第65期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 ホームルームの時間 かんもり 997
2 思慮深い人 Et.was 842
3 空のボク、大地のボク、海のボク ハコ 782
4 キーボードの上の羽 水曜日 650
5 瀬戸際の主 柊葉一 1000
6 秩序を想う 森 綾乃 997
7 おおきいもの 420
8 早春賦 さいたま わたる 1000
9 時代遅れ?なアタシ ルーン 450
10 仙丹 八海宵一 1000
11 チョコっとした小説 中木寸 240
12 ヨクサル 622
13 ゴーレムを創る makieba 1000
14 擬装☆少女 千字一時物語22 黒田皐月 1000
15 マイソフィスト 壱倉柊 1000
16 僕の天秤 櫻 愛美 875
17 タイム・ワープ fengshuang 962
18 横断者 笹帽子 1000
19 桜の樹の上には 三浦 992
20 猿の証明「2+2=5」 宇加谷 研一郎 1000
21 子犬のワルツ 長月夕子 997
22 せぶんてぃ〜ん qbc 1000
23 餅を焼く わたなべ かおる 734
24 未来の乗りかた わらがや たかひろ 1000
25 幸福を促進できる? 崎村 999
26 泥鰌 川野佑己 1000

#1

ホームルームの時間

 「みなさんは『たま』という言葉で何を思い浮かべるでしょうか?」
子供達は自分の周りの子供達と相談し始めた。一人が答える。
「……ボールとかですか?」
「球ですね、いいですよ、他には?」
違う子供が答える。
「猫のなまえー」
「……うーん、そうですね。いいでしょう。あながちはずれとも言えません」
「鉄砲の弾?」
「いいですよ、どんどん出していきましょう」
にやにやしながら一人が答える、元気よく。
「きんたまー」
「ふざけないでください。……でも、これも悪くないですね」
また一人が答える、おそるおそる。
「た、たましい」
他の子供達が皆、その子供を見た。
「『魂』ですか……」
時間が少し止まる。
「非常に良い答えですよ」
答えた子供は安堵し、すとんと席についた。
『球』、『タマ』、『弾』、『玉』、『魂』と先生は黒板に書いていく。
「えー、これらの言葉は音の響きが同じだけじゃないんですよ」
えー、嘘だー、という声があちこちで上がる。
「じゃあ、これらの共通点はなんでしょうか?」
また、ざわざわとあちこちで相談が始まる。
一人が手を上げる。
「全部、まるっぽい?」
何だよーそれー、という声が上がる。
「良い答えです。他にはいませんか?」
しーんと静まり返ったので、先生は答えた。
「正解は、『中に何かが詰まっている』でした」
先生は黒板に書きながら、話し始める。
「『球』には空気が、『弾』には火薬、『玉』には命が、……『タマ』には『魂』が……」
ぴたりと先生の手が止まる。
「……」
止まったよ、どうしたの、という小声がざわめき始める。
「先生、大丈夫ですか?」
一人が聞いた。振り返った先生は泣いていた。
「……ええ、大丈夫です。心配しないでください」
皆が黙って先生を見ている。先生は涙を拭いた後、ゆっくりと話し始めた。
「実は先生が少しお休みをもらっていたのは、先生のお母さんが……、天国にいったからです。……先生はそれを見届けてきました」
子供達はまだ黙っていた。
「……さっきの『魂』には何が詰まっているか、先生にもわかりません。でもそれは決してなくなるものじゃないと、先生は思ってます。……皆さんも何が詰まっているかを考えてみて下さい」
先生がそう言った後、チャイムが鳴った。

 このホームルームのことを、何十年ぶりに初めて思い出した。先生の魂の中には、僕らがいたクラスのことも詰まっているだろうか? そんなことを思いながら、僕は消えかかった雲を見ていた。


#2

思慮深い人

もしも、そう、もしも明日地球が滅ぶとしたら。君は残された時間にいったい何をしたいですか? そんなベタな問いかけをオレは何度聞いただろうか。
まさかそれが本当になるとなんて思っていなかったから、オレは最後の一日は豪遊して過ごすと言って笑ったものだ。有りっ丈の酒を飲み、旨い物を食い漁り、あるいは街へ繰り出そうか。もしも冬なら絢爛豪華な服を着飾って、札束を燃やした炎で暖をとろう。

 気取って何もしないなんて答えたこともある。普段通りに過ごして死すべき時を待とうだなんて大人っぽくて渋い、かっこいい。いつも通りで十分、余裕のある大人の台詞だ。
家族と過ごしたいなんて言ってみても、平凡だし、一般的な家庭ではありきたりじゃないだろうか。まぁ、家族と最後の晩餐くらいはしておきたいものだが。外食が良いか、それとも家族の手料理だろうか。
いや、そもそも、明日地球が滅ぶとしたらレストランだって臨時休業だろう。それに、豪遊にしたって、オレをもてなすはずの誰かにも家族があるわけだし、最後のひと時を使うことがないであろう金で売り渡すなんて馬鹿な話だ。とすると豪遊は無理だ。

 何をしようにもどうしようもない。今まで何度考えたかはわからないがそのときにはリアリティがあまりに足りなかったから想定にもなっていない。イメージトレーニングすらしていないのにそんな重要な考えをいきなりまとめられる訳がない。
 ああ、どうすればいいんだ? 急に明日地球が滅んでしまうなんてこんな馬鹿なことがあっていいのか? オレは認めないぞ。認めない。なんて言った所で地球が滅ぶんだろ。
どうしたらいい、助けてくれ。

いっそこの際、犯罪でもしてやろうか? どうせ捕まる事はない。もし捕まっても明日までの命に変わりはない。なんて今更何をする? そもそもオレはそんな極悪非道な人物ではない。ああ、最低だ。オレは最低なやつだ。
 さて、どうしよう。あれでもない、これでもない……。



オレの場合、そんなことを考えているうちに地球が滅んでしまうと思います。


#3

空のボク、大地のボク、海のボク

 空のボクは空だから、時には南極で水しぶきを上げて、時には九十九里でさざなみをたて、時にはそこはアドリア海で、ベネチア運河に潮風を送る。空のボクは雨を降らせる。雪も降らせる。風をハリケーンにかえ、時々、ハリケーンは人を困らせる。ボクはいつも青かった。夜は夜で、満天の星。
 大地のボクは17歳で、高校2年で日本にいて、クラスの女の子に恋をして、恋の相手は松本はるなで、新学期にボクのとなりに席が決まった。2学期、秋。今は三学期。もうすぐバレンタインデーで、教室の外は真っ白い雪。チャイムが鳴った。放課後が始まった。
 海のボクは、そこはとても深くて、とても暗くて、限りなく冷たいからもしかしたら夜見る夢に錯覚するくらいならきっと本当の夢の中にいるようで、ボクは時々ナーバスになると、無性にピストルが欲しくなる。夢の世界にピストルなんかありえない。ピストルがあったって誰もいない。
 松本はるなはとても美人で、美人というよりとても可憐で、大地のボクがそう思うなら、クラスの誰もがそう思っている。可憐な女の子は髪が長い。でも、松本はるなは少し違った。ショートヘアで男子みたい。めがねをかけて、なんだか不細工。
 「髪、伸ばせよ」
 「面倒だよ」
 「めがねはずせ」
 「見えなくなるの」
 松本はるなにキスをした。少しはにかんで、涙をこぼした。
 海のボクは家に帰ると、ペットボトルに詰められて、冷蔵庫で優しく眠る。冷蔵庫はひんやりとして、すごく快適で、すぐにウトウト眠くなる。ボクはきっと飲むと美味しい。美味しくて甘酸っぱくて時々きっとほろ苦い。冷蔵庫にはピストルがあった。すこしナーバスになると何だか無性に撃ちたくなるだろ。
 空のボクは、大地のボクと海のボクをいつも優しく見守っている。松本はるなが可憐でいるし、ペットボトルのボクはとてもナーバス。
 空のボク、大地のボクと海のボク。


#4

キーボードの上の羽

 恋人がいる。黒髪ロングヘアで色白でやせっぽちな彼女。ネットサーフィンをしていると後ろから抱き付いてきて、勝手にマウスを動かして僕を怒らせる。彼女はその反応をみてカラカラと笑う。必然的に僕はアダルトサイトなんかめったに見ることができなくなって、でももともとそれほどそのテのサイトは見ないから、僕らはかなりウマクいってたと思う。

 僕には中国人の友人がいて、たまに彼から来るメールを楽しみにしていた。でも、彼のメールを読むときだけは独りで居たくて、いつも彼女のいない隙に、アダルトサイトを見るよりも慎重にこっそりと読んでいた。

 今、運が悪いことに、メーラーを立ち上げっぱなしの状態でネットサーフィン中に彼からメールが来て、予想どおり彼女は興味津々の眼でクリック。僕は慌ててマウスを彼女から取り返したけれど、彼女は僕の手の上に白い手を置き、温かな身体を押し付ける。彼女は彼のメールを、僕の指を誘導させてかちかちスクロールして読み進める。彼女の白い手がだんだんと紅潮し、爪が僕の手に食い込んだ。痛みに驚いてマウスから手を放すと、
「お願い、放さないで」
 と言う。僕は彼女の手を握った。彼女は小さく呻いて、僕の背でだんだんと小さくなっていく。

 今、右手の人差し指と中指の間に、爪楊枝みたいな足が挟まっている。彼女は白い羽をバタバタと動かし、僕から逃げようとしている。部屋とキーボードの上に落ちた羽が悲しくて、窓からそっと彼女を逃がすことにした。


 そう決めたことを、今、中国人の友人宛てのメールに書こうとしている。


#5

瀬戸際の主

限りなく死に近い匂いが、此処にはある。


古臭い木目の扉を開けると、廊下まで漏れていたテレビの音が一層大きくなる。そのテレビの前のベッドに横たわっている人に、自分は月に一度、会いに来ている。
「ばあちゃん」
努めて大きな声で呼びかける。しかし、反応はない。
今度はベッド脇まで行って、手をかざしてこちらへ注意を促す。
「ばあちゃん」
この時、ばあちゃんは体をびくっとさせてから、硬直する。
いきなり視界に割り込んできた人間が、誰だか瞬時に判断できないからだ。そのため自分が「久し振り、元気?」と大きな声で話しかけてやってようやく「ああ、あんたかね……」と安心した表情を見せる。
枕元のリモコンを拾い、テレビの音量を下げる。下げても、自分にはまだ大きいくらいの大きさだ。
「あんたぁ……、いつ来たの?」
寝そべったままばあちゃんが、顔をこちらに向けて聞いてくる。耳元まで顔を寄せてから「さっきだよ」と言ってやった。さっき?と聞き返してくるので、大げさに頷き返してやる。
大学に入学してから、この月に一度の習慣が始まって、もうすぐ一年が経つ。春も夏も秋も超えて、今は冬。しかし、すべての季節を終えようとしているのに、この部屋にだけその兆しは見えない。
いつだったか気付いた。この部屋には「変化」が無い。ばあちゃんは一年間ほとんど同じ寝間着をまとっているし、毎週毎日、同じテレビ番組を観る。部屋を一歩出れば様々な変化は嫌でも感じるが、この部屋に飾ってあるお見舞いの造花のように、ばあちゃんのいるこの部屋は変わらない。ばあちゃんにしても、自分の朽ちてゆく体以外に、何の変化もないだろう。
何ら変わることのない世界。
果たしてそれは現実世界だろうか。ここは本当に世界の一部か?もしやあの扉から異世界につながっているんではないか?
もしもそうだとしたらなんてすごいことだろう。今では自分の子どもたちからさえ、粗野な扱いをされているばあちゃんは、実はこの異世界の主だったのだ。
そんな倒錯めいた考えを巡らしていた時、壁にかかった時計がボーンボーンと帰宅時間を告げた。
「また来るからね」とばあちゃんに声をかけて、自分は立ち上がる。一歩一歩、現実への扉へと近づく。
そうして扉を開けて、普段の世界へ戻った。
廊下を歩いて、突き当たりの階段を降りようとしたとき、なんとなく、その古めかしい扉を振り返る。
あの向こうの世界が、いつまでもそこにあればいいと思った。


#6

秩序を想う

 黒々と交差する電線に、高い早春の空は区切られ、すっかりと歪な多角形である。しかし、その色は正しく青いし、懐かしげな雲も二、三浮かんでいる。彼は、まあまあの気分だった。先程、けたたましく自転車のベルを鳴らして、彼の傍をかすめ抜きさった、醜い中年女のことさえ忘れれば―――少なくとも、お得意のナルシスティックな悲愴は影を潜めている。何せ気候が良かった。すずめなんかも鳴いている。
 そこへ、嗚呼、完璧なフォルムが現れた。小さな、硬いグレイである。確固としてしなやかな、空を行く一台の旅客機だ。彼はのろい歩みを止めはしないが、うっとりとそれを目で追い、その中を夢想する。

 えんじの、広く清潔そうな座席。思い思いにくつろぐ乗客は、きっと、皆身なりと品のいい大人たちである。新聞を読み、大きなスクリーンの、無声の外国映画を眺め、コーヒーを飲む。騒々しい子供などはいない。或る人は少し退屈して、背もたれのマジックテープを、考え深そうに少し剥してまた付ける。或る人は、耳の奥の圧迫に、けだるく欠伸をして、ゴムのイヤフォンを装着する。細い通路を、色々を搭載したワゴンを押して進むのは、美しいキャビンアテンダントである。その華奢な足は、揺れる床面をしっかり踏みしめ、動じない。涼しげなブルーのアイシャドウである。
 ポンと、小気味良く―――時には、気流の乱れに、シートベルト着用のランプが点灯する。皆落ち着き払って、ガシャリと金属音を立てる。悠然と、談笑しながらである。
 『おや、大丈夫だろうかね』

 信号機の発する、馬鹿げた調子の音楽に、彼はふと我に返る。青信号だ。横断歩道の縞々の上には、見なれた喧騒のみである。完璧なる秩序は、もう見えない。
 彼は思う。
―――つまらぬ。もはや、ちっぽけな春の陽気も、あれを想えば、なんともつまらぬ。上空の男と、テレポーテイションで入れ替わったなら、どんなに面白いだろう?突然の逆転にも、慌てはしない。シートベルトを締め直し、おもむろに懐の文庫本でも広げよう。行き先がロスだろうが、パリだろうが、構いやしない。片や、哀れなその男。上等のスーツに、紙コップのコーヒーだけを持って、この混沌に絶望し、立ち尽くすのだ。
『どこかしら、ここは?』
などと、一人間抜けにつぶやくがいい。
 鬱々としながらも、口の端ではにやりと男を笑う。彼は喧騒の縞々の、黒い所だけを、ピョコピョコと渡るのだった。


#7

おおきいもの

「あした、はれるかな。」
「はれてほしいのか?」
「ううん。あめになってほしい。」
「どうして?」
「なんとなく」
「そうか…あめはすきか?」
「きらいじゃないよ。」
「じゃあ、すきでもないのか?」
「わかんない。とくべつすきじゃないのかもね。」
「じゃあなんであめになってほしいんだ?」
「きょうははれたから、あしたはあめのばん。」
「じゃあ、あさっては?」
「あさってはね、う〜ん、ゆき。」
「ゆきか。いいね。ゆき。」
「そうでしょ?」
「ああ。そうだ。」
「ねえパパ、」
「なんだ?」
「なまえ、」
「なまえって、おとうとのか?」
「うん。」
「それで?」
「そらにしよ。」
「どうして?」
「そらはね、いちばんおおきいの。わたしのしってるなかでいちばん。」
「そうか。」
「それでね、そのおおきなそらをわたしがそだてるの。」
「そうか。」
「じゃあおまえはそらよりもおおきくならないとな。」
「うん。」
「がんばれ。」
「うん。」
「じゃあきょうは、もうおやすみ」
「うん。おやすみなさい。パパ。」


#8

早春賦

「おおーいおおーい、おおーい、だーれかーいないのかー、だーれか、へんじを、しておくれー」
 もう何度も叫んでる言葉を、さらにこれでもかと続けるが、俺の声に応えてくれるのは相変わらず誰もいない。すでに陽は大きく傾き、背後に漆黒の闇が近づきつつある。
「だれかぁー、だれでもいい、こたえてくれー」
たしか目覚めたのが昼過ぎだったから、かれこれ半日近くも叫びながらこの街を徘徊している事になる。飲まず食わず、空腹で目が回りそうになりつつも、もし、ここで声を途切らせてしまったならば、俺の存在自体も霧消してしまいそうなそんな不安感に包まれ、叫び続けるのを止められずにいた。
「おおーいおおーい、うおおーい……」
のどが焼け付くように痛む。認識したくない現実が、するり脳のヒダへすべりこんでくる。
俺は。この世にひとりぼっち。
まぶたを閉じれば、みなで朝まで歌い踊り明かしたあの日、そして彼女と愛を語らい幸せを分かち合った日々が、まるで昨日のことのように脳裏に蘇ってくる。すべてが夢だったとでもいうのか、はたまた今のこの状態が夢なのか。俺は両の手のひらで、汗と涙と鼻水でぬめぬめになった顔面を、バチバチ二度三度と叩く。ぢっと手を見て、やがて伝わりくるその痛さと同時に、俺の不安は絶望へと追いやられていく。
「うおおーい……ぉぉぉぉぃぃ……」
 疲労と空腹が極限に達し、ついに俺は声を枯らし道端にうずくまる。一夜にして、世界に俺ひとりだけになることなどあるだろうか、ヘタな映画じゃあるまいし、絶対に何かがおかしい。仲間がいない、ということを除けば、世間は何ら変わってやしない。風に揺れる木々も、俺を威圧してくる山肌も、すべてが記憶の中の風景そのままだ。
 凍てついた冷気の矢が、うずくまる俺の背中に次々と幾本も突き刺さる。このまま誰に会うこともなく、そして別れの、言葉もなく、この生涯を、終える、のか、悪い、こと、なんて、なに、ひとつ、して、や、い、な、……、…



「こら、寒いからはやく窓を閉めなさい」
「ちがうよ、パパ、んとね、さっきまで、カエルさんがひとりケロケロ鳴いていたんだよ」
「まさか、いくらなんでもこの時期に……」
私のつぶやきをかき消すように、キッチンからの妻の声。
「ごはんが、できましたよー。今日は、おでんでーす」
「やっほーっ、おっでんっ、おっでんっー」
私は、開け放たれたベランダの窓をそっと閉め、はしゃぐ娘の後に続いた。


#9

時代遅れ?なアタシ

 アタシは平々凡々な人間だ。まだまだ人生の中間地点までは確実に行ってない。そんなアタシはカラオケにずっとハマっている。

「カラオケ、もう飽きたし、お金がもったいないよー。」
 一年前位の我が妹の発言。要するにアタシはふられたワケだ。これにはかなりビックリした。
しかし、考えてみれば飽きる可能性は100%に近いかもしれない。妹のカラオケデビューは小学五年生。アタシは高校生になってから。何故高校生からかというと、『中学校まではカラオケ禁止』という校則を恐ろしく守っていたから。ああ、青春。
 初めてマイクを持って唄った時の恍惚感。これは言葉にできないほどだ。もうメロメロ。
しかしながらだ、ブルータス。時すでに遅し。カラオケブームは下降傾向。友達の殆どが来るべき時が来て、飲み会ブームに呑み込まれてしまった。オーマイガッ↓

 そんなアタシは一人カラオケに目覚めた。気兼ねなく好きな歌を好きなだけ唄える。これはVERY GOOD!!…いや、かなり、凄く、寂しい時もあるけど、贅沢は言ってられないよな、エブリバディ。


#10

仙丹

 霊佑山緋鷲洞の陋見普君(ろうけんふくん)が亡くなったという報せは、すぐに穿穴山禮水洞、璧銘真人(へきめいしんじん)のもとにも届いた。璧銘真人は天を仰ぎ一礼し、陋見普君の天寿を祝福した。兄弟子であった陋見の死に、璧銘は驚きも、悲しみもしなかった。しかし傍らで湯を沸かし、炉の番をしていた童子は違った。彼は大いに驚き、悲しんだ。
「師父、陋見老師がお亡くなりになられたというのは、本当ですか!?」
 璧銘真人は、騒がしい童子をたしなめながら、頷いた。
「老師の身に何があったというのですか? あれほどお元気でいらっしゃったのに」
 童子が仙道を学ぶため洞門をくぐってからこの方、仙人道士が亡くなるという報せは今までに聞いたことがなかった。仙人は不老不死であり、永劫生き続けるのだと童子は思っていた。璧銘は頭をふった。
「万極書巻(ばんきょくしょかん)が完成したのだ」
「万極書巻とは、なんですか?」
「この世の始まりから終わりまでを書き記した書物のことだ。起こりえた全てのこと、起こりうる全てのことも書かれている」
「その書物と、老師の死がどのように関係するのですか?」
 その問いかけに、璧銘はじれったそうに再び、頭をふる。
「書巻の完成に伴い、師兄は仙丹を呑むのをやめたのだ。大仙といえど、仙丹を呑まなければ、寿命は尽きる」
「なぜ、老師は仙丹を呑まなくなったのですか?」
「万極書巻を書き終えられ、師兄はその役目を終えられた。書巻を書くことは師兄の天数(運命)だったのだ。それを終えたのだから仙丹を呑む必要がない」
「それがなぜ仙丹を呑まず、死ぬことになるのです?」
 幼い童子には理解ができなかった。天数によって役目を終えた者が、どうして役目と同時に生きることをやめるのか。
「我々は、死ぬことを忘れているわけではない」
 璧銘真人は、眉間に深いシワを刻み童子にいった。
「果たすべきことを果たすために生きているのだ。ただ我々の場合、その果たすべきことが人間よりも少しばかり規模が大きい。そのため少し長生きをしているだけだ」
 童子は唸り声をあげながら、炉にかけてあった鍋の湯を湯呑みに移した。熱湯を少し冷ましてから璧銘真人にさしだすと、璧銘は懐の瓢箪から仙丹をとりだし、自身と童子の掌にそれぞれ一粒ずつ置いた。
 金色の丸薬はいつもより重かった。
 童子は璧銘真人の傍らでしばらく仙丹を眺めていたが、やがて、鼻をつまんで呑みこんだ。


#11

チョコっとした小説

「俺はあいつが嫌いだ」ということはよくある。俺もそうだ。和明を見ているとイライラする。「25年前のことだから時効だよ」と友人から宥められても心の中は「許さない!」状態だ。
25年前の2月14日、俺はチョコをもらえるなど思ってもいなかった。しかし放課後、クラスのマドンナ的な子からチョコをもらった。家に戻り、ポケットに入れていたチョコを食べようとポケットを探ると、チョコはどこにもなかった。すぐに「和明だ」と察知した。一緒に帰っているときに盗んだのだろう。それ以来、俺は和明が嫌いだ。


#12

男は今年で60才になり会社でもそこそこの役職に付き
妻と二人の子供に恵まれ平凡ながら幸せな家庭を築いていた。
二人の子供は数年前に親元を離れ地方で各々の生活を送っている。
十数年ぶりとなる妻と二人だけで過ごす生活に初めは戸惑いも
感じていたが次第にその生活にも慣れ満喫している。

バス停まで徒歩10分、電車で50分の片田舎からの
片道およそ1時間の会社への通勤も残すところあと数年という所になり
最近、老後について考えることも少なくない


吐く息も白くなり始めたその日
男は会社のちょっとしたトラブルに会い残業を余儀なくされていた
気が付けばもう時間は終電の電車を残すのみとなっている
夕方から降り出した雨の勢いは衰えを見せていない
そういえばあまりの忙しさのせいで家には連絡を入れていなかった
もう妻は休んでいる頃だろう

終電の電車に揺られ雨の降り続く窓の向こうに光るネオンを見つめながら
男は深いため息を一つついた

疲れ
安堵
充実感
寂しさ
むなしさ
……

吐き出した、ため息をかき消すかのように電車のアナウンスが
到着を告げた。
この時間ではもうバスは無い
男は携帯をスーツの内ポケットからだしタクシーを呼ぼうとした。

「あなた……」

「!」

改札口の影から男を呼ぶ声がする。
「あなた、お疲れ様……」
ただそう言って妻は男に傘を渡した。
男はその傘を閉じ、妻の傘の下で
そっと手を取った
今まで二人で生きた時間の分だけ
私を支え続けてくれた小じわ交じりの細い手を
決して放さぬよう
寄り添い
手をつないだ……


#13

ゴーレムを創る

 埴谷雄高の「虚体」に夏石番矢の「虚血」を注ぎ、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」の原理に基づきディラックの海で培養したゴーレムですが、出来上がったものをよく見てみますとゴーレムのシミュラークルだったものですから、これは失敗だとわかりました。「それにしてもゴーレムのシミュラークルとは異なこと。矛盾自体ではありますまいか」水槽を眺めながらそんなことを訝しがっておりますと、「何を言うだがや阿呆、わいは成功作でおみゃーらのほうが失敗作だがや」とそいつが言うので、僕は、「なるほど、確かにそうかもしれませんね」と納得して同意しましたなどということもなく、その話し方のキャラの作り過ぎなことにすぐさま嫌気がさしたのでした。
 「これはあなたが気に入っている本の中の語句で出来ているんですね」訪ねてきた恋人が僕を眺めながら言いました。僕の創ったゴーレムは「そうだがや、わいインテリ。詩人。好きな本の好きな語句を混ぜ合わせて捏ね上げただがや」と得意げに説明します。僕は慌てて「僕はゴーレムではなくてそいつがゴーレムです」と訂正しましたが、恋人は僕とゴーレムの区別がつかないらしく、しかもゴーレムのほうも僕と同じことを主張しましたので、彼女の混乱は増すばかりで、仕舞いには彼女は僕とゴーレムの二人ともゴーレムと見なすことにして、本物の僕を探しにどこかに行ってしまいました。絶対矛盾的同一視が始まったのだと思いました。そのときが、僕が僕の創ったそいつを殺すことに決めた瞬間です。
 ゴーレムの殺し方はディラックの海にきちんと還元する他ありません。しかしそのゴーレムはシミュラークルであるばかりかドッペルゲンガーでもあったらしく、しかも本体と同化するタイプのドッペルゲンガーでしたので、そのことに気づいたときにはもう僕は同化されていたのでした。ゴーレムの空虚な自意識に浸食されて、僕はすっかりアムニージアックです。
 何もかも忘れ果ててしまう前にどうにかしなければいけないと思って町のクリニックに行きましたが、着いた途端に何もかも忘れ果ててしまいましたので、自分が何をしに来たのか思い出せず、とりあえず健康診断を受けてついでに隣の雑居ビルにあるヘアサロンで髪をピンクに染めてもらって帰ることにしました。家では見知らぬ同居人たちと共に晩ごはんを食べてテレビを見て寝ました。後日クリニックのドクトルから肝炎だと告げられました。


#14

擬装☆少女 千字一時物語22

 二月三日、午後三時。所在無げにしている俺に、一本の電話が飛び込んできた。電話機は佐倉からの電話だと言っている。受話ボタンを押すといきなり、今ちょっと暇か、と興奮気味の声が耳を打った。
「だったらちょうど良い、今から味見に来い」
 生返事をしただけの俺を置いて、電話は一方的に切られた。ちょうど小腹が空いてきた頃だ、やることもないし、ご馳走になってくるかと俺は思ったよりも重くなっていた腰を上げた。
 呼び鈴を鳴らすと、はーい、と言う佐倉の声がした。その返事は主婦みたいだぞ、と誰にともなく口にしようとしたその言葉は、扉が開いた瞬間に咽に引っ掛かかり、俺は目を白黒させた。
「上がって上がって」
 にこやかに招く佐倉のその格好が、俺の想定を大きく越えていたからだ。レース付き丸首のベージュのTシャツに、胸元がV字に大きく開いていてそこから下はゆったりと襞を打っているペーズリー柄のワンピースを重ねて、その上に肩や裾に大きなレースを飾った白いエプロンを付けた佐倉が、俺の目の前にいる。男のはずの佐倉が、その格好で俺に笑いかけている。混乱した俺は、佐倉宅に足を踏み入れるどころではなかった。何故、どうして、俺の頭は佐倉の奇行の原因を探して高速で空転をしていて、足を動かすことさえ忘れていたのだ。
 そう言えば佐倉は、この頃そわそわしている気がする。そう言えば佐倉は、この前女の子に混じってチョコレートの話をしていた。そう言えば佐倉は、昨日ニキビができていて俺に笑われていたのだった。それはこういうことだったのだろうか、疑問が綿飴のように膨らむ。
「早く来いよ」
 しかしそれは、佐倉によって強制的に停止させられた。佐倉宅内に引きずり込まれた俺は、そこである違和感に気がついた。
 甘い香りがしない。代わりに少し鼻に刺激を感じさせる匂いがする。
 台所に通された俺は、唖然とした。流し台の脇の大きなボウルには白いご飯が、テーブルの上にいくつかある小皿にはそれぞれ干瓢や胡瓜や玉子焼きや海苔が、そして大皿には太巻が一本、あった。
「何コレ?」
「決まってるだろ。節分には恵方巻だぞ」
 酢飯の匂いだったのだ。
「で、その格好はどういうことだ?」
「エプロンがこれしかなくて。変だったから、面白そうだし服の方を合わせてみた」
「色気?」
「より食い気だぜ、オレは」
 茶目っ気たっぷりに笑った佐倉の太巻は、匂いが教えてくれたとおり酸味が強すぎた。


#15

マイソフィスト

「なあ」
 声が聞こえた、気がして、振り向くと背の低い試験監督が立っていた。
「ちょっと袖めくって」
 試験監督は表情を変えず私の袖口に触れる。やめろ。インフルエンザ明けの私の頭は余計に白みがかり、ぐらりぐらりと意識が揺れた。
「聞いてる?」
 私の意識は完全に朦朧となり、ふらつき、周りの生徒が近寄ってきて私を担いだ。その時、吉田という男子が私の耳元で「大丈夫大丈夫任せて」と囁いた。

 翌日になっても私の不正行為に罰が下ることはなかった。私は吉田の不審な囁きを思い出した。
「よかったねえ、何ともなくて」
 吉田はそれしか言わなかったが、彼が何かしたのは明らかで、私は申し訳ないような気分になり、お茶を一本買って渡したが彼は受け取らず、受け取ってよと半ば迫ると、じゃあ休んだ分の課題を手伝うと言われお言葉に甘えた。
 国語の論文について、私がだらだらと喋り、彼がそれを文章にした。私の喋りは彼によって骨組まれ筋肉が付けられ、まあ何とも立派になった。は、こりゃやるな。私は唸った。

「これもやってー」
 私は次の日もコーヒー一本もって吉田のもとへ。修学旅行研修レポート。それも彼はつらつらと軽くこなす。私でもないのに。彼は心にもないことを心をこめて書く。虚構で塗り固めたような男だった。丁度世界史でギリシャ文化をやっていたので、浅はかな私は彼をソフィストみてーだと思った。私は吉田の真似をしはじめた。彼も真似されていると知っていた。彼にならえば大抵うまくいく。
 だが当人には敵わない。

 大学に行っても不思議と関係は続き、学生生活もダレてきたある日吉田は言った。「俺やっと本出したさー」「やっと? 小説?」「そうそう」
 私は気づいていた。吉田の思考に影響されている。私はパソコンに向かった。吉田に似ているということはつまり私にも書けるということじゃない? 吉田の論理は大抵こんな組み立てだった。
 三本書いて私は小さな公募賞を貰った。すぐ吉田に報告した。私が小説を書いていることはずっと秘密にしていたから、きっと驚くだろうと思った。
 吉田は一瞬ぽかんと口を開けて、そして吹き出した。
「本出したって、ありゃ嘘嘘。俺に小説なんか書けないよ。それにしてもお前がなー、いやー凄い凄い。恐れいりました。負けました」
 今度は私がぽかんとした。そして事情を飲み込んで、あ、この男には絶対勝てない、そう確信して、ばっしばっし肩を叩き合った。


#16

僕の天秤

 二〇〇八年二月一日、太陽に月が懸かりしもと、僕は――。


 朝の煌々とした日差しを浴びて、群青の広がる空を仰ぐ……僕はこの時間が大好きだ。時の流れを忘れることが出来る唯一の時間。
 僕がこの空の見える河原に通い始めてから七日が経つ。今日は確か、二〇〇八年二月八日のはずだ。
 僕には友達という存在がいない。この河原に沿って続く通学路を行く者達も、僕には目もくれず無表情で過ぎ去るのだ。それ故、僕はただ独りでこの河原に腰を沈めている。
「空気が気持ちいや……」
 小鳥のさえずりに耳を傾け、目を細めながら空の一点を見据える。希望と失望が錯乱した、そんな気持ちだった。
「そこのお前」
 突如、背後から鋭い声がした。僕は特に気に留めることもなく、聞き流しておいた。
「聞いてるのか」
 鋭い声はまだ続く。振り返った僕は、思わず声を漏らした。
「えっ? 僕?」
「そうだよ、お前のことだ」
 初めてだった。此処で僕に喋りかけた人は。
 鋭い声の主は、艶のある黒髪を腰まで垂らした、凛々しい女だった。
「お前、そこで突っ立って何してるんだ?」
「……空を見てるの」
 僕の返答を聞いた彼女は、僕から目を逸らし、歩き始めた。そして、再び鋭い声で言った。
「学校サボるなよ、まだ学生だろう」
 彼女の容姿は、どの角度から見ても大人で、僕より十くらい年上だろう。
「学校行けないんだ……」
「は? どういう意味だ?」
 彼女の歩みは静止した。
 僕は溢れてくる哀しみを抑え込み、少し間をあけて、口を開いた。
「だって僕は……」
 ふと僕と彼女の間を横切る人の姿が、視界に映った。そして、我に返った。
「君、僕が見えるの?」
 理解が出来なかったのか、彼女は首を傾げた。
「お前何が言いたい?」
 彼女は気づいていないようだ。でも、どうして自覚がないのか。いや、それはともかく……。
「君、僕が見えるってことは――」


 今日、僕に友達ができました。


 二〇〇八年二月一日、太陽に雲が懸かりしもと。太陽を探す僕の前方不注意で、僕は交通事故に遭い、死んだ――。
 しかし今は、右に希望、左に失望を乗せた天秤は、右寄りに少し傾いていた。


#17

タイム・ワープ

『タイム・ワープできます』
 町でみかけた不思議な看板。いつも塾の行き帰りに通っている道のはずなのに、ボクは今日初めてそれに気がついた。なんだか、すごく興味がわいてボクは看板をじっとみつめた。でも。でもタイム・ワープなんてできるわけないよな。どんなに科学が進歩しても、タイム・ワープはできないって話聞いたことあるし。
 そのまま塾に行こうとしたけど、気になって気になって、窓の外をウロウロしていると、
「タイム・ワープに興味ある?」
 突然その窓がガラってあいて、女の人がボクに言った。ボクはびっくりして、うわあっと一歩下がってから、女の人に聞いた。
「本当にできるの?」
「もちろん。ただし未来にしか行けないけど。どう? タイム・ワープ経験してみる?」
 誰でも簡単にできるわよ、お金なんかいらないわって言葉に誘われたわけじゃないんだけど……ボクはその店に入っちゃったんだ。店の中はまっくらだった。ちょっと後悔しかけたとき、「ストップ。そこで止まって」と女の人の声がした。
「どれくらい先の未来がみたい?」
「こ、高校生ぐらい」
 兄ちゃんが今、高校生ですごく楽しそうだから、ボクも早く高校生になりたいっていつも思ってたんだ。
「じゃあ、足を軽く一歩前に踏み出して。……そう、それでそのままじっとしてて。すぐにタイム・ワープできるわ」
 その言葉通りかわからないんだけど、ボクは意識がすーっと遠のくのを体験したんだ。

「……ル、トオル。起きろよ」
 聞き覚えのない太い声に、ボクは飛び起きた。とたんにどっと笑い声。え? ボク制服着てる? ここ教室? 高校?
「トオル君、教科書38ページ」
 机の上に置いてある教科書を、ボクは慌てて手にもったけど―読めないよ。ボクまだ小3だぞ!? ボクは「読めません!」と叫んで教室を飛び出した。後ろで呼びとめる声がしたけど、かまうもんか。ボクは夢中でタイム・ワープの店まで走った。店のドアをバタンとあけ、ボクは暗闇に叫んだ。
「もとに戻してよ!!」
「……特別よ。後ろに軽く一歩下がるの」
 ボクはすぐに言われた通りにした。

 看板の前にボクは立っていた。そのことに気付くと、ボクはダッシュで家に帰った。夢だと自分に言い聞かせようとした矢先に「どこ行ってたの?!」と母さんの怒鳴り声。
 ボク、今日は塾行ってないんだけど。   


#18

横断者

 スクランブル交差点では、歩行者信号が青になっている時間が普通より長い気がする。スクランブルだと歩行者にとっては青になるまでに時間がかかるからだろうか。だが、「長い間待たせたので、渡る時間も長くしました」と言われて歩行者の持ち時間が長くなっても、そう嬉しく感じない。
 そんな事を考えながら待っていたので、歩行者信号が青に変わった事に一瞬気づかなかった。僕は駅の出口から銀行側へ、スクランブル交差点を斜めに渡ろうとしている。歩行者の持ち時間が長くても、その分が僕自身の人生の時間に上乗せされるわけではない。僕は時間の浪費を避けようと、冬の暖かな日差しの中を歩き出した。
 アルファルト上に二歩目をついたとき、四方から交差点に流れ込んだ群れの中に一人の男の姿が見えた。あ、と僕は声をあげそうになった。
 そこに横断者がいたのだ。
 男は猫背気味にうつむいて、肩をかくかくさせて不自然に大きく腕を振り、足は膝の関節をあまり曲げずにきびきびと、こっちに向って横断を続けていた。濃い緑のズボンとセーターを着ている。本当に横断者だ。本当にいたんだ。
 歩行者信号をもう一度見ようとしたが、青信号はぼんやりしていてよく見えない。緑色が光っている事は分かるのだが、彼の姿はつかめない。はっとした。あそこから抜け出したんだ。なぜ?

 人の流れに乗ると、逆らうのは難しい。気付くと横断者は僕の前に迫っている。スクランブル交差点の中央。駅前の百貨店のビルが空を裂き、しかし太陽は輝いている。スカイスクレイパ―。よく言ったものだ。意味を持たない他者たちが周りを流れて行く。僕と横断者以外は、ここではエキストラ、虚ろな人々。その濃い霧の中で、僕は進む方向を半ば失っていながら、進み続けるほかない。
 横断者は目の前で立ち止まった。僕はこのまますれ違うかと思った。だが目の前で立ち止まられてしまったら僕も立ち止まるほかない。横断者は眼鏡をかけていた。近くで見ると余計に猫背に見えた。かがんだまま顔を僕の方にむっくりと上げて、少し疲れたにやけ顔で言った。やつれた顔は緑っぽい。
「交代の時間です」

 ここでは僕の先輩で、頭上につったっている停止者が教えてくれた所によれば、この仕事は大体一ヶ月ほどの任期をもって交代しているらしい。交代相手は自然に決まるのだという。まだ君の方が体動かせる分楽だよ、と毎日のように愚痴られる。任期は三週間残っている。


#19

桜の樹の上には

 なにも見えなかった。それで、音がした、それは曾祖父の声で、顔はもう忘れた。幼い私は、夜の闇にいた、電気の通っていない町の、月のでない町の、何も見せてくれない暗がり、音だけが知らせてくれるせかいのひろがり、その矮小さの中にいた。曾祖父が、目の見えない体で近づいてくるのがわかる、のっぺりとした闇の中を、私から垂れた紐を辿るみたいに、まっすぐ来るのを。私の手をしっかりと掴む手、かさかさの手、冷たい肌の奥の温度、草履が土を擦る、その音、熱、感触、そこにせかいが集中した、せかいはひろかったのだ! だが、そこ以外のせかいのような何かのほうが、ずっとどこまでもひろく、せかいって孤独だな、と思ったのを覚えている。


 私が町を出たその日に死んだ曾祖父。あれから二十数年たち、この町に戻ってきた。目がほとんど見えない。医者は、私の症状と治療不能である理由をとくとくと説明する、が、私は理屈を知りたいのではない、体に不具合があれば医者に診てもらう、その慣習に動かされたのだ、その時、実に二十年ぶりに曾祖父のことがよぎった。
 生家の縁側で、庭と呼ぶには殺風景なものを眺めるのが好きになった。庭には太くて立派な桜の樹が一株植わっているだけ、家政婦の話ではもう少し暖かくなれば咲きはじめる、ひとつひとつが滲んで広がるこの眼界に、もうじき桜色が大きく加わる。
 桜は咲いた。私は昼ではなく夜の桜を楽しんだ、桜色ではない青い桜を、私は曾祖父とともに眺める。曾祖父が現れたのは一昨日の夜、定かでないが空から落ちてきて、花をつけた枝をひとつへし折ったのをこの目で見ていた。曾祖父は頻りに言うのだった、おい、動いてるぞ、鳴ってるぞ、虚空の闇をあちこち指して、鳴動だ、大鳴動だ、そう言うのだ。


「となりの家に塀ができたんだな」
「……へえ」
「ん」
「あ、いいえ、その、どうなんでしょう」
「できてるよ」
「塀、あるんですか」
「へえ」
「……」
「鳴動だ! 大鳴動だ!!」
「(聞いてなかったのか、ああ、びっくりした)」


 曾祖父、かんかんのうを踊る。すると、私にも鳴動が知れてきた、闇夜が、せかい以外が、私の肌をじりじり触る、触れようとするとしかし、そこは虚空になる、だからじっとする、そうする、と虚空が消える、闇夜が鳴動をはじめる、ひろい、とてもひろい、とてもひろいものが私に触れる、私もかんかんのうを踊ろう、どうやら目が潰れたから。


#20

猿の証明「2+2=5」

その女性の恋人は猿だった。これはアナロジーでも童話でもない。彼は本物の猿だった。

誰も不思議に思わなかったのか?

思ったに違いない。不思議なことにマスコミが報じなかった(人体実験の失敗を隠すための圧力という黒い噂もあった)ので、いつしか市民も「歩く猿」を気にしなくなった。無害なサルよりたちの悪い人間がたくさんいるのである。

猿を恋人にした女性は古田さんといって、かつては才気煥発なオテンバ娘だった。勉強も議論も芸術も音楽も、面白そうなものには何だって飛びつき、誰彼かまわずやりこめていた彼女は、今は知性を内側に隠す淑女となって、東京の真ん中で毎日遅くまで働いている。

初めて猿が東京に姿を現したとき、彼は古田さんを一目見るや、彼女がかつて咲かせた知性の花の匂いを鼻の裏側でくんくんと嗅いだのだった。お嬢さん、君は前世で俺の先生だったかもしれないよ。

猿に唐突に話しかけられたとき、古田さんも猿が右手に持っているペーパーナイフが美しかったので魅入ってしまった。

「私、人間が好き」
「一匹の猿はサルのような人間と等しいよ」
「証明できる?」

猿は証明を始めた。猿とサル人間が等しいと仮定する。上が人間で下がサルなのを2+2、一匹の猿を5とおくと、2+2=5。

「待って。5? 1多いじゃない」
「ああ。俺は心に冷蔵庫がついてるんだ」

猿は続ける。2+2=5ならば、4=5。両辺から3を引くと1=2(冷蔵庫込)。よってサルのような人間と冷蔵庫を持った猿が等しいのは自明。猿の恋人も人間と変わらないのは明らか。終わり。

猿の証明を聞いていると、それは古田さんが昔所属していた「天才ゼミ」を思い出させた。心を数学で語ろうという不思議な自主ゼミで、型破りの数学教授と彼の弟子たちが集まっていた。その教授は昨年本当に天才になったのかNASAの秘密計画に加わって姿を消した。多くの弟子たちも世界中で活躍していると聞いている。

(私だけ、か)

古田さんはしょんぼりした。マイナス思考を変えるために風を感じてみようとしたが、吹いているのは北風だった。それでも猿の証明はハーディが不確実性について語った逸話じゃないかしら? と思ってそれを口にしようと口を開けると、口の中に固いものが入ってきた。

「チョコレートだよ」

猿はニヤニヤと笑ってしゃがみこみ「肩車だよ。乗りねえ乗りねえ」と言った。古田さんは猿に乗って、2=1となった一匹は東京を歩いていった。


#21

子犬のワルツ

 思ったより雪は積もるようだ。
 人気の無くなった廊下を歩きながら、3階の窓から見える校庭に雪が付されていくのを見ていた。大方の生徒は下校したようだが、数人の男子が歓声を上げて校庭を走っている。
 私は音楽室のドアの前に立つ。掃除当番がいるはずだけれど期待はしない。こんな雪の日はサボるよね、私だって早く帰りたいもの。ふれるだけで凍りそうに冷たいドアへ手をかけた。
 「なんだ、先生か」
 グランドピアノの蓋の向こうから、白い鶏冠頭が顔を出した。髪が白くなるほど脱色し、逆立てているのは戸川君。
 「他の当番は?」
 「誰も来ないよ、俺だってもう帰るし」
 私は聞こえるように溜息をつく。気持ちはわかるがここは怒っていることにする。
 「それで、あなたは何をしているの?掃除もしないで」
 そう問うと、いきなりピアノの音が音楽室に響いた。耳慣れたその曲はショパンの短いワルツ。戸川君の髪が子犬のように揺れる。窓の外を降りしきる、雪の速さに良くあっていた。指輪を幾つもはめた無骨な戸川君の手を思い浮かべる。授業中はいつだって枕の替わりになっているその手が、こんなに繊細な音を奏でる。
 曲が終わると、余韻も残さず彼はさっさと立ち上がる。ピアノは蓋を閉められ、見慣れた置物に姿を変える。
 「戸川君ってピアノ弾けるのね、びっくりした」
 私の横をすり抜けて、音楽室を出ようとする背に声をかける。
 「音大狙ってるの?」
 アクササリーをジャラジャラいわせて、彼は振り向いた。
 「この程度じゃどうかな、専門行って調律師とかなら考えてるけど」
 意外にしっかりとした考えを持っていることに驚く。進路は早く決めたほうが良いに越したことはない。先の見通しは大切だ。漠然と大学へ行って、それで立ちすくむ友人を多く見てきた。私だってそう。なんとなくここに立っている自分。彼が立っている、そこには5年の歳月がある。
 でも、たかだか5年前の話じゃないか。17歳。
 「無責任なようだけど、やれるとこまでやってみてもいいと思うよ、ピアノのことはよくわからないけど、戸川君のピアノはとてもうまいと思うし」
そう言うと、踵を返し、私との間合いをつめてじっとこちらを覗き込むように視線を合わせた。
 「あきらめてるわけじゃないから」
 答える彼の唇は思っていたよりずっと大人びている。
 どさりと、窓から見える杉の木の、枝に積もった重そうな雪が音をたてて落ちた。


#22

せぶんてぃ〜ん

(この作品は削除されました)


#23

餅を焼く

 昔は、炭をおこして餅を焼いたものだ。
 戦直後のことではない。昭和五十年代のことである。我が家の廊下には裸電球がぶら下がっていた。障子があり、襖があり、木製の雨戸があった。極めつけ、トイレは汲み取り式だった。家の前には森が広がり、まるでトトロの世界だ、と言われたのは、中学生の頃である。
 小学生の頃、級友を家に招けば、その森を誰もが「怖い」と言うから、私は非常に不愉快であった。もう来なくて良い、お前ら、今ここで帰れ、と心の中で罵りながら、それでも口では何も言わなかった。ただ二度と呼ばなければ良いだけのことだ。私には友達と呼べるような級友は、なかった。もっとも、今も友達の定義はよくわからない。未だに行事は父母と過ごす。
 そう、炭火で餅を焼いた。正月の雑煮に入れる餅はもちろん、冬にはよく餅を食べた。大抵は磯部巻きにして、母の許しがあれば、砂糖醤油で食べた。母の作る汁粉に入れて食べることも多かった。母の汁粉は奇蹟のように美味しくて、いや、母の料理は何もかもが、あまりにも美味くて、おかげで外食しても満足することは極めて少ない。
 今日は河豚を食べに来た。父の仕事のつながりだが、美味いというので家族で食べに来た。去年も食べに来て、コースとは別に追加で頼んだ穴子の炭火焼きが美味かったので、今年も注文した。
 その穴子に、小さな餅が添えられている。女将は今年も同じ注意をした。
「お餅は、焦げやすいのでね。端のほうに置いてくださいね」
 それを釈迦に説法と言うのだ、と、去年もそう心の中で思ったな、と苦笑する。言いたいことを何でも言う人間だと思われているわりには、言わずにいることも多い。もし本当に何もかもを言ったら人は何と言うのだろうかと思うと、ますます笑いがこみ上げた。


#24

未来の乗りかた

近所のアミューズメントパークで、ちょっと変わったアトラクションを見つけた青年達は
興味と好奇心で、その場に足を踏み入れた。

1人の青年ヒロキの視界に映るのは、いくつか並べられた扉が付いた球体型の物体。
側においてある案内板に近づいて見ると、それには「未来の乗りかた」と書いてあった。

”未来の乗りかた
1.扉を開けて、中のシートに座り、シートベルトをして下さい。
2.画面の中から 好きな『テーマ』を選び、『決定』ボタンを押して下さい。
選んだ『テーマ』が、あなたの未来になります。
3.コンプリートの条件は、あなたが選んだ『テーマ』を叶えられたり、得られることです。
あなたが死んでしまったり、諦めてしまった場合はコンプリートできません。
また、コンプリートを目指す間には、様々な『誘惑』があなたに近づいてきますが
その誘惑に負けてもコンプリートできません。
さあ、未来を体感して下さい!”

それを読んだヒロキは、さっそく側にある球体に駆け寄った。
付いてる扉を開けると、SF映画などに出てくる
戦闘機のコクピットに似たシートが設置されたいた。
「スゲー! カッコイイ!」
ヒロキの声で、中を見た他の青年達が、別々の球体に駆け寄り、歓声をあげるのが聴こえる。
中からは、設置されているスピーカからコンピュータ制御によるアナウンスが流れている。

”ようこそ、未来へ! 画面の中から好きな『テーマ』を選んでください!”
球体の外からは見えにくく、シートに座り画面を見ると、
画面上には浮きがった複数の枠に文字が書いてあった。
「正義」「犯罪」「勉学」「平和」「戦争」…
他にも、あった気がするが、それ以降はヒロキの視界に入らなかった。
衝動的に、興味本位で「戦争」を選んだからだ。

”この『テーマ』でよろしいですか?”
アナウンスの声に、ヒロキは「決定」を押す。
”それでは、あなたの「未来」のスタートです。”
その声が聴こえなくなるのと入れ替わりに画面が黒くなる。
「戦争」をテーマにした、ヒロキの「未来」がスタートした。

やがて視界に現れたのは、臨場感のある家屋やビルの残がいと多くの亡骸。
「… …」
立ち尽くし周りを見つめながら呆然とするヒロキ。
降り注ぐ爆弾が破裂し、激しい衝撃音がヒロキの体を揺らす。

まるで、最初からゲームなんか無かった様に
音も物も現実感がある。
ここが一体どこなのか、他の友達はどうなったのか、
何も分からないまま、ヒロキは立ち尽くしていた。


#25

幸福を促進できる?

 そういえば、酒を飲んでいたのだっけ? 少し息苦しくて、頭の中がくわんくわんと定まらない。私はそれを払拭するかのごとく、体を左右にぶるぶると。ベッドから落ちそうになり、はたと抱き枕にしがみ付く。

 ふと、目を開けると嶋野の顔が目の前にあった。近い。思い切り目が合う。
「目が覚めましたか?」
「……何でこんなところにあんたがいるの? 吃驚した」
 私は目を見開き、彼は眉を顰める。
「先輩が飲み会の後、俺をここまで連れてきて離さなかったんじゃないですか。ひどい酔っ払いだなあ」
 私は抱き枕代わりに彼に抱きついてしまっていたようだ。不覚。
「ごめん。迷惑かけて……」
 すぐに離れようと身構える私。ところが、彼は私から離れようとせず、そうっと抱きしめてきた。
「先輩、ちょっとだけ、こうしていてもいいですか?」
 私は何も言わず、そのまま抱きしめられていた。お酒の匂いが少し、あとは柔軟剤っぽい洗剤の香りがした。
「何か落ち着くなあ。嶋野、お父さんみたい」
「え? 僕、まだ若いんですけど……」
 彼は笑っていた。優しい心地で私はまた眠ってしまいそう。すると、彼はぎゅっと力を込める。
「僕は先輩にもっとドキドキして欲しいんだけれどな。僕のことで喜んだり悲しんだり、感情の起伏をもっと表面に出して欲しいです」
 そう言って、彼は真っ直ぐ私を見つめた。私は彼に何か伝えたかったが、唇を動かすだけで上手く言葉にならなかった。
 彼は柔らかく微笑んだ後、優しく私にキスしてきた。私は素直に受け入れる。
「……嶋野、上手」
「ありがとうございます。僕は先輩が気持ち良いと思うことなら、何でもしますよ」
「……じゃあ、嶋野、もっと」
 私がそう言うと、彼はにっこりと笑って私の頬を撫でる。そして、さっきよりも、もっと気持ち良いキスをしてくれた。そこで、ようやく気付く。多分、私は嶋野のことが……。

 その時、部屋の電話が鳴った。
「ごめん。ちょっと……」
 私はさりげなく彼から離れ、電話のところへ行く。そして、冷たい受話器を手に取る。
 同級生の声だった。
「もしもし、飯島だけど。ごめん、寝てた?」
「ううん、大丈夫よ」
 私は何となく、彼が何の用事で電話してきたのか分かった。本当は思い出したくなかった。そう、明日は……。

「明日は嶋野の四十九日だったよな? お前も行くよな?」
 私はベッドの方を振り返る。そこにはもう彼の姿はなく、ただ抱き枕だけがぽつんと。


#26

泥鰌

 泥にまみれて米と野菜を作り、魚を釣って暮らせたならと思い描いてきたが、本当のところは蒲団に潜って泥のように眠りながら二年余りを無駄に費やし、生産的なことを何一つせずに過ごしてきた。不甲斐ないばかりの自分に出来ることといえば唯一、記録することだけで、僕の文章と生活と写真がすべて記録として残されるためにあったのだと思えば、少しは救われる部分がある。駄目の一言で済まされる出来事が、あとで鑑賞され考察されるためにあると思えば、現在の評価など気に掛けることなく文章や写真として残し続けられる。
 当り前のことをいえば、僕は観賞魚を飼うために暮らすのではなく、その観察記録を文章にしたためるため暮らすのでもない。僕が書きたいのは、より巨視的な、といえば漠然としているが、地面の広がりについて、といえば少しは具体的になるだろうか。ならないな。物事の微細に入って執拗な描写をすることが、単に切り取って拡大したに過ぎず、全体の象徴として利用するには貧弱に終わることは多い。たとえば今、こうして文章を書いているパソコンの傍に置いているドンブリから、一本のウドンをつまみ上げたとしよう。無造作に床へ置いたとき、普通なら緩やかな曲線を描いてウドンは着地する。この曲線を、曲流する河川になぞらえて小説を書くとしようか。ウドンを両端から引っ張って直線にすることが、すなわち河川の直線化工事となる。箸を操ってウドンを千切れば、河口堰や砂防ダムのたぐいに寸断された河川となって魚の往来を妨げる。複数本のウドンを重ねれば支流または分流、ウドンを指で圧し潰せば氾濫、ウドンの端を高く持ち上げれば常願寺川、ウドンで遊び過ぎて汚れてしまえば綾瀬川。面白いかは別として、話を展開させ飛躍させることは容易であり、これを小説と標榜して鑑賞や批評に興じることもまた容易だろうが、所詮、ウドンはウドンに過ぎない。
 米や野菜、またはウドンでもいいが、何か生産的なことをしなければ、僕はこれから何も語ることができない。だから塩水と小麦粉でウドンを作ったはいいが、ここに何らかの形で異種の物事を重ねなければ小説にはならず、しかし記録からは遠ざかる。判っているのは、蒲団の中にいては何をも見出せないことで、僕が観察すべきはウドンでなく河川、田んぼ、泳ぐ泥鰌、揺れる稲穂といったものたちで、これらを記録しなければ蒲団に潜る僕自身と、眠る泥鰌と変わりがない。


編集: 短編