それほど人を呼ぶこの試験の課題とは。
「なあ。お前ってさ、演技好きなのか?」
そう訊かれたのは、志望校をK高と決めたときだった。訊かれたことの意味はわからなかったが、僕はひとつ頷いた。
「そっか。ならアレもわかるな」
「どういうこと?」
アレと言った声に反応を返したのはどれくらいぶりだろうか。それは、アレと言った語気に軽蔑を感じなかったのはどれくらいぶりだろうか、という問いと同義だった。
「知らないのか?」
またひとつ頷くと、そっか、とだけ言われて話は途切れてしまった。そんな自分が嫌で真逆になってみたいからのアレと言うのが、即ち女装だった。しかしそれに意味などないことは、ずっと以前からわかっていた。誰だっただろうか、最初に会った誰かに別人のように声をかけようとしてできなくて、その態度からかすぐに見破られて、僕は軽蔑され続けた。それなのにどこかにまだ妄執があって、僕はアレを続けていた。
K高に入学してようやく、僕は訊かれたことの意味を知った。今なら、あの時のようなことはしない。真逆ではなくても違う自分をまだ希求する僕は、アレを好んでいる。あの時を克服する。僕は試験に応募した。異性を演ずること、それが課題だった。
不合格を宣告された。観衆の目は確かに惹きつけられていたのに、なぜ。解散直後、僕は部長に食って掛かった。
「確かに見るものはあった。でもあれは、独りよがりなだけだ」
呆然とした。食って掛かった勢いは、止まった。やはりアレに意味などなかったということか。
「あれは演劇じゃない。ただ君の一面を演じただけだ」
当たっていた。違う女性を演じられるか、と問われた僕は、力なく首を横に振った。それで話は終わり、部長は講堂から立ち去った。残された僕は、ひとり講堂に立ち尽くしていた。
見破られたことが認められたことと同義だと気づいたのは、差し込む日差しの色が変わったことに気づいたときだった。僕はあの時を克服した。僕の中には違う僕が確かにいるのだ。それならば僕はその違う自分を僕の一面にしてしまえば良い。
もう僕にはアレは必要ない。その日の内に整理された箪笥は僕の心中を写してか、清々しいものだった。
荒川で友人と釣りをしていると、川下から静かに永谷園のお茶漬け海苔が流れてきた。ビニールの外装に包まれたそいつを拾い上げ、個装の紙袋が濡れていないのと、賞味期限まで二年以上あるのを見て、再び川に浮かべた。そしてしばらく笑い転げながら不思議に思ったのは「川下から」流れてきたことだった。流れのほとんどない下流域とはいえ、風もなく帆も張らないのに遡行できるものだろうか。何より可笑しかったのは、川面に浮かんでいたのが綺麗な未開封のお茶漬け海苔、ということだった。
十年後、僕は地理学科の学生になり、友人は二児の父親となっていた。あるとき唐突に、結婚するぜ、とメールを寄越して、何事かと友人のアパートに行けば、五歳と三歳くらいの子どもが走り廻っている。子連れの女性と同棲を始めた彼は、何もしていないのに子どもを儲けたのだった。僕は子どもたちと一緒に絵を描いて遊び、麦茶をこぼした服を着替えさせ、手慣れてるねえと友人の彼女さんにひどく感心された。
友人のアパートは中川沿いの低地にあり、暮らすにはよいところだが、大雨が降ると膝の辺りまで水に浸かる。台風のときには溢れそうなほどに中川の水位が上がった。もしも溢れたならアパートは押し流され、辺りが海のような光景となるに違いないけれど、それはきわめて自然なことでもある。大昔には海水に浸かっていた場所が、海退によって「土地」となったが、それが再び海に戻るだけのことだと思った。僕の暮らしている荒川沿いの低地は、やはり六千年前には海だった。あるいは一日のあいだにも海は満ち干を繰り返していて、河口から二十キロも離れた浦和における荒川の水位が、潮位の変化に合わせて上下しており、川下から川上に向かって水の流れる時刻がある。
川面を行き来するお茶漬け海苔は、水に揉まれて海底にも固い地表にもなる土地のようだな、と、友人に話したとしても何のことやら皆目判らないだろうし、自分でもつまらない喩え話だと思っているから話さずにいる。土地がいつか海に戻り、お茶漬け海苔がいつか流されて海に戻り、僕と友人がいつかの釣りをしていた中学生には戻らないことも、ひどくつまらない当り前のことだから話さない。話さないけれど僕自身が忘れないように書き留める、ただそれだけのことで、忘れたからといって困りはしないし哀しくはないが、書き留めておけば、あとで読み返した僕と、僕の子どもたちが愉しい。