# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 夏の動物 | 森 綾乃 | 991 |
2 | 世界一短い推理小説(千字ver) | Et.was | 1000 |
3 | 淑女渇望 | 柊葉一 | 943 |
4 | 追い風 | ハコ | 1000 |
5 | ナレーション | K | 1000 |
6 | 求ム、 | 翻車魚 | 1000 |
7 | たけしの観照(3+9=?) | 宇加谷 研一郎 | 1000 |
8 | 舌鼓 | bear's Son | 1000 |
9 | ひつじ雲 | 白縫 | 999 |
10 | Corruption of the best becomes the worst | 崎村 | 978 |
11 | 小あじの南蛮漬け | 長月夕子 | 991 |
12 | らくだと全ての夢の果て | 新井 | 853 |
13 | アイ ウォント ユー | 田中彼方 | 1000 |
14 | 擬装☆少女 千字一時物語24 | 黒田皐月 | 1000 |
15 | 右手と左手の会話(ソナタ形式) | ロチェスター | 1000 |
16 | 糞の礼 | qbc | 1000 |
17 | 海退 | 川野佑己 | 1000 |
18 | 仮面少女 | 壱倉柊 | 1000 |
19 | 車内の吐息 | 櫻 愛美 | 999 |
20 | 顔 | 三浦 | 994 |
21 | オレンジ | fengshuang | 606 |
22 | 常連のお客様 | わらがや たかひろ | 1000 |
23 | 祖母の入院 | わたなべ かおる | 982 |
24 | さあ、みんなで! | ハンニャ | 999 |
25 | シルク | るるるぶ☆どっぐちゃん | 1000 |
街は、夏の予感で満ちている。夕方の風を切る、女たちの白い足が眩しい。天球が小さく破れ、そっと明かりの漏れたような、ささやかな月だった。私は、低いビル郡の隙間、薄闇色の空に浮かぶそれを、爪先で押しこみ、遊んでいた。
「お茶しませんか」
三十がらみの、背の高いスーツの男。あまりに捻りのない言葉と、鈍く光る眼に、興味を持つ。衝撃!付いて行った女の末路とは?―――これでは、結果の知れた理科の実験と変わらない。名を尋ねられ、適当に答える。苗字は、高校生のとき予備校で出会い、少しだけ好きだった男の子から盗んだ。
男に連れられ、紅茶専門店の喫茶スペースに入る。カントリー調の内装。ショーケースの中には、ゼラチンで輝く苺のタルトも、表面を焦がしたチョコレートプティングもある。差し向かいに座る男の、長いまつげに縁取られた眼、頬に落ちるささやかな影は、キリンのそれにそっくりだった。
「本当にお茶なんですね」
私の言葉に、キリンは少し、怪訝な顔をした。
「プロジェクターの周辺機器を、アメリカで販売しているんだ」
うさんくさい。私はお返しに、夜に自転車に乗ると、赤い月だけがひたひた付いて来る、と教えてやった。キリンは曖昧に笑い、私のロイヤルミルクティーを無断で飲んだ。そして、シナモンの枝でかき混ぜた自分の紅茶を私に勧めた。私は無言で飲んだ。
営業時間が終わり、不機嫌そうな店員に、やんわり追い出される。
「もう少し、時間ない?」
裏道に誘われるのを、適当に断る。あっちはホテル街だ。実験終了。
突然、キリンは、私のかばんをするりと奪う。驚いて見上げると、キリンはかばんを向こうの手に持ちかえ、自由になった私の手を握った。
「駅まで送るよ」
別れ際に渡された連絡先のメモ用紙は、NYのビジネスホテル備え付けのものである。なかなか芸が細かい。
帰りの電車で、私が名を盗んだ男の子に偶然出会った。それほど親しくもなかったのに、思わず声を掛けた。目下浪人中の彼は、疲れて青白い顔を、ターゲット1900からこちらに向けた。そして、ゴールデンレトリバーの笑顔をくれた。話はあまりはずまなかった。
真夏の夕暮れ、駅のコンコースで、もう一度キリンを見た。化粧気のない、くたびれた感じの女と一緒だった。黒く沈みかけた街路樹が、ぬるい風にざわりと騒いだ。サバンナの草原、青白い月の下での、動物のセックスを、私は思った。
私の書斎、雑多な本の中に厚いハードカバーに“世界一短い推理小説”と題された本がある。そのカバーの間には紙が三枚挟まれているだけで、しかも、二枚は内側のカバーであった。つまりは本文の書かれているのは更にその間の一枚と言うことである。
そして、本文にはたった一行、こう書かれている。
「その日の午後二時、T.Nは何故あのように殺されたのだろうか。」
本を隅々まで見回したところで他には何も書かれていない。
私はこの本を深く読み解きながら推理した。
T.Nという人物が殺された。その理由が“何故”か分からないのは、彼が穏やかで誰からも恨まれないような人物であったためだろう。
それから、この犯行は物取りの線ではないに相違なかった。
という事は、通り魔か何かの仕業だろうか? いや、違う。それならばそもそも“何故”と言う必要がない。それに、書くならば“殺されたのか”と言うより“殺されなければならなかったのか”と同情的になるはずだ。
私は何度も推理しながら、ある瞬間“あのように”と言う言葉に引っかかりを覚えた。
あのように、それは恐らく猟奇的で残虐な方法で殺されたのだろう。そのとき、私の頭にバラバラ殺人という言葉が浮かんだ。
そうだ、それに違いない。だとすると、遺体を解体する目的として考えられるのは遺体を運ぶためだ。しかし、そうでは無かった。だから、疑問が残ったのだ。つまり、T.Nは恐らく自宅で殺され、そこでバラバラにされていたのだ。
最後に、私は全文を踏まえて考えた。
殺害の理由がはっきりせず、憶測も立たないという事は犯人が誰にも目立った目撃をされなかったはずだ。目撃談があると殺害動機の憶測が囁かれる結果を生む。
つまり、犯人は午後二時ごろ民家の周囲をうろついていて不審でない人物である。
以上から私は結論を導き出した。
T.Nを殺したのは犯人出前か何かを配達する配達員だ。動機は出前の到着が遅いことに苦情を言ったT.Nに犯人が逆上し、殺したのだ。おそらく毎度毎度犯人はT.Nに頭ごなしに咎められていたのだろう。なぜなら、私の経験では普段人柄のいい人ほどいちいち小うるさい性質があるからだ。
犯人はそのT.Nの苦情に相当参っていたに違いない。そう、この結果として犯人は分裂病になっていたのだ。
分裂病を患っていた犯人は、死してもなお苦情を言い続けるT.Nの妄想に取り付かれて、顔、体が完全に分からなくなるまで彼を切り刻んだのだ。
パパとママとフィアンセのレスマンが死んだ、と聞かされたのは、二日前のこと。グランマは大慌てで私の寝室に駆け込んできて私にそう伝えるや否や、私のベッドに倒れるようにして泣き崩れた。家が燃えてしまったのだと、あとから使用人のマリアンに聞かされた。そして家に火を付けたのが、幼馴染みのマーカスだったということを、葬儀の報告に来た叔父様が教えてくれた。
私が郊外にある別荘のベッドの上で休んでいる間に、総ては起こって、そして終わってしまった。愛しいグランマはショックで寝込んでしまっているらしい。使用人たちも私に気を使ってか、あまり私の居る部屋には近づかなくなった。
パパとママと、レスマン。
最後に会ったときケンカをして、ひどいことを言ってしまったのに、もう謝ることもできない。ただ私はマーカスを馬鹿にされるのが嫌だっただけなのに。最後まで分かりあうことはできなかった。
そしてマーカス。
まるで双子のように気が合うと、幼いころは言われていた。愛しい愛しい私の片割れのような人。どうして。
「リア、ちょっといいかい?」
ドアの向こうで叔父様の声がした。
「叔父様?ごめんなさい。今とてもみっともない格好をしているの。こんな姿でお会いしたくないわ。」
私がしとやかに言うと、叔父様は「君も立派なレディになったな」と、ドアの向こうで笑ったようだった。
「そうか。ならドア越しで失礼するよ……あまりよくない知らせだが、マーカスが護送中に逃げ出して、まだ見つかっていないらしい。彼はここを知らないし、心配ないとは思うが、一応、知らせておこうと思ってね。それだけだ。」
コン、一回、叔父様はドアをノックした。
「そう……、叔父様、わざわざおっしゃってくれてありがとう」
「いや、それじゃあ、失礼するよ」
そう言って、叔父様の足音は遠ざかっていった。
「大きな声で話したから、喉が枯れたわ」
私は一つ咳払いをする。後ろから私を抱きかかえるようにしていたマーカスは、私の喉からナイフを離した。
「どこが立派なレディだ……嘘が上手くなったな、リア」
そう言って彼は私の腰に手を回して、私を抱きしめた。
「来てくれてありがとう、マーカス」
彼の首筋に頬を寄せる。
「これでいつでも、あなたの傍で死ねるのね」
最近とにかく追い風が強い。ベッドの中でも強かった。その風は透明でもなく、だからって口で言える色もなく匂いもなくて、乾いてもいなかった。もちろん、掴める訳がない。だから、分析することもできない。精神科に行く。正常だから心配するなと医者は云う。神経科にも行った。眼科にも行った。
――耳鼻咽喉科?
医者の誰もがみんな、がっかり“あー”と溜息ついて笑っていた。
「あー」
通勤の車の中でも強かった。閉め切って、エアコンだってつけてない。FMから演歌が流れる。勘が働いてこれではないかとボリュームを下げる。やっぱり風は強かった。
――諦めて音量を上げる。
髪がなびいてイライラした。
「あー」
ボーナスが出たので、顕微鏡を買った。風呂場で髪を切って睨んでみた。見えたって、フケでしかない。驚いても白髪でしかない。何本観ても、結果はまったく変わらない。
――恋人に相談した。
もちろん、腹を抱えて笑っていた。
「だってスキンでしょ? 君」
手を当てる。
――なびいている。
やっぱり幻覚だよと医者に走った。
「あー」
ある日、俺は経験を踏まえて、この風が、午前中は向かって右から、午後は向かって左から、夜は正面から吹くのが理解できた。扇風機を買ってきて、追い風を巻き立てて、ともかく急場を凌ぐことにした。夜はうつ伏せて扇風機を吊るす。それはとても的確であって、風は丁度良く混ぜ合わさって止んでくれ、やっと生活はそれまでの正常に戻ってくれた。恋人は「お願いだから別れてよ」と云ったが、「そのうち慣れるから辛抱してくれ」と俺がせがむと、「じゃあ、2ヶ月ね」と時限を決めた。俺には自信がある。
――季節が変われば風も止む。
今が梅雨なら半月あれば万事休すと、二つ返事に受け入れた。
「冬になった」
恋人とは結局、別れた。風が強いくらいで難癖ならこっちが願い下げだとあしらった。恋人は泣いていた。ざまみろと冷ややかに思った。
――リストラされて年末遊んだ。
1台目の扇風機、プロペラ腐って飛んでいった。
「あー」
俺は覚悟を決めて盗みに入り、銃器屋からピストルを奪った。恐らくこの風は生きているから撃ち殺そうと考えた。午前中、右手を撃ったら人にしか中らなかった。午後、左手を撃っても人にしか中らなかった。夜、後頭部に銃口をあてた。
――これで楽になる。
これで正常に戻ると向かい風に向かって親指を曲げた。
「あー」
追い風が吹いている。いつまでたっても止む気配なんてない。
やんや、ささ、ええ、そのようにしてこうしているわけでございまして、他に何の理由も無いのでございます。部屋の中には男がひとり倒れており、うつ伏せに倒れこんだ頭部の辺りからは血が流れだしておるのです。今のところそれだけでございます。がらんとした部屋には一見すると、他には何も無いような気さえいたします。いやいやさ、そんなことなどございません。そこにはテーブルも、テレビも、カーテンもありませんが、それらが無いことが「何も無い」で済まされる道理は見当たらないのでございます。「何も無い」ことなどございません。壁面はコンクリートでしょうか、電気も無い部屋でありますので、冷たい印象を与えることは間違いがないでしょう、小さな窓から明かりがうっすら差し込んでおりまして、一目には朝か昼か夕方なのか、判然とはしません、ああ、時間は過ぎてまいります。こんなことを申しているうちに、ひとたびこの男さえ動き出してくれればどれくらい助かることでしょう、日が傾くまでには遠いものです、私は休憩をすべきでしょうか。しかし休憩することは、幾分個人的なお話になりますが不都合というものですよ、ええ。いやはや、この男は動かないのでございます。個人的なことを申せば、私の気持ちの中では、果たして「この男」という言い方が適切なのかどうなのかという問題が先ほどから頭をもたげているのでございます。彼が生きておれば、それですんなり、万事良好に行くでしょうところが、もしかすると、死んでいるという可能性もあるではないですか、頭から血が流れておるというところからも、そう考えるのは自然でございます。そういたしますと、「この男」より「この死体」ではないですか。生きているのか死んでいるのかわかったものじゃありません、あるいは、生きさせられているか、死なされているか、そんな、ああ、私は何の話をしているのでしょうか。私の考えることなどこの場面と何の関係もございません、いや、果たしてそうでしょうか。死んでいるのか生きているのか、そのどちらでもないような気もしておるのでございます。硬質な壁面は、灰色に煤けており、それが余計に血の赤さを演出しているのでございます。演出!私はなんということを口走ったのでございましょう、そんなことは言わなくても良いではないですか。しかし、む、今、男の手が少し動いたような、それは錯覚かもしれませんが、きっとこの男は生
玩具や電化製品にはたいてい説明書がついている。ああいうものがほしい、と強く思った。馬が合わない上司と上手に付き合う方法を教えてくれる何か。説明書ならば出会い方から明記してあるに違いない。第一印象で重要なことや注意点、相手の反応の傾向と対策も。
出会いが悪かったような気がする。失敗して初めて直に会話した。双方に過失があったのだが、相手は腐っても上司、頭を上げてはいけない。
悪い人じゃあないんだけど、と互いに感じているはずだった。信頼していないわけではないし、能力も認めている。しかしどうしても必要以上に構えてしまう。だからなかなか会話ができない。
たとえばその上司から「おいしいお菓子をあげるよ。でもみんなの分があるわけではないから、此処にいる人にだけ」と高級そうな菓子を賜ったとする。本当ならばすぐに頂戴して礼を言えば済むのだが、そのときちょうど手が離せない作業をしていて、とても席を立って茶を淹れたり、高価そうな菓子を愉しんだりする心境にないとする。かといって礼を言うためだけに、滅多に食べられない菓子を味わいもせずに食べてしまうのは勿体なくてできない。結局、仕事が一段落してから一人で堪能し、礼を述べる時機を完全に逸することになる。それでも礼を言わずにはいられないし、この菓子が何処で手に入るのかをどうしても訊いてみたいとする。だが話しかけ難い。職場の全員が馳走になったのではないので人目が憚られ、仕事以外の質問を勤務時間中にしてもよいものかどうか戟しく悩む。意を決して一週間後に丁寧に礼を言うが、上司には「そんな昔のこと」と冷たくあしらわれる(であろう)。とても心地よい関係とは言えない。
かくして説明書を開きたくなる。巻末のFAQ頼み。何故だ、何故わたしたちはうまくいかないのだ、何がいけないのだ、どこで間違えたのだ。しかし書かれていることは単純かつ簡単なことばかりで、最初からきちんと守っているつもりだ。
もし玩具ならまだ方法がある。販売店に駆け込んだり修理に出したりするだろう。ふとテレヴィを見ると或るプロヴァイダーが、困ったときにはインターネット経由でパソコンを自動操作してくれると広告していた。なんと便利な。ぜひ当方の上司も操作していただきたい。否むしろ、わたしを操作してくださっても一向に構わないのだが、と思い至って、それまで裏紙に書いていた上司取扱説明書の原稿を破り捨てた。
「玲ちゃん」
「なに」
「知りたい?」
「は?」
「わしの全部」
「なんでも知ってるわ」
「ちゃうねん。古い話のことや」
「どうでもええわ」
「知りたないん?」
「知りたない」
「おもろい話やで」
「ひとのお金とってた話なんか聞きたない」
玲子は段々イライラしながら、枝豆を口にほりこむ。夫の剛が昔チンピラだったことは玲子には関係ない。足を洗った、きれいさっぱりや、といった言葉を玲子は信じた。なのに、剛は昔話をする。
「玲ちゃん、あの話とちゃうんやで」
「じゃあ何」
「わしのおじさん、NASAにおるねんよ」
「ナサ?」
「宇宙の」
「え」
「知らんかったやろ」
「うん」
「わし昔、おじさん訪ねて東京行ったことあんねや。牛丼おごってくれてな。わし悩める青年やってん」
「ふーん」
「おじさんもな、天才目指してるけど天才なれへん悔しい、ゆうてな」
「はあ」
「わしも男がすたるとおもて大阪の掃除屋になってん。兄貴に会うまでの話やけど」
「兄貴? チンピラやめろてゆうてくれた大工さん?」
「あー兄貴のピッツアはうまかったな」
「あんたのんもおいしいで」
「この店にもあるやろ。おっさん! 海鮮ピッツア」
あいよ、と料理人はないメニューに応じた。玲子はビールをおかわりした。オープン戦でも阪神が負けた夜なので客は荒れている。子供が玲子のところにやってきて「あげる」と言った。虎の袋の中のチョコレイトだった。おおきに。玲子は子供の頭をなでてやった。人の子でも子供はかわいいなあ、それにしても剛の伯父がNASA? 全然オチてないやん、と玲子は思った。
「おじさんの話やけどな、おじさんは猿と友達になって、その猿が東京歩いてんねん」
剛が意味不明なことを喋り出したので、この人ほんまもんのアホになったか、と玲子は話を上の空で聞いていた。剛がアホになってもかまわなかった。元々最初からこうだったのだ。
天才を目指す、という言葉が玲子に、昔を思い出させた。古い女友達が同じことを言っていた。彼女と遅くまでブックバーで飲んだり、剛のような原始人を交えて、谷崎の小説めいた遊びをしたこともある。
「虎ノ門の講堂で猿に渡してって」
剛は「サルのまごころ」と記された太い乾電池と報酬の小切手をみせた。
「その猿が3+9は? ってきくんやて」
3+9、サンキュー? 玲子は冷静に――答は、どういたしましてやろ。
「ちゃうねん、産休、子作り、ジュニヤときて答は12や」剛は玲子の唇をみつめて言った。
乗馬の扶助に舌鼓(ぜっこ)というものがある。
舌を上顎に付けながら息を出し、チッチッチという音をさせて馬を誘導する。
21歳の春。
煙草を吸わず自動車の運転もしない僕は、大学に入ってからの3年間のバイト代が通帳に貯まっていた。
友人たちの間では就職活動が始まっていた。僕は進路を決めなくてはならないことにためらいがあった。
それより今しかできないことをしておきたかった。
皆が会社説明会に行き始めた頃、僕は乗馬クラブの会員になった。
昔から動物が好きだった。家にはチビという名の柴犬がいる。
乗馬クラブには乗馬用に調教された、引退した競走馬たちがいた。乗馬専用に開発された馬は日本には少ない。
成績を残せず種牡馬になれなかった牡馬や、買い手のいなかった牝馬たちが集まってくる。牡馬の多くは乗馬になる時、気勢を抑えるために去勢される。競馬会での行き場を失い、乗馬になる馬たちは少なくない。
乗馬クラブの朝は早い。インストラクターの人たちは馬の管理に忙しく、人手が足りないのが現状だった。
ここで働いてみないかと僕も誘われた。
クラブには馬が百頭以上いた。管理費がとても掛かるため、会員の月会費は高かった。
しかし馬と触れ合う時間は、時間がある今しかできないことであり、僕にとって馬と接することはとても楽しかった。
馬たちはとても優しい目をしていた。大きく無駄のない体をした彼らは、とても音に敏感で臆病だった。
こちらが優しく接すれば相手も優しく返してくれる。そして非常に賢く、一度覚えた顔は忘れなかった。
馬上の人になった僕は、馬と一緒になって気持ちの良い小春日の風を切っていた。
馬の駆けるリズムに合わせるように、僕は舌鼓を鳴らしていた。
まだ小さかった頃、公園でおじさんと大きな犬が歩いていた。
犬に恐怖感を持たなかった僕は、目の高さよりもある犬をじっと見ていた。
坊主、怖くないのか? 背中に乗せてやろうか?
おじさんは僕を抱き上げて、犬の背中に乗せてくれた。それがとても嬉しかったのを覚えている。
半年が過ぎ秋口になった。
夏の間は日照りをさけてクラブを休会していた僕に、クラブから倒産の知らせが届いた。
クラブにいた馬たちがどこに行ったのかは、分からないままだった。
今また春が来た。僕は大学院へ進学することが決まった。
今もチビと散歩をしていると、地面に鼻を付けて動こうとしないチビに、チッチッチと、知らぬ間に舌鼓をして呼んでいることがある。
お手洗いのパパを待つうちにアイスが溶けて、べしゃって地面に落ちた。パパは泣きじゃくるあたしに「新しいの買って帰ろう」と言って頭を撫でた。あたしのパパは世界一だ。
遊園地の帰り道、あたしとパパは手をつないで他愛のない話をする。また行こうねって。そう言うとパパは笑うけど、傍目には悲しそうに見えてて、でもそんなことないって知ってる。前に長く伸びた影や夕暮れの永遠みたいな時間がパパをそんな風に見せるのだ。あたしとパパをつなぐ手が、歩くリズムでぶらぶらと揺れる、そんな気怠さがいい。
パパの無口さは男らしくて素敵だ。歩きながらあたしが話すのは、例えば友達が面白いって言ってたアトラクションがそうでもなかったことや、パレードが子供っぽくて冷めたこと(でも楽しかった、って言う。本当のことだから)。パパはあたしの話に相槌を打ち微笑んでくれる。夕陽はいつまでも沈まなくて、路地も果てしなく続いてて、でも永遠じゃないからあたしは時間を惜しんで夢中で話をする。
だからあたしは影が増えたことに気付かなかった。パパを挟んだ反対側に、あたしより大きくてパパより小さい影が一つ。ショックだったのは、その影がパパと手をつないでいたこと。
パパを見上げると、パパは隣の誰かと話をしていた。パパの向こうにピンク色のフレアスカートの裾がちらつく。パパの薬指の銀の指輪が、夕陽に反射して目ざとくぎらぎら光っていた。ねえパパ! と声を上げて腕を引っ張ってもパパはこちらを振り向かない。それどころかパパは、信じられないくらい明るい声で笑ったり拗ねたような声を出したりと、あたしの嫌いな軟弱な男に成り下がってて、もう腹が煮え繰り返って、パパッ、と怒鳴る。するとパパは悲しそうな顔でこちらを見てあたしの手を振りほどく。そして女と、この愛娘のあたしを置いて歩いていってしまう。走ってもあたしはパパに追いつけない。やがてパパと女は地平線の彼方にすとんと落ちてしまった。それと同時に日が暮れる。
取り残されたあたしは涙と鼻水で顔中べとべとになり、さっきパパが買ってくれたアイスがすっかり溶けていた。コーンはすっかりふやけ、あたしの後ろには溶けたアイスが点々と続いていた。アイスさえ溶けなければパパは帰ってくるかもしれない、なんて非論理的な考えがだんだんわたしの中で絶対になって、ああ、私は明日もこの馬鹿げた妄想を再現するのだろうなと絶望する。
気付くのが遅かった。当たり前だけれども、私には見えない世界があって、私に構わず日々変化している。私だけがそれに気付かずに、ぽつんと残されていた。もっと早くに消えていれば、傷付かなくていいこともあったのかもしれないし、何も知らないままで良かったのかもしれない。
私が「死にたい」と伝えた時、彼は表面上では引き止めはしたものの、表情は明るかった。そこで、私は決心した。
「その睡眠薬は効くのかな? 苦しまないといいけど……」
彼はのんびりした声で言う。
私は少し焦りながら、手のひらに持てるだけ白い錠剤を。彼は時計をちらりと気にしながら、グラスに冷たい水を。そのきれいな指を見て、ふと思う。もし、この人を本当に好きになれていたなら、何かが変わっていたかもしれない、と有り得ないことを今更。
彼は水がたっぷりと入ったそのグラスの片方を私のほうへ丁寧に差し出した。
「慌てて飲まなくていいよ。ゆっくりでいいから。とは言っても、俺には約束があるから、10分内で済ませてほしいのだけれど」
「彼女と会うの?」
「まあ……ね」
心の中で何かが渦巻く。彼は私と3年以上も関係を持ちながら、やはり彼女を選んだ。その結果として、こうやって私に死を急かす。もう何もかも取り返しがつかないのだと気付く。人の愛情なんて永久には続かない。
私は一気に錠剤を喉の奥に流し込む。思ったよりも緩やかに胃に沈んでゆく。冷たいミネラルウォーターが透明に喉を潤す。
私は彼の目を真っ直ぐ見つめて言う。
「お願い。最後にキスして……」
彼はゆっくりと顔を近付けて来た。目を瞑って。唇に柔らかい気配が。
「……ありがとう」
私は最後の余韻に浸っていたかったが、彼は自分のグラスの水で唇を濡らし、すぐに私の気配を消し去ろうとしていた。そして、すっと立ち上がり部屋から出て行こうとする。
その瞬間、彼の体が崩れ出す。喉の辺りを掻き毟り、物凄い勢いでのた打ち回る。何か言っているようだが、それはもう呻き声にしか聞こえなかった。
私はその様子を傍らで見下ろしていた。私はキスの際に只、グラスに薬を注いだだけ。
私が死ぬのは、彼がいなくなった後でも遅くはない。私はさっき飲んだ白い錠剤の瓶をいつものサプリメントが並んだ棚に戻す。愛情は永久に続かなくとも、憎しみは絶っておかないときっと永久に続くんだ。
さて、眠ろうか。
冷戦は三日目に突入した。今朝のメニューは舌がしびれるほど辛い塩鮭と、皮付きナスの味噌汁(味噌汁の色が変わるから嫌だとの夫の言い分)、甘いホウレン草は嫌いという声にお答えし、あえて胡麻和え。どうだと言わんばかしに並べた朝食を、夫は顔色変えずに粛々と平らげ、「ごちそうさま」と言うと食器をシンクに置き、鏡の前でネクタイの結び目を確認し、スーツを着込みカバンを提げて「いってきます」といつものように出かけていった。面白くない。嫌味が嫌味として通じず、元凶である犬は自分のクッションの上で朝寝ときている。私はむやみに腹が立ってクッションをだるま落としのように横から引き抜いた。体重3キロ満たない犬は転がり、恨めしそうに私を見たが、すぐソファへ移動してすやすやと眠り始める。飼い主に似て嫌な性格だ。大体夫の性格は細かすぎる。洗濯ばさみが床に落ちていようなら、やれコテツが踏んだらどうする、コテツが間違って食べたらどうするとコテツコテツ。洗濯ばさみくらい落とす時だってあるし、気がつかない時もあるのだ。
冷蔵庫から小鰺のパックを取り出す。ばらばらとまな板へ並べて、無造作に一匹を選び出すと、がりがりとぜいごを取る。むき出しの血合いや身の奥でうっすらと骨が透ける。無遠慮に指を突っ込み、深紅のえらを引きずり出す。包丁の刃先で柔らかい腹をすっとなで、桜色の心臓や血だまりのような内臓をかきだす。一度命を奪われたのに、またこうして殺されるとは難儀なものだ。内臓はやがて小高い山になる。窓からの日差しにきらきらと、まな板で滲む血はまだ生きているようだ。
10匹目の腹にぶすりと刃を立てたとき、インターホンが鳴った。私は舌打ちすると指についた血をぬぐい、玄関へ向かう。荷物は私がかねてから欲しかったイングリッシュローズの鉢植えだった。贈り主は夫で、何をこんなもので機嫌をとろうとは私も軽くみられたものだと思いつつ、ご機嫌伺いにしてはやけに包装が華やかで、不意にカレンダーの今日の日付を見れば、その数字の下に小さく几帳面な夫の文字で「プロポーズした日」と書かれてあった。
放り投げたコテツのクッションを彼の元に返し、私はキッチンへ戻る。ペーパータオルで内臓をきれいに包み、ビニール袋へ入れて硬く口を縛った。血でくすんだ小鰺の体へ水を流すと、空っぽの腹が銀色に光る。その目はまだ、波の狭間の太陽を見ている。
天の川輝く零下10度の砂漠の夜。いつものキャラバンで、友達のラクダと一緒に寝る。名前は知らない。聞き取れなかったから、それで良いと思った。夜には一枚の毛布をかぶり、ラクダが私を後ろ足と胴の間に抱き込んでくっついて寝る。まどろみつつ私はラクダに話しかける。このラクダはなかなか詩人なのだ。
「何か話してくれよ」
(では水の話をしよう)
水?めったに飲まないじゃないか
(そう水はこの地には無い)
(この地にある水は全て天に召されたのだ)
「雲のことかい?」
(いいや)
(今も見えるだろう天にかかるあの大きな光の川を)
(あれは天上の水が凍ったものだ)
(水晶のような氷が生きとし生ける者の夢の光を反射して)
(光っている)
(そう思うと 乾いたこの地を誇りに思える)
(おかげで私達はあんなに美しい夢の光が見れる)
(ありがたいことだ)
(ありがたいことだ)
ラクダの話を聞きながら、私は眠りの世界への船を渡っていく。こんなラクダとの夜を何度過ごしただろう。最初臭いと感じた獣の匂いに今はとても安心する。彼に会いたくてキャラバンはもう趣味になった。
ある日の砂嵐のあった夜半・・・・・
彼はゆっくりと涙を流すと、心臓の音が細くなり始めた。
いつかこの時がくると分かっていたので、頑張って落ちついて、言葉を選んだ。
「ついに行くんだね」
(寒さは大丈夫だろう 私の死体を抱いていれば今夜はしのげる)
「そんなことはどうでも良いよ」
(泣いているのか?)
「そんなことない、この日のために練習したんだ。泣いたりはしない。きっと君の気のせいだ」
(・・・・前に水の話をしただろう)
(私も死んだら水になる)
(この血も涙も全て天に上がる)
(彼方で凍りつく氷河になって)
(君の夢の光を受けよう)
(君の全ての夢の光を受けよう)
(光はきっと君に届く)
(だから泣かないで)
(顔を上げてご覧なさい)
(今 全ての夢が蘇ろうとしている)
涙が頬を伝って、苦い塩味が舌に触れた。もう行ってしまった友を抱きながら夜空を見ると、夢の光が目を貫く。
ああ、今、全ての夢が蘇ろうとしている。
月明かりが窓の外から照らすーーそんな表現は終始明るいこの都会では大袈裟かもしれないが、満月の日の暗い部屋からは月の光が妙に眩しかった。デジタル式の時計を見ると、午前二時を過ぎたばかり。まだ、始めて触った彼の感触を手のひらに覚えている。記念すべき二人きりで過ごす始めての夜。少し小さくなった彼は、話しかけても何も言わなかった。
クラスメイト。少し前までの私と彼の関係はそれ以上でも以下でもなかったと思う。お互いに住む世界が違いすぎた。
常にクラスの中心で大勢の友人に囲まれる彼と、教師にさえ必要最小限の会話の時以外は存在しないかのように扱われる私。
二日に一回は告白される、整った顔立ちの彼と、鏡を見る度に激しい自己嫌悪に襲われる、不細工で醜い私。
私を女、つまり異性として接してくれた男はいただろうか。彼が持っているものを私は何も持つことは出来なくて、私が辛うじて持っている少しのものを彼は何でも持っていた。彼は完璧で、汚点が見当たらない。そんな彼に私も恋をした。一方的な片思いだ。しかし、私の願いはただ虚しく、彼の眼中に私が含まれることは無い。私は彼と話す友人を羨望の眼差しで見つめ、妬ましく思った。私は彼のことを想い続けた。
いつからか、私はいつでも彼のことを追うようになった。彼の仕草、格好、所持品、席を立つタイミング、何でも知っている。学校が終わってからも私は追い続け、彼が帰宅すると彼の家の前でずっと立っていた。幾ら彼を見つめても私が飽きることは無かった。
そして、いつしか感情が芽生えた。
彼が、欲しい。彼の何が欲しいというのだ。不意に頭をよぎった疑問に私はすぐに答えを見つけた。
全部がどうしても欲しい。
でも、どうやったら叶うだろうか。
伝えたいことがあるーー差出人を隣のクラスの可愛い女子にした手紙に誘い出され、彼は私の家の前まで来た。後ろから忍び寄って力一杯首を絞めると、彼は簡単に事切れた。彼はとても重かったが漸く欲しいものが手に入った充実感からか、気にはならなかった。彼を部屋に運ぶと日曜大工用の鋸で解体を始めた。大量に返り血を浴びたが、彼のものだと思うと心地良かった。
思案に耽るうち随分と時間が経った。袋の中から彼の頭部を取り出して抱えると、私は惚れ惚れと眺め、窓を開け放す。
もう、誰にも邪魔されはしない。
桟を乗り越えて、私と彼は宙を舞った。月明かりの照らす夜は、やはり眩しかった。
三月二十一日、午後四時。早咲きの桜の花が散るのを見ながら俺は、終わりというものはいつか来るものなのだと、時の経過を想う。
今日は、卒業の日。
「もう、それを見ることはないんだな」
我ながら抑揚のない声だ。しかしこれは決して無表情などではない。感慨あり、安堵あり、懐疑あり、そんな雑多な気持ちが混然として、どのような形もとれないのだ。
「うん」
窓辺に佇んでいる奴は、桜の花の色に似た明るさで、俺に背を向けたまま、頷いた。見ているものが映りこむ濁りのない大きな目はまっすぐに窓の外を向き、散る花びらよりもみずみずしく血色の良い唇は緩く閉じられている。今日は特に何かをしたのではない。ただ散歩に行き、帰ってきただけだ。しかし奴は今、とても幸せそうだ。それが間もなく、終わる。
「付き合ってくれて、ありがと」
一転、奴の声が寂しさを滲ませたような響きに変わった。それは今日一日のことか、それとも今までの全部なのか、そう俺が問う前に奴はくるりと振り返った。花柄のワンピースの裾がふわりと翻り、下りた。
「今日で、このガーリッシュファッションから卒業します」
窓の外からの光が逆光になっていて奴の表情はよくわからなかったが、その声には湿り気はなかった。俺は生返事を返した、のだと思う。奴はまっすぐに俺を見据えながら、星の飾りのヘアピンを抜き、花柄のワンピースを脱いだ。同性の奴のことだ。別に目を逸らすこともないし、見据えている必要もない。俺は何もせずにいただけだった。その俺の前で奴は、やや大きめのクリーム色のトレーナーと白の靴下はそのままで、下にカーキ色のカーゴパンツを穿いた。
「オレはオレだけど、な」
開ききった花のようなあどけない笑顔は、奴のものに変わりはなかった。しかしその傍らに畳まれたワンピースは、ただの布地でしかなくなっていた。何気なくそれを手に取った俺は、その軽さに驚いた。今日までずっと惑わされてきたことが嘘のように、それには何の質感もなかった。何をするのか、と奴が首を傾げながら見ている前で、俺はそれをそっと元の場所に置いた。
「これで清々した。やっと変態趣味とはおさらばだ」
言ってくれる、と奴が俺を小突く。小突き返した俺は、感慨も安堵も疑念もすべて吹き飛ばして、思い切り笑ってやった。同じように奴も、大口を開けて無邪気に笑った。柔らかな光を受けた桜の花は、そんな俺たちを祝福しているようだった。
●
目覚まし時計のベルが鳴ったよ。
(でるりらでん)
いや電話のベルだったかな、いいや、いいや、時計でも電話でもないかもしれないな。
それなら一体なんなんだ。
ほら。
(どるでぇりどん。じょるじぇりじょん)
響きがとまらないよ。
蜂の音かもしれないぜ。
(ぶううん。ぶんぶんぶん。びゅうんびゅん。じゅうんじゅん、でゅうんでゅん)
ほら、蜂の音かもしれないぜ。
刺されるのかな。
どうだろう、それは君の心がけ次第かもしれないな。何か悪いことしたんだろう。
したよ。
何をしたんだい。
さあ。
(すっとこどっこい!)
あれれ。
音が大きくなってないか。
(ずるっどんアジャパー)
ん?
アジャパーって聞こえなかったか。
(どぅびちょんジャンパー)
ジャンパーだったぜ。
ベルでも蜂でもなかったのかな。もうどうでもよくなってきたよ。
よかないよ。
●
ねえ。
なんだい。
「音を消すには耳を潰したらいいのかな」
試してみるかい。
痛いの嫌だよ。
なら消せないな。
君はどうしてるんだい。
「俺は黙ってるだけだよ。すべては止まるのを待つだけだ。恐がらない。かといって卑屈にもならない。天気と同じさ。傘を持たないで外に出て雨が降るだろう? 慌てて走っても濡れるときはびしょぬれなんだ。濡れてみるんだ」
(ぽっぽー)
(ぽっぽー)
鳩? 機関車?
(ぽろぽろ、ぽろぽろ)
涙?
ところで君がした悪いことは誰かを傷つけたのかい。
多分ね。
謝ったのかい。
まだだよ。
謝ろうか。
……。
俺もついていこうか。
ほんとかい。
「肝心なのは君が心から謝ることだ」
(おい、おまえ調子よすぎるぞ、隠し事あるだろう?)
●
謝ってきたよ。
そうか。
うん。
ベルはまだ聴こえるかい。
聴こえないよ。
俺も聴こえなくなった。
(アンタ嘘つきなサンタ!)
静かだね。
帰ろうか。
帰ろう。
春なのに冷えやがる、畜生め! おい、血じゃないか。
実は指一本切り落としたんだよ。
やられたのかい。
自分でやった。
どうして。
「……」
かっこつけやがって。
でも痛かった。
涙でたかい。
変な音がしたよ。
どんな。
ベルみたいな。
それみろ、あのベルも相手の音だったんだ。
今度こそ本当に帰ろうか。
いや、帰れない。
なぜ?
●
「実は俺のベルは鳴り続けてる」
(やっと白状したな!)
飲まないか。
その前に俺も指を切る。
(シュー……じりりりん!)
飲むときくらい我々の切り落とした指のために乾杯しようか。
ああ。
雪が降ってきた。
そうだね、春の雪だ。
では行くかな。
ついていくよ。
(とぼとぼ、とぼ)
勤めていたカメラ屋に長い休暇の届けを出して、海に向かった。何日か何週間後か判らないが、海に足を浸すことができれば、すぐにも帰ると書き残してきた。了承を得られたかどうかは判らないが、一応、帰るべき場所はある。遠い海に続く幹線道路に立つと、時々、荷台にドラムバッグを括り付けた原付などが通り過ぎるのみで、乗せてもらおうと親指を立てても大きく手を振り返されて終わる。舗装路に薄く積もった灰色の砂埃が、原付のタイヤにまとわりついて離れないのを見る。遠ざかるエンジン音が正体不明の羽虫のようだと思い、鼻孔をくすぐられ本当の羽虫がいることに気付いた。静かに呼吸をする。
僕が長らく自宅と職場に引き籠っていた間、季節は緩やかに巡り、薄日の射す天候が続きながらも木の葉は徐々に色づき、同時に海岸線は遠のいていった。漠然とした心持で遠くの干上がった海を夢想し、干上がった魚が市街に運ばれる様を思い浮かべるが、あるいは職場の休憩室で眠りに落ちるまで読んでいた短編の一節ではないかと思える。春先の黄ばんだ空が目に焼きついたせいか、補色である青の深まりを見せる現在の空が、濃度をさらに増して黒に近付いていくことを、なんとなく腑に落ちるように理解できるなら、海が遠ざかるより早く波打際に辿り着くべきだと結論を見出せる。
過去に幾度も繰り返されているはずの海退を、目の当りにしている現在、普通の生活をすることには意味がない。海水が退いていくとき魚は一緒に流れていったのか、海藻に産みつけられた卵は残されたのか、それらの疑問が、僕の実生活には何の関わりもないけれど、事実を目に焼きつけたかった。それを書き残すこともなければ、写真に収めることもしないが、僕を拾いあげて海まで運んだ人々には何かしらの記憶が残るだろう。僕が魚と一緒に流れていったのか、陸地に取り残されたのか、記録には残らないほうが面白い。
未だ海に辿り着くどころか、乗せてもらえる車一台さえ見つからないというのに、想像のなかで僕は頭から波をかぶって喜んでいる。再び鼻孔をくすぐられて我に返り、羽虫を追い払うが、乾いた空気中で湿りを求めているのだと思えば無下に殺すわけにもいかない。しばらく羽虫と格闘していると、羽音に紛れて一台のピックアップトラックが接近していた。左手を挙げて車を停める。助手席に乗り込むと、日焼けした初老の運転手は、海辺の町に帰るところだと言った。
看板ヒロインのレーコと笑顔でお別れすると、ゆっくり画面は暗くなり、やがてエンディングテーマが流れ、ついでスタッフロールが流れてきた。その時になってようやく微かに緊張していた空気が緩み、パソコンの前に居座った男達は大袈裟に溜息をついた。僕も曲げっぱなしだった腰を捻った。
「やっぱり音楽がいいな。BGMの力が大きい」
製作総指揮のDaigoさんが欠伸を噛み殺しながら言う。
「お手柄ですね、橋本さん」
「や、所詮僕はRINさんの歌に曲もつけられなかった男ですから」
そう言いながら指先で髭を弄ぶのはコンポーザーのハッシー本田さん、もとい橋本さん。
「とりあえず皆お疲れさん。なんとか予定通りにはいけそうだ」
宣伝のみやぽんさんが安堵の笑みを浮かべ、机上にコーヒーを置いた。
「あ、みやさん、やはり今日も寝かせないぞと、そういうことですか」
「はは」
「もう一週間は何もしたくない」
メインプログラムのケラニシさんが机に突っ伏して呟く。同感だ。僕だってここ数日は吃驚するくらい忙しかった。手も痙攣した。
「でも頑張った分、今回はいいんじゃないの、これ」
「七瀬君も良かったよ、背景」
「なんとかボロが出ないよう必死でした」
確かに必死だった。この七添八起、背景で失敗はできない。元美大生として。
「今度人物も任せようか」
「やめてくださいよ。僕にあんな可愛い女の子の絵が描けるわけないじゃないですか」
「いや、そういう絵こそ却ってウケるもんだ」
「さすが美大生。将来が楽しみ」
ケラニシさんが煽りを入れ、全員が笑う。
僕は苦く笑う。
ブラインドを指先でつまみ上げてみると、ついさっきまで夕日が差し込んでいたと思っていたのが、いつの間にやら一面闇である。
午前三時だった。
この男達は一体全体なにがしたいんだろうか、と思うことがある。ヘンテコな名前を使って正体を霞めて、睡眠時間を削って。
眼下には夜の住宅地が広がっている。そこに華麗なるヒロイン達を一人一人並べてみる。だがそれはどうにも暗すぎて、みんな霞んで見える。でも大丈夫だ。僕なら想像で夜の街並くらい鮮やかに描き出せる。僕にはこの世界で出来ることが確かにある。それで今は、何も問題ない。
ぱちんと音がして、部屋までが暗くなった。Daigoさんが、もぞりと机の下から枕を取り出す。今からなら四時間の睡眠は確保できるのか。僕も暖房の前に移動した。今日は大事なPRイベントがある。
「発車致します。扉が閉まりますので、お足元にご注意下さい」
窮屈。朝の通勤通学ラッシュの電車に、彼女は乗っていた。立っている隙間もほとんどない状態だ。
セーラー服の彼女は、閉まる扉に挟まれるかもしれない……そこに立っている。
「ちょっと待ってくれ!」
全力疾走で駆けてくる足音が、大声と共に響き渡る。
若い男。今風の着こなしのチャラい男だ。
「ちょい、失礼すんで」
彼女は男に押され、余計窮屈になった。彼女の顔が思わず歪む。まあ仕方ないのだが。
男が乗った瞬間、扉が音を立てて閉まった。電車がゆっくりと加速する。
男は扉にすがり、手に握っていたイヤホンを耳元に近づけた。
この状況が分かるか。
彼女は精一杯の力を両足に込めた。少しでも足を崩せば……。
こういう状況だからこそ、電車は意地悪をする。曲がる線路で、電車が揺れた。彼女の背後の人達が、彼女にのしかかる。
「きゃあ!」
「おおっと!」
彼女は、息を凝らしていたが、堪えずにはいられなかった。男の体に、彼女の全体重が寄りかかる。男の鼓動が、彼女の頬に伝わっていく。
体勢を直そうにも、彼女の背後で寄りかかる、この人達がいる限り、不可能だ。
恥ずかしいっ!
もう、明日からは一本速い電車だ、いや自転車を使うか、徒歩にするか――。
「別にええで」
彼女の耳元で、ささやく声があった。頭に血が上る。
「気にすんな」
彼女は謝ろうと口を開こうとするが、恥ずかしいせいか上手く声が出ない。
「女子高生に寄りすがられて、嫌でもねえし。って、なあんてな」
この男、ただの変……。
「これで、気を紛らしとき」
彼女のうつ鼓動が、一瞬強く飛び跳ねる。
響く壮快なメロディー。男は、彼女の耳にイヤホンの片方をあてていた。
「変なの……」
小声の彼女は、電車の騒音でかき消された。
「間もなく、西条、西条です。お出口は左側です」
車内にアナウンスが流れ、電車は減速し始める。
もし車内の人が減れば、どうなる?
「俺降りる! って、扉閉まったし!」
ふと、頭上の声で我に返った彼女。背中の重みがない。車内の人口密度は減り、電車は加速していた。
「まあいっか」
寄りそっていた男の体から、勢いよく離れた彼女。と、一緒に男も前のめりに。
「いたた。イヤホン外そっか」
彼女の頬、顔全体は真っ赤に染まって、体温急上昇。
「す、すみませんでした!」
車内に響く彼女の、声。
明日からは、徒歩決定だ……!
私がどうしても顔をおぼえられないその彼が死んでしまい、遺影でもやはりだめで、こっそり写しておいたそれを携帯電話で確認してはほっとする。やがて何者かが夜現れるようになり、そいつは踊りのようなものを披露し終えると知らぬ間に消え、私は平常心でいるが、それはそいつの顔がわからないから。社員旅行先でも、そいつは蒲団の合間を縫って巧みに踊る、畳から足先が離れる時にべりっと音がする、起きないんだ誰も、私が目を逸らすのは、月がこの部屋を照らし出していたから、顔を見たらお終いだ、一方で空気は軋る、畳は踊る、そのことに心が奪われる。だが、帰ってすぐに携帯電話をなくす。遺影が消える。そいつも消える。
「目が見えなくなりたい」
「いいから見ろよ」
「見えなくなったら手を引いてくれる?」
「きっとおぼえられるから」
「私の顔は?」
「おぼえてる」
「その目を頂戴」
「死んじゃうよ」
「じゃあ死んで」
「化けて出るぞ」
「夜に来るの?」
「そうなると思う」
「何してくれる?」
「かんかんのう」
「何それ」
「落語に出てくるへんな踊り」
「それ、今見せてよ」
「いやだ」
「どうして?」
「俺が死んだら見せてやる」
「じゃあ、見たくない」
「俺だって見せたくない」
携帯電話を探して、彼はとうとう浜辺へ行き着いた。月光だけが頼りの暗闇で、しかし月は水平線上にあって針の穴のようにちいさく、与えてくれるどころか目標にさえなってくれそうにない。彼は身体の中をぬっと何かが通り抜けたように感じ、すると目の前を人のシルエットが海に向かって歩いていくようなそういうのを見つけた。それはまさに見つけたという印象で、暗闇と人の形の境界が見分けられないからなのだが、しかし彼の目はきちんとそれを見分け、その瞬間、浜を覆い尽くすおびただしい数の人のシルエットの存在に気がついたのであった。それらは誰一人例外なく海へ向かっており、月とも呼べない月が坐している水平線へ向かって歩いており、しかし海だと思っていたものは海ではなく、凪いでいたのではなくて漆黒の地平で、彼がそこに足をおろせば、ひやりと冷たく、吸いついてくるようで、わずかずつではあったがどうやら沈み込んでいる。そうなると同時に眠気が彼を襲い、二の足を踏み、眠気と沈下が関係しているのだと覚った彼は、沈み込んでいく脚をなんとか引き上げ、左、右、左、と呟きながら、前へ、前へ、飽く迄も冷静に、足を動かし始める。
手を太陽にかざし、指の隙間から覗く色。
それほど多くない面積からもれる光の色は、とても眩しい。サングラスをはずし、おもむろに手をかざしてみた理由は、別段たいしたものじゃない。知っていたはずのこの色を、もう一度確認してみたくなった、ただそれだけだ。
昼夜逆転生活が長くなり、ネオン街の光が太陽代わり。煙草・酒。時折ではなく頻繁に目にする嘔吐物や、滴り落ちている赤黒い血。その臭いを嗅ぎながら、悲鳴や嬌声が音楽代わりに鳴っている。それが今の日常だ。
その日常から非日常、つまり日中に歩くことができた。なんてことはない。今の仕事にケリがつき、束の間の休息だ。そこでふと、かざしてみたのだ。
まぶしさの中、手が影になり、隙間からあふれるオレンジの色。
やらなきゃ良かったと思ったものの、フラッシュバックのように子どもの頃を思い出させた。
あの頃。そう子どもだった頃。少年野球リーグに入り、新緑のあふれる中ときには泥だらけになり、白球を追いかけた。そして時には仰向けに寝転がり、仲間と共に両手を太陽にかざして、このオレンジ色を見ていた。
つと、自嘲する。
2,3日後には多分また新しい仕事が始まる。
こんな真昼間に出歩くことはなく、太陽は街のあちこちにある看板だ。
目についた店で、オレンジを袋いっぱい買い込んだ。ほんのしばらくはモノクロの部屋に、この色が、昔と今を繋げてくれるだろうと、どうしようもない自嘲を込めて。
人で賑わう商店街の路地裏に、長年続く喫茶店がある。
木目のシンプルな外壁と、白い内壁のモダンな作りの店だ。
真ん中の扉の奥にはカウンター。左右には椅子とテーブルが並び、
右側に暖炉が置いてある。
そこを見つけたのは、勤める会社の”お荷物”になった「私」が、
人目を避けて自宅に帰ろうと思い、商店街の脇道を選んだ時だった。
それ以来、私はその店に通う様になり、やがて”常連”になった。
『マスター』は、脱サラ経験者らしく、
社会の”シガラミ”に縛られたくないと、会社を辞めてこの店を始めたそうだ。
店に行くと、時々マスターが”思い出”を聴かせてくれるようになった。
今日もまた、思い出の1つを聴かせてくれるらしい。
『あれは確か、木枯らしが吹いた夜のことでした。
静かに入ってきたのは、暖かそうなコートに身を包んだお客様でした。
切なそうな後ろ姿に哀愁を漂わせ、暖炉側の席に座りました。
窓の外をしばらく眺めると、悲しげな目で私を見つめるんです。
私は、そのお客様にホットミルクを作り、そっとテーブルに置きました。
しばらくして、それを一口飲むと、泣き出してしまいました。
「帰りたくない。」
そういう素振りで、私に抱きついてきたのですが、
とっさに体にふれると、サラサラした感触が手に伝わりました。
ただ泣くばかりなので、どうすることもできず、しばらく側にいることにしたのですが、
泣き疲れたのか、静かな寝息を立て始めたので、泊めることにしました。
私もいつの間にか眠ってしまい、気が付いた時には、そのお客様はいませんでした。』
「その話、なんだか切ないですねえ。それで、泣いてた理由は聞けたんですか?」
『聞けなくて、察する事しかできませんでした。』
「そうでしたかあ。その後、その方はどうなったんですか?」
立て続けに質問をした時、鈴の音と共に、後ろの扉が開いた。
『丁度良いところにきました。今話したお客様です。』
扉の方を振り向くと、私は驚いた。
「えーー?!ね、猫?!」
確かにマスターが話してくれた通り、暖かそうなコートに身を包み、暖炉側の席に座って、
外を眺めてから、こちらを見ている。
「ニャ〜、ニャ〜。」
鳴いている。確かに鳴いている。これじゃあ、察する事しかできない。
私は、想像と違ったことに苦笑いをして、ちょっと肩を落とした。
『今ではもう、すっかり居ついてしまったんです。』
そう嬉しそうに話すマスターとその猫の光景を、私はしばらく見つめていた。
「あんた、今、仕事、何してんだったかね?」
「なんで?」
病院のベッドの上に座って問いかけてきた祖母に、私はつっけんどんに応対した。
「幼稚園の先生だったかね?」
祖母は動じることなく質問を重ねた。
「違うけど」
昔、幼稚園に勤めていた自分の娘、みゆきおばさんと混同しているのだろうと思った。
とうとう、ガンが脳にまで回り始めたか。
本気で、そう思った。胃の中に特大の病巣を育てきって倒れた祖母を、母がかつぎ込んだとき、医者は、どうしてこんなになるまで放っておいたんですか、と母を叱り飛ばしたらしい。
それが、ほんの一週間前。
「じゃあ、何してんのかね?」
三度目。
私は、わざとおどけて、大仰に答えてみせた。
「学者様ですよ。考古学の研究員ですよ」
実際は、ただの道具運びのアルバイト。考古学科を卒業してから、なぜか幼児教育に走り、再び考古学へ。私の中では一本の道がつながっているけれど、この学歴を見て苦笑いをされないことはない。
「はれ、学者様ですか」
祖母は私の冗談に乗ってきた。私も、それに応じて更に重ねた。
「そうですよ、学者先生ですよ」
まるで、普段からとても仲の良い、自慢の孫のような顔をして、私はニコニコと祖母を見た。
「それは、──したね」
「え?」
「──したね」
二度目も、祖母の言葉は聞き取れなかった。
「何したね、って?」
今更ながらに、祖母の肉体が衰弱していることを肌で感じた。声が大きい、うるさい、とさんざん注意しても、まったく悪びれることない田舎育ちの祖母の声は、聞き取れないほど掠れ、弱々しかった。
私は真剣になっていた。
必死で耳を傾ける私に、祖母が、ゆっくりと、言った。
「たっせい、したね」
──達成、と理解するのに、少し時間がかかった。
次の瞬間、私はおどけてみせた。
「……そうですよ! 出世したでしょ?」
「おお、偉い偉い」
私は、祖母の顔をまともに見ることができなかった。面会時間が終わり、また明日、とそっけなく病室を出たときも、祖母と目を合わせられなかった。
病院の廊下を足早に通り抜け、外へ出る。
自転車のペダルを漕ぎ出すと、視界がみるみる滲んだ。
……祖母は、まもなく死ぬ。
確実に、最期となる。
「女の子に学問なんか、いらん」
そう繰り返してきた祖母の、あれは、──遺言だ。
私は、あふれてくる涙を止めようともせずに、ペダルを漕ぎ続けた。
猿飛佐助は、早く温泉に入りたくてしょうがなかったので、他に客が見当たらないのを良いことに、「よいしょ!」と大きな声で叫び、一回ジャンプしてから空中で服を脱ぎ捨てた。肌身離さず持ち歩いている秘伝の巻物を、忘れずに頭の上に乗せると、彼は「お待たせ!」と温泉に声をかけつつ、露天風呂方向へ飛び出した。
と、そこで彼は、悪の忍者集団と目が合った。
湯船の中には、もうこれ以上一人も入れません。というくらいにぎっしりと、悪の忍者集団が詰まっていたのである。
「ふっふっふ」悪の頭領は手ぬぐいで顔を拭きながら不敵に笑った。「驚いたかね。毎度おなじみ、我々悪の忍者集団一同は、完全に気配を消しながら温泉に浸かっていたのだ」
「ちょっと。よしてよ。温泉に入りたいよ」と、猿飛佐助。
「猿飛くん。今日の君は温泉に入れないどころか、見てご覧。大ピンチだ。今、脱衣所の方にも大量の悪の忍者が回り込んでいる。とても逃げられないよ。それに数えきれないこの人数。丸腰の君がどうはしゃいでも全員ぶっ飛ばすのは無理」
「す、すげー。すげーいっぱいいる」
「猿飛くんよ、我々が用があるのは、君が頭に乗せている秘伝の巻物だけだつまり、巻物さえ渡せば状況は一転。我々はドロンし、君はゆっくり温泉に入れるということになってくるね。ここはひとつ、仲良く話し合ってみないか。こっちはいつだって話し合う用意はできてるんだよ」
「ウソつきたくないから一応、事前に言っとくけど、秘伝なんてないよ。幻だよ」
「しかし、君が頭に乗せているその巻物は幻じゃないね。ちょっと見せてみなさい。」
猿飛佐助はそれには答えず、息を吸って吐いてしてから「ヘイ身体能力」とつぶやき、手首の間接をぐるぐる回し、アキレス腱を伸ばし始めた。
「どういうつもりかな、猿飛くん。運動するのかな」
「カミングスーン」と、猿飛佐助。
「ふうーん。あ、そう。できることなら、一般のお客さんの迷惑にならないよう、穏便に済まそうと思っていたが仕方ない。……力づくで行こ!」
次の瞬間、悪の忍者集団一同は、「満員御礼!」と叫びながら、裸一貫で飛び上がった。ミネラルを豊富に含んだ水しぶきと共に、全員総出、一糸まとわぬ動きやすい格好で襲いかかる。
「全員ぶっ倒すのが無理かどうかは、お釈迦さまでもわからねえ」
猿飛佐助は、巻物に記した秘伝を思い出していた。そこにはただ一行、『退屈ってやつさ』と、書いてある。
爆撃されるゲルニカのCG。
爆撃するセザンヌのCG。
モナリザのモデルが確定した、その日に。
「次のプロジェクトもこのような形で進めたいと思います」
(いやあ、やめてえ! 許してえ! 痛い!)
(銃弾はシルクハットの男の股間を容赦無く撃ち抜いていた。悲鳴をあげて膝を突くシルクハットの男)
(血飛沫)
(ここは俺に任せろ。なあにそう簡単に死ぬつもりは無いさ)
(血飛沫)
(おにいちゃん……)
(血飛沫)
「マーケティングに沿って需要を全て詰め込みました。勿論、既にメディア展開も考えてあります。何か意見のある方は?」
トゥエンティ・センチュリー・ガールズ・ストライプスのライブの音が遠くから聴こえる。
「晴れたる青空、漂う雲よ」
がらんどうの青い鳥。
フラー理論。
タイムマシン。
「またこんなの書かされるのか。うんざりだな」
企画書を読み男は呟く。
「ならお前は何が書きたいんだ? 失われた時を求めてか? 百年の孤独か? 田園に死すか?」
「さあな」
「全て需要は詰め込みました。既に外注のアニメ業者に委託の打診をしてあります」
股間を血糊で汚した男がシルクハット、タキシードの格好で舞台に立っていた。色とりどりのボールでジャグリングをしている。
観客からは万雷の拍手。
「何が書きたいんだ?」
「例えば」
ひまわり。燃え上がるひまわりを抱きしめる。燃え上がる少年。
ラプラスの悪魔。
ゴッホはその前に座り絵筆を取る。
「良い天気だね」
(虹)
爆撃機に乗った少女達は虹を目指して飛ぶ。
「痛いなあ脚どけてよ!」
「この腕邪魔よ! 操作出来ない!」
「ねえトイレは?」
「もうこのドレス飽きちゃった!」
虹へ。
爆撃機の中で響き続ける軽快なコンピュータ音楽。少女の一人はハッチを開きパンツを脱いで地上へと放尿をする。The rine in Spine stais minely in the pline。スペイン荒野にただ雨は降り注ぐ。
かたかたかたかた。映写機が回る。少女達の乗る爆撃機がシルクスクリーンに映し出されていた。万雷の拍手。スペイン荒野にただ雨が。
ゴーギャンは荒野を歩き続ける。沢山の裸の女の子を引き連れて、沢山の絵の具を抱えて、アルルへ向かって歩いている。
ゴーギャンはゴッホの右耳を拾う。
「これが六億ポリゴンで再現した、ゴッホの右耳です」
巨大スクリーンに映し出されたゴッホの右耳に人々は立ち上がり、万雷の拍手を送る。