第64期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 rocketttt 藤舟 918
2 お支払いはカードで。 Draw 998
3 憩いのひととき 茹でたうどん 1000
4 真夜中の待ち合わせ 柊葉一 816
5 仰ぐ空と花言葉 櫻 愛美 1000
6 君の瞳 八代 翔 1000
7 拳銃の神様 笹帽子 1000
8 関係性の科学 makieba 1000
9 The Little House 虚構倶楽部 1000
10 二人 fengshuang 797
11 剥がれてしまったので わたなべ かおる 1000
12 数学と生活 宇加谷 研一郎 1000
13 無色 kawa 394
14 木蓮を踏む 森 綾乃 996
15 そして私は月光の道をたどり、この場所へ帰ってきた 三浦 997
16 頃合 qbc 1000
17 沼蝦 川野佑己 1000
18 擬装☆少女 千字一時物語19 黒田皐月 1000
19 マスターよしえ ハンニャ 748

#1

rocketttt

僕の仕事はロケット花火を分解して中の火薬を集めることだった。仲間の水城の仕事は適当な大きさの軸棒にそれを詰めることだった。
「ペンシルロケットってんだよ。」
水城は相変わらず偉そうに言った。
一号機はアルミのキャップに厚紙の尾翼を付けたささやかなV2ロケット。何事も小さい積み重ねから始めないといけないのだ、いきなり手を広げて失敗しちゃったお前の親父みたいになるからな、という水城の意見には賛成だった。今でもばかなオヤジは水城の親父と時々飲みに行って調子に乗っておごったりしてるみたいだが、しかし実のところやっぱり僕の家より水城の家の方が金がないのは変わっていなかったのだった。
感動の初打ち上げになるはずだった初号機は導火線がキャップの口にとどいた瞬間に軽く爆発した。
「成功に犠牲は付き物だろ?」
それよりも俺たちの失敗時の安全対策がうまく働いたということが証明されたじゃあないか。水城はいつもに増して早口だった。
「火薬はまだいっぱいあるか?」
「うん。僕んちもおまえんちも吹き飛ばせるくらいあるよ。」
「二号機作ろうか。材料探してくる。」
ここは家からはだいぶ遠い、昔に放棄された何かの工事現場跡地なので本体を捜しに行くには自転車で20分飛ばしていかなくちゃいけない。でも、誰かが違法投棄したゴミが目隠しになる上に、ここら辺は今イノシシ狩りの時期なので多少爆発音が響いたって誰も不審に思わない、僕らには絶好の場所だった。
もう夕方でところどころで真っ赤になっている紅葉が陰り初めていた。あいつが帰ってくる前に暗くなるかもしれない。僕はロケット花火を剥く手を止めた。ここからは街の明かりは届かない。これからだんだん空が暗くなって、太陽の光が力を失い、星が現れ暗い宇宙の色が見えてくる。大気圏を突破したらそんな感じだろうか。
これまで特に夢はなかったのだが、宇宙に行きたいとは思った。それ以外に特にやりたいことがない。水城が何を考えてるのかはわからない。ロケットの話をしたときだってあいつは軽く乗ってきた。きっと何にも考えていないのだ。僕と同じに。
このまま暗くなったらこのガラクタの中をどうやって帰ろうか。まあ、あいつが明かりを持ってきてくれるだろうけど。


#2

お支払いはカードで。

カードで。
口癖になってしまったみたいだ。
なんて素晴らしいんだろう。
これさえあればどんなものだって買える。
所詮世の中は金。何で今まで気付かなかったんだろう。
「お支払いは?」「カードで。」
なに、後で返せばいいんだ。後でね。
仕事も辞めて遊んで暮らすことにした。

今日も起きると、予約しておいたリムジンが出迎える。
確か、ママは宝石を欲しがってたな。
このリムジンの使用料は勿論、何から何までカードで払う。
どんなものも最高級品でないとね。
それにしても、貧乏人は可哀想で馬鹿だ。
なんでカードを作らないんだろう。
それに引き換え、僕は天才だ。僕は偉いぞ。
リムジンが宝石店に着く。
もう一回行くのは面倒だから、あれもこれも全部買ってあげよう。
初老の店員が何故か頭を下げてきた。恐れ入ったのだろうか。
店員は口を開いた。
「お客様のカードは会社側で引き止められている様なんですが‥‥」
どういうことだろう。でも、僕は他にもカードを沢山持っている。
「全部使えません。お客様、使いすぎではないですか?残高がかなり不足しているようです。」
僕は怒った。
貧乏人が何様のつもりだろう。僕に買えないものがあるだと?
僕は店員に掴み掛かると首を絞めた。暫くすると抵抗も止んで店員は白目を剥いて動かなくなった。
僕は周りの宝石をバックに入れると店外に飛び出す。

気分が悪い。タクシーで家まで帰ろう。
でも、折角だから高級な料亭で食事をしてから帰ることにした。
タクシーは待たせたまま。一番高いものを選んで食べた。
「お支払いは?」店主が言った。
「カードで。」僕は答えた。
「このカード、今は使えないみたいです。」店主の笑顔が怒りの色に変わった。
こいつも同じことを言う。
怒った僕は灰皿を投げつけた。
店主は灰皿が頭に当たると倒れてしまった。

さぁ、帰ろう。
家に着くとタクシーの運転手が訊いてきた。
「お客さん、このカード使えませんよ。現金はありますか。」
そんなものないと言うと運転手は怒った。
「一体、どれだけ待ったと思ってる。ほら、払いな。」
どいつもこいつもなんで、同じ事を言うのだろう。運転手を殴って気絶させた。

家では高いワインを飲む。
一人ではつまらないから女を呼ぼうか。
やけに外が騒がしいと思ったら突然、知らない男が入ってきた。
拳銃を突きつけて「金を出せ。」と言う。なんだ、強盗か。
「金を出せ。死にたいか?」
僕は落ち着いて答える。
「カードで。」
男は引き金を引いた。


#3

憩いのひととき

 日曜日の午後は、家の近くの喫茶店で時間を潰すのが日課だ。仕事の事みたいな面倒な事を忘れて、のんびりとした暖かいひとときを過ごすのだ。
 いつもと変わらない時間に喫茶店に入ると、いつも店に入る時と同じウェイトレスが店内を歩き回っている。
 手近な席に座ると、最寄のウェイトレスが歩いてきた。綺麗に掃除された店内が輝いて見える。
 近くを歩いていたウェイトレスに注文を聞かれて、いつもと同じようにミルクティーを頼んだ。「かしこまりました」と言って歩き去って行くウェイトレスを見ながら、いつもと変わっていない事にささやかな安堵を感じた。
 最近疲れているような気がする。日曜日に家から歩く、ほんの僅かの距離だけでも、足が重くなっていく。きっと連日連夜の残業のせいなのだろう。
 ミルクティーはまだかと店の隅々まで見ていると、向こうから歩いてくるウェイトレスが視界に入った。真新しい制服に身をまとって歩いてくる。ミルクティーを持っていた。
「お待たせいたしました」
 ミルクティーを置き、決まり文句を残すと店員は、恐らく人が足りないのだろう。早足で歩き去っていった。
 早速、暖かなミルクティーに口を付ける。柔らかな香りが鼻をくすぐった。
 湯気の立つミルクティーをテーブルに置いて、ゆっくりと溜息を吐いた。溜息を吐くと、辛い事が飛んでいくようだった。
 ただの気休めだけれど、大事な憩いのひとときだ。
 だが、そんな憩いのひとときにも限界が訪れる。大人として生活している身には、どうしても「時間」という物が存在するのだ。
 どれくらいそうしていただろうか。
 トゥルル……と携帯電話が鳴り響く。聴き慣れた自分の携帯の着信音だった。携帯の画面を開くと一件のメール。
 携帯の機種を変更してから二年半で、ボタン操作にも随分手馴れた。メールの画面を開くと、思わずへこむような内容が書かれていた。正直無視したくなるような、「今から休日出勤」のメール。
 今までに前例のない事だった。会社は中小企業だったが、残業だけで、休日にまでツケが回るような事は今までに無かった。とうとう切り詰めて営業していた所にヤキが回ったのだろうか。
 眺めるだけで楽しんでいた、丁度良い温度のミルクティーを一気に飲み干す。腹が熱くなる感じを味わう時間も無く、とりあえずレジへと向かった。
 ミルクティーには高めの二百円を払って外に出た。来週もまた来ようと、来る度に思う。


#4

真夜中の待ち合わせ

午前2時。タイムオーバだ。
加也は携帯のディスプレイに溜息を落とし、パチンとそれを閉じると、部屋の明かりを名残り惜しく消してベットに潜り込んだ。
もう2週間が経とうとしている。
すっぽりと頭まで布団をかぶった暗がりの中で、加也は指折り数えた。
もう、2週間会ってないんだな。
溜息が自分へ追い討ちをかける。いい加減自分に飽きたのかしらと、自虐的な思いに身を委ね、そんな自分がまた情けなくなった。
もともと誠実な恋じゃないのは理解している。しかしもう、そんなジレンマに苛まれることもなくなった。感覚麻痺とはこのことだろうか。
目をつむる。しつこく溜息を一つ。聞こえてしまえばいい、と思った。
そのとき枕もとの携帯が、待ち焦がれていた特別な着信音を歌いだした。飛び起きてベットに座り込み、携帯をつかみ取る。なんて素早い動作だろうと自分で関心するくらい。
「……もしもし」
聞こえてくる声は、いつも通りの言葉を紡ぐ。
「いや、起きてましたよ、まだ。え、来るの?」
優しい声、暖かい声。今だけは、自分のためだけの声。
「……いいですよ、来ても。……うん。じゃあ10分後に。」
電話が切れる。加也はベットから降りて洗面台へ急いだ。鏡を見つめて、寝グセをチェックする。顔を洗っておいた方がいいかな、メイクは……この時間じゃ不自然か。手櫛で髪を整えて冷えた体を腕で囲む。きっともうすぐ自転車の音が聞こえてくる。
自分の脈が少しだけ早くなっていることが分かった。自分が喜んでいることが分かった。それだけにこの待つ時間が寂しくなる。
きっとまた彼女さんと喧嘩したんだ。
落ち着こうとベットに腰掛けながら、いつもそんな邪推をする。
自転車の音が近づいてきて、階段を昇る足音が大きくなる。
加也はチャイムが鳴ってからゆっくりと立ち上がった。
ドアを開けると彼が寒そうに立っていた。
「こんばんわ」
にっこりと笑顔で言い、部屋へ招き入れる。
ドアが閉まる瞬間、加也はこっそりと、罪悪感を外へ放り投げた。


#5

仰ぐ空と花言葉

 昼下がり。
 まばらに浮かぶ白い雲と澄み渡る青空を仰いでいる。古ぼけた遊具のある公園の椅子に腰を沈め、雲の流れを目で追う。
 時折ヤブツバキの甘い香りが香る。……そんなはずはない。真っ赤な花びらのヤブツバキは、遠慮気味に私の背後で息を凝らしている。
 ヤブツバキが花開く冬の候。私はかじかんだ掌に息を吹きかけ、まだかまだかと貴方が来るのを待っている。
 一途な彼は私の愛しい人。 
『ツバキの公園に来て?』
 理由も聞かされないまま言われたとおり、この公園に来た。
 空から目を離し、ツバキを視界に入れた。葉は青々して、赤い顔も見せている花びらやまだ蕾のものもある。古ぼた公園とは対照に、咲き誇っているように見えるが、何故かツバキは一歩引いているように見える。
 私は何故だろうと顔をしかめた。
 近くには川原がある。川のせせらぎに耳を傾けながらうっとりしていると、私はハッと立ち上がった。

「遅い」

 不機嫌な表情をし、小さい声で呟いた。
 私は徐々に待ち遠しくなってきた。気を紛らすため、地面の砂を蹴ったりまた空を仰いだりり……。
 すると、ふいに冬だと思わせるような冷たい風が走った。肌に障る程の冷たく乾いた追い風。
 私は体をすくめて掌で体をさすった。
 風が去った思うと、今度は人の気配を感じ、公園の入り口へ目をやる。
 視界の先には、息を切らして立っている貴方。セットしたはずの髪も乱れていた。急いできたのかもしれない。
 私は不機嫌な表情を笑顔に改めた。

「ごめん待たせた」

 貴方は片手を顔の前で合わせながら、私の元へ近寄ってきた。心が急激に熱くなる私は、『いいよ』と許す代わりに小さく頷いた。

「なんでここに呼」

 貴方は私をさえぎって何かを出した。
 甘い香りが漂う。純白で偽り無いように顔開き、凛々しい葉を持つ一輪の花。
 小さく咲き誇るその名も知らぬ花と、照れくさそうに微笑む貴方を繰り返して見た。

「この花を渡したかったんだ」

 私の手を掴み花を手渡した。

「何ていう花なの?」

「アングレカム」

 貴方はすぐに返答した。聞いたことも見たことも無い花だったので、少し首をかしげてみせた。
 私はふと思った。この一輪のちっぽけな花に圧倒されている。このツバキとは違って。
 貴方は私の耳元で優しくささやいた。
 私と貴方は見つめ合い、互いに微笑みあって手を繋ぎ、大空を今度は二人で仰いでゆく。


『花言葉が“いつまでも貴方と一緒”なんだよ』


#6

君の瞳

(この作品は削除されました)


#7

拳銃の神様

 男が僕に拳銃を向けていた。
「な、なんですか」
「拳銃の神様だ。いいから入れなさい」と男がマスク越しに言う。
 マスクだけじゃない。サングラスにグレーのハンチング帽、服は背広の上にコートで黒ずくめ、危ない匂いがぷんぷんする。確認もせずにドアを開けたのを後悔しても遅い。
「え、いや、神様? 拳銃?」
 ずしりと重そうな拳銃を前にして、もうほとんど腰を抜かしている僕を半ば押しのけ、男は家の中へ入った。薄汚れた畳にどっかと腰を下ろし、早くもその空間になじんでいる。正直、こんなのになじまれたのが悔しい。
「まあ君も座れ」と自称拳銃の神様は言った。

 男は、とりあえず出してみたオレンジジュースを飲んだ。出しといて言うのもあれだが良い年してなっちゃんをそんなおいしそうに飲むな。
「それで、あなたは、その……」
「拳銃の神様だ」
「拳銃にも神様が?」
「ああ、何にでも神様がいる」
 男は白いハンカチで口を拭き、マスクをつけ直す。花粉症用の“超立体”のようだ。それ、今の季節売ってるんだ。やがて彼は黒っぽい布で拳銃を磨き始めた。

「拳銃の神様って何をしてるんですか?」こう見えて僕は沈黙に弱い。
「拳銃の普及の推進だ」

 神様との一問一答と短い沈黙との繰り返しは、しばらく続いた。結果、神様の趣味とか家族構成とかが分かったけど、僕は次の質問を考えるのに精一杯で、聞いた事は片っ端から忘れていった。元々汚れていたようにも見えなかったのに、拳銃はどんどん鈍い輝きを増していった。えーと、あれはワルサーってやつかな。ドイツ製?

「それで、どうして拳銃の神様が?」
「ああ、この拳銃を、お前に」神様はサングラス越しに上目使いに僕の方を見て、拳銃をかすかに持ち上げる。
 ワルサー(推定)が鈍く光る。全然その気はないのに、誘惑されているような気がする。
「そ、そんなとんでもない。僕いりませんよ、拳銃なんて」

 まずかったかな、とすぐ思って、そっと神様の顔色をうかがった。彼は一瞬悲しそうな目になったが、すぐに神様に戻って「そうか」と言った。

 神様は立ち上がり、帽子をかぶり、ワルサー(推定)もコートの内ポケットにしまった。この格好でそんなとこに拳銃隠してるのは相当まずいと思う。
「突然すまなかった」
「いえいえ、とんでもないです」
 古いアパートのドアを開け、冬の曇り空へと出て行く神様の背中は、なんだか悲しげだった。いや、それでも拳銃は貰えないよなぁ。


#8

関係性の科学

目に見えないが電波は飛んでいるはずだ。
にもかかわらずチャンネルが合わないのはなぜか。
考えられる可能性としては受信機の故障である。
以前から受信機は故障していたようにも思える。
しかし確信はない。
ちゃんと動作している状態の受信機を見たことがないのだ。
あるいは、この部屋は電波の届かないところなのかもしれない。
そういえば壁の層が厚い気がする。
しかしそれも確信はない。
私はこの部屋から出たことがないのだ。

この部屋に入ったとき、ドアには≪関係性の科学≫と書かれたプレートが貼ってあったと記憶している。
だからこの部屋はきっと≪関係性の科学≫の部屋だ。
さてながら私は、≪関係性の科学≫の研究者なのか、それとも被験者なのか。
さあ、わからない……。
いずれにしても当面の問題は、早急にチャンネルを合わせなければいけないということだ。
それまではすべてが茫漠としている。
この部屋は殺風景だ。何もない。

私は受信機から発せられるノイズを聞いている。
ずっと聞いている。
単調で無意味なノイズ――それが関係性を保障する唯一のものだからだ。
受信できるはずのチャンネルに於いて生じているであろう関係性の保障。
同時に、現時点での私の関係性との無関係性の明確な証拠でもある。
渇望が湧く。

考えたくはないが、電波は飛んでいないという可能性もある。
その場合、初めからチャンネルは合うはずがないのだ。
それなら、受信機が故障しているのかどうか、この部屋が電波の届くところなのかどうか、確かめるすべがないということが問題だ。
いや、それ以前に、なぜ私はここにいるのか、ということが問題だ。
あるいはまた、更に考えたくないことだが、既にチャンネルは合っているという可能性もある。
受信機に映る灰色の雑像は合っているチャンネルなのだ。なんと空虚なチャンネルであることか。
もしくは、私のいるこの場所がチャンネルの虚像なのだ。なるほど、確かにワンクリックですべてが消えてしまいそうだ。

ときに私は私を見ている第三者の存在を感じることがある。
あれは誰なのか。
またときに私は、受信機の灰色の雑像の中に朧な風景を見ることがある。そこには一つの人影らしきものが佇んでいる。
あれは誰なのか。
さあ、わからない……。
それともあれも私なのか。
さあ、わからない……。
いずれにしても私はずっとチャンネルを合わせ続けるだろう。もしかするとそれが≪関係性の科学≫なのかもしれない、という気もする。


#9

The Little House

 舞台の上の螺旋階段を、彼女は軽やかに駆けあがり、ベランダの柵をつかんで両足を踏ん張る。そして観客席の三列目の中央にいる僕に、視線を向ける。天井にぶら下がる照明の光を反射して、彼女の大きな漆黒の瞳がふたつ、その暗闇をいっそう際立たせる。
「わたしは木でできた人形。鼻の低いピノキオ。いつか人間になれる、いつか幸せになれると信じている、悲しい人形」
 彼女は言った。叶わぬ恋の台詞を。
 リハーサルは完璧だった。しかし彼女だけはそう思わなかった。スタッフが帰り支度を始めたころに、もう一度、と言ってきた。役者がやる気を見せてくれるのは演出家にとって幸せなことだ。彼女とふたりだけで、やることにした。
 バージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」の翻案は、いささか衒学的だが台本もよく、スタッフの仕事も充実していた。
「そして、あなたはピグマリオン。あなたは、わたしに自分の幻想を映して、ついには溺れ死んでしまうのよ」
 僕は立ち上がり、相手役の台詞を言った.
「真実か、それとも虚言か。そんなことはどうでもいい。私はおまえに、溺れてしまった」

   *

 半年間も誰も住んでいなかった家は静かで、空気すら眠っているようだった。わたしの生まれる、ずっと前に建てられた家は、歩くたびに床板がギシギシと鳴った。
 幼い頃、いつもミルクティーとお手製のパンケーキを振る舞ってくれた、おばあちゃん。わたしを膝にのせ、きれいな声で絵本を読みきかせてくれた。そのときには気がつかなかったけれど、今思えば、たしかにそれは女優の声だった。
 突然、轟音が響き、地面が揺れる。庭の一角をショベルカーが掘り返している。ベランダから庭を見つめる父に、わたしは声をかけた。
「あの大きな樹も切っちゃうのね」
「仕方がない。移動するにも金がいる」
 女優として華やかなときを過ごした祖母も、晩年は質素で、この小さな家だけが残った。そして、それも明日には取り壊されてしまう。マンションを建てることに父は反対だったが、結局、周囲に押し切られてしまった。
「ここにあるもの全部捨てちゃうの?」
「ああ」
「アルバムも?」
「当然だ」
 わたしはアルバムから写真をこっそりと抜き取ってポケットに入れる。若くて美しい祖母のとなりに、父とそっくりの男性が笑っている写真だ。
「おばあちゃん、どうして結婚しなかったの?」
 父はそれには答えず、絵本を一冊だけ持って、外に出ていった。


#10

二人

 ぐぅっと飲み込んだ言葉は消化不良を起こし、それが身体に蔓延していく。
煙草を吸う人より、この身体の蝕みかたは、早いと思う。
 昔はこうじゃなかった。笑顔と共にいた。
 あの頃の笑顔を今は浮かべることができず、過去の、笑顔で映っている写真が別人のようで、私はそれらの写真を焼き捨てた。
 ただ、一枚。たった一枚、それだけは誰も知らない箇所にしまってある。
 私だって笑えたんだという記憶と共に。

 環境によって人の顔はこうも変わるものなのだろうか。歳も重ねた。けれど、変わらずにいる同じ顔を見ると、打ちのめされる。
 笑おうと口の端しを上げても、引き攣ってみえる。自嘲するのは簡単。ふっと浮かべる笑みはすべて自嘲だと言い切ることすらできる。
 それでも。都合の良い希望を持ち続けている。どんなに落ちぶれても、毅然としたものを持ち続けていたい。蝕んでいく中でも、最後の希望のように持ち続けている。


 太陽と月、陰と陽。その私は暗い方。と姉はいつも言う。そんなことはないという言葉はいつしか意味を持たなくなった。これまでは、なにもかも、すべて同じはずだったのに。今は同じ所を探すほうが難しい。
 そう思ったことを、すぐに言わない程度は私も大人になって。姉には気づかれないように遠慮する。そう、これでも遠慮してるんだ。姉に対しては。
 私だって、いつも笑ってばかりで何も考えていないわけじゃない。
 でも、姉の笑い方と私の笑い方は違う。
 いつからだろう。姉と私が変わってきたのは。何もかも一緒で、ほんのちょっとだけ姉のほうが良くできて。そのほんのちょっとが、私が見えない何かが姉には見えていたのかもしれない。
 でも、ね。思うんだ。色々あるよ。みんな、多分色々ね。
笑えなくたって、笑って、思いっきり笑って。そうしたら、それが普通になる。
 姉は姉の人生だけれど、昔みたいに一緒に笑おう。
 そんな日を私は待ってるよ。


#11

剥がれてしまったので

 爪が剥がれてしまったので、医者に行った。
 ちょっとした不注意で、左手の親指の爪を柱に突き立てるようにひっかけてしまった。数ヶ月前に心身の疲れから、あまり食事がとれず、そのときの痕跡がくっきりと爪に現れていた。ガタンと真横に一筋、この部分が作られる頃に栄養不足だったのだよと、責め立てるように爪がくぼんでいる。そこで折れるだろうな、と思っていたら、やはり折れた。気をつけているつもりでも、こういうことは、避けられない。
 まだ伸びきっていなかったので、生爪が5ミリほど剥がれた。爪が剥がれると破傷風になる。それが怖くて医者へ行った。
「どうしましたか」
「爪を柱にひっかけてしまいました」
 私は一応、剥がれた爪を持参した。もげた腕や脚をつなぐように、爪も元通りに戻してもらえたらと思った。
「これは、本当に柱にひっかけたのですか」
「数ヶ月前の体調不良のせいで、ちょっと爪が弱っていたので、そこで折れてしまったようです」
 医者はクルリと後ろを向いて、鞄の中から携帯の箸を取り出すと、私が持参した爪をつまみあげた。
「これは、そんな最近の理由で剥がれたわけじゃないでしょう」
「だから数ヶ月前に栄養不足だったんです」
 医者は箸の先の爪をライトにかざして観察している。それを広げたガーゼの上に置くと、今度は看護婦に、何かを指示した。看護婦は黙って一度消えると、練り歯磨き粉のようなチューブを持ってきた。医者は床をみつめた。
「これは、鱗です」
 医者はそう言いながら、床にかがみ込むと、私の剥がれた鱗を拾い始めた。診療室の床には、鱗が何十枚も落ちていた。看護婦も黙って、菜箸で鱗を拾った。菜箸の方が長いので、看護婦の方が姿勢は楽そうだった。鱗拾いを看護婦にまかせて、医者は持って来させたチューブのふたをひねった。
「この接着剤が良いのですよ」
「接着剤なんか、嫌です」
「大丈夫。これは有機溶剤を使用していますから。あなたの肉体は、有機物でしょう? 弱酸性が肌に優しいというのと一緒です」
「一緒ではありません」
「元通りに戻りますよ」
「魚に戻りたくはありません」
「大丈夫。鱗は下半身だけ貼り戻してあげます」
「人魚になっても、海の泡にはなれません」
「それなら、私が契約を交わしてあげます」
 私は黙った。医者は鱗を一枚、箸でつまみ上げ、チューブの接着剤を絞り出した。
 私は言った。
「…ありがとう」
 医者は言った。
「これが仕事ですから」


#12

数学と生活

伯父は根津駅前の吉野家を指定した。私達はカウンターで早速牛丼を注文する。

「これはどちらかといえば計量社会学かもしれねえが、食ってるもので性格がきまるという統計がある」

「うん」

「この牛丼のウマさには無駄がねえ。肉がぱさついてる、食べられんというのはプチブルの見解であって意外にテタンジェの辛口にあう。それはともかく、飯をかき込む衝動が大事だ」

私達は店を出て、伯父の仕事場である校舎へ向かった。その日はゼミがあるらしく、同年代の賢そうな男女数名を交えて、議論が始まった。

「おい。虚数乗法論の高次元拡張についての谷山豊をふまえてねーな。それに座標に依存しすぎだ」

私は別次元の話に興味はなかったが、急に数学の先生っぽくなった伯父や、先輩のスパイクを受けているバレー部員のような、熱心な態度が教室の雰囲気を熱くしていた。

大学は何となく卒業した。就職先は見つからず、アルバイト暮らしをしている。このままではダメと思う依然に選択肢がない。みつけられない。ふと伯父に電話したら、来いといわれて来たのだった。

ゼミが終わると伯父は私を紹介した――甥っ子だ、珈琲をいれたら世界一。だがなあ、たとえれば今は調和解析における脱出部分の拡散過程のうまくいってない部分だな。

伯父の暗号めいた紹介にゼミ生は笑いを浮かべ「状況的には俺達と同じだな」と一人が呟き、「あらあたしは違うわ」と女子の一人が言って「社会科学の古田です、よろしく」と手をだした。私は皆と握手を交わした。

皆を連れて伯父は渋谷のバーに向かい、2階のソファー席でチップスをつまみながらウイスキーのソーダ割を飲んだ。

「俺のゼミを選ぶ子たちは皆天才を目指してる」伯父は続けて言う。「なあ剛。彼らは皆勉強ではずっと一番だったんだぜ。点数だけじゃなくて頭も誰よりもよかった。でも彼らがなりたい数式の天才になかなかなれないでいる。解ける問題をつくるんじゃなくて、解く価値のある解けない問題を立ち上げて効果的な道筋を残す、そんな天才に俺もなれてない。だがな、俺達は自分が選んだこの世界がきっと俺たち自身を導いてくれることを知っている」

三日滞在して帰宅後も私の生活は変わっていない。私の世界は見つかっていない。いや、食べるものを自分で料理することにしたんだった。さっき明太子パスタをつくったんだ。

私と同じような格好をしていた天才たちもそれぞれに孤独と付き合ってるんだろう、と思った。


#13

無色

 起き抜けに紅色のカーテンを勢い良く開くと、白紙よりも鮮やかな雪景色が広がっていた。この地域では冬でも降雪がめったになくて、今も雪は降っていないのだけれど、確かに玄関先には雲のようなものが地表を覆っていて、僕はすっ転びそうになりながらズボンを履き替え、ボタンをちぎりそうな勢いで上着を替え、毛皮のコートを羽織り階下に行った。両親の姿はない。チャンスだ。僕は扉を蹴飛ばし外に出、家の近くの公園に走ろうとした。その時にうっかり足を滑らせて頭を打った。雲は守ってくれなかった。




 目を開けると、素っ気ない白色で一面が塗られた部屋にいた。ベッドも白いし服装も白い。目の前の女性の顔も白い。
「ほんまに、信じられん子やわあ。あんな所で頭打ちよるなんて」
「気ぃ付けぇよ。そんなことばっかしよるんやったら、おちおち出掛けることも出来へん」
 二人は笑い合っていた。なるほどと僕は思った。頭の中は真っ白だった。


#14

木蓮を踏む

 地下鉄の改札を抜け、長いエスカレーターを3本乗継ぎ、地上へ昇る。すっかり工業製品の心持ちである。振り向けば、自分そっくりの人間がずらり並び、不安げな面でこちらを見返しそうだ。灰の通路の終わりには、うす曇りの春の空が、小さい四角に切り取られている。
 できるだけのろのろと、帝国ホテルに向かう。鈍い陽光、肌寒い。正午の待ち合わせに、ずっと早く着きそうだ。今朝は、緊張して目覚ましの鳴る前に眼が覚めた。整備された広い道には、美しい硝子のオフィス・ビルディングが建ち並ぶ。日差しを集め、かちりと光る。そのうちの一つは、父の勤める保険会社である。彼の昼休みに会い、かねてから約束の届け物をする。道々に、感じのいい白い花を無数につけた街路樹を見る。木蓮だ。枝に付いたひとつを撫でると、きめ細かい花弁が指に吸い付く。

i)父は、その母親(私の祖母)、その二人の姉妹(私の叔母)と断絶した。
ii)父は、その妻(私の母)を嫌い、ついに家を出た。
 
 強引に帰納すれば、彼は『すべての近しい女との絆を切る』性質を持つ。演繹すれば、私ともそろそろ切れる。

 エントランスホール、スーツの男たちに倣い、モスグリーンのソファに、深く腰掛ける。文庫本を広げるが、ムーミン谷の情景は全く頭に入ってこない。ひどく喉が乾く。大きな回転ドアーと腕時計を交互に眺める。結局彼は約束に10分遅れて来た。
 一年ぶりの父は、一年分老いていた。3000円のランチを差し向かいでとりながら、ぽつりぽつりと私の合格した大学の話などする。頼まれていた保険証を手渡す。父は、聞いたことに丁寧に答え、時に冗談も言った。ただ、その性の、鈍い刃物のようなのを、私は度々首筋に感じた。急に動くと、血が滲みそうだ。彼のコーティングは、着実にはがれる。『かくあるべき』自分を少しずつ失うのが、歳を取ることだ。私は愛想よく頷きながら、かつて好きだった人を思った。

 父と別れ、鼻歌まじりに歩く。胸に社員証を下げた、華やかなOL達とすれ違う。お昼ごはんの入ったビニール袋を下げ、ごく健康的に笑っている。晴れて暖かいし、ヒールの低い新品の白い靴はとても歩き良い。小さなリボンのついたその靴は強く、ゆっくりと、踏みつけた。あの楚々とした木から落ちた花を。優しい茶に変色して、諦めたように緩やかな花弁を。
 スプリング・コートのポケットには、別れ際に頂いた二万円が入っている。


#15

そして私は月光の道をたどり、この場所へ帰ってきた

 歩いていた。いいや、歩かされていた。夜か、闇が、あたりを覆っていた。紐を握りしめていた、私を引いてゆく紐、張ったり、緩んだり、右へ向いたり、左へ向いたり、した、先のほうは闇夜にとけていた。
 月が落ちていた、たくさん、ちいさな水たまり、そこに映り込んでいるのだった。見あげたが、なかった、月は。月は、地上のものだった。四角い水鏡が、そこにいる月が、私の足元を、紐が向かう道を照らしている。私の歩幅にちょうどぴったりの水鏡のタイル、そのつらなり、月がたわむ、ゆれる、たゆとう、ぴっち、ぴっち、ちゃっぷ、ちゃっぷ、音が、する。月が、音が、はねる、私は歩いている、歩かされている、が、私の足で歩いている。



 悲しまなかった、僕は、彼女が棺にいれられた時も。死は、呼吸するのとおなじ、生きていることの細部だ、息が苦しいときに呼吸を意識するのとおなじ、近しい存在に死が及んだときにだけ意識されるというだけだ。
 涙を流さなかった、僕は、涙は真情の吐露などではない、生理現象だ、だから安心した、僕は、なにかしらの形をとってしまうことが、形をとることに意味が生まれてしまうことが、そうならなかったことに、安心した。
 彼女は僕だった。僕は彼女だった。わかりあえない、信じあえない、そんな軽口を、僕は軽蔑する。死だけが恋を完成させる法だと、そんな軽口を、僕は憎悪する。
 彼女は死んだ、僕だった彼女は死んだ、だから、彼女だった僕も、死んだ。死は、生の細部だ、呼吸しているから生きているのとおなじ、死んでいるから生きているのだ、僕は、生きているのだ。



 墓場にいた、私は、いつか見た墓所、地表を覆う十字架の楔、それが打たれた水鏡、そこにうつる月、むすうの月が、かぞえきれない十字架が、それを上回る数の生ける屍が――帰ってきたのだ! 私は! 何も得るもののない、この場所へ!
 屍は、徒党を組み、罵り合い、足を引っ張り合い、馴れ合い、励まし合い、囃し、見せびらかし、談笑し、冷笑し、孤立している、その賑やかなことといったら! 闇夜がふるえている! 鳴動だ! 大鳴動だ!
 私はそばの屍に呼ばれた、そこには、妹が、弟が、父が、母が、祖母が、曾祖父が、雁首そろえて待っていた。
 ――今夜は月見!
 唄う曾祖父、水鏡に首っ丈妹と弟、馬鹿笑い母と祖母、父踊る。
 どんちゃん騒ぎ、
 酒も餅も出ない月見、
 闇夜を鳴動させる、
 どんちゃん騒ぎ。


#16

頃合

(この作品は削除されました)


#17

沼蝦

 新月の夜にヤマトヌマエビが全滅し、水槽の底砂にころりと転がっている様が昆虫のようで薄気味が悪いと思ったが、恭しく新聞紙にくるんで手を合わせた。土に埋めてしまおうかとも考えたが、厳冬期ゆえ分解はされないだろうと火曜日に荼毘に付した。要は燃えるごみの日に清掃車へ投げ込んだのだが、それも手を合わせれば赦されるだろうか。私とてヌマエビを死なす意図はなかったのだし、幾度かの脱皮を経て成長したあかつきには唐揚げにして食べてもよかったのだが、手を下すより早く、勝手に死んでしまった。この突然死は、新月の頃に起きやすいという脱皮不全であるらしい。
 正月が明けきらないうちの新月といえば、正に新たな月であるから縁起がよさそうなものだが、本当のところは満月の対に当たる。月明かりのない夜に脱皮する習性をなぜに身に着けたのか、私には解らないが、六十センチ水槽の水底において彼らが潮汐力の変化を察知していることは理解できる。サカナのような浮き袋を持たない彼らが水中に浮揚できず、手脚の動きを止めれば(手と脚の判別もつかないが)水底に降りていく彼らが底物と呼ばれ、これを大気との対比で書き表せば、空中に浮揚する飛行船と、底物として見上げる人間のようだと思う。違いといえば私が足掻いても空をちっとも飛べないことくらいで(これ以上は金子みすゞの領分)、本当のところは潮汐によって私と彼らは無自覚に影響されている。
 新月の夜に犯罪率が高まるという統計が、直接的には私の犯罪に繋がりはしないが、たとえば脱皮も産卵もしない私が昂奮のあまり自殺や他殺を企図したとしても、理解のつかないことではない。あるいは川に飛び込んでサカナの群れに混じったところで手脚の動きとは関わりなく水底に降りていくことになる。いや本当のことをいえば(などと小説で書くのは妙だが)、私は先述の統計を知っている時点において潮汐に無自覚ではないのだから、ヌマエビはヌマエビ、私は私だ。潮汐、月や太陽の運動に左右されて私が何かをすることはなく、関わった犯罪といえばヌマエビを死なせた程度のことで、それも過失致死であって殺したのではない。ただ、死んだあとにまで底砂に横たわって底物の命を全うすることもなかろう、水面に浮上しなければ、それこそ浮かばれないではないか。
 水槽を眺めながら慣れない一人称を使って小説など書いていると、気が滅入って、エビと一緒に気分も沈んだ。


#18

擬装☆少女 千字一時物語19

 一月四日、午前十一時。昨日みんなで少し遅い初詣に行った神社の境内に、僕は一人立っていた。祭がないほどに小さな神社は、三が日を過ぎた今日はもう閑散としていた。木枯らしが音を立てて石畳を吹き抜け、僕は少し身震いをした。
 今日は僕ではない僕の初詣。昨日慌しく下宿先に戻っていった姉の振袖は、重い割には寒い。濃い水色の地に白い小花柄の振袖に白地の帯、草履の鼻緒や腕から下げた巾着袋も振袖と同じ水色という配色が、この空の下では寒々しいかもしれない。
 今年一年、平穏無事でありますように。縁起を担いで五円玉を賽銭箱にそっと入れ、ゆっくりと祈念を捧げた。声高に話をしながらであった昨日とは違い、今日は厳粛な気持ちでの参拝だ。境内から参道の階段に差しかかろうとした時、階段を静々と登ってくる一人の参拝者がいた。こんな時期に、誰だろう。ふと顔を窺った僕は、それが見知った顔であることに驚き、声を上げてしまった。
「みんな昨日初詣に行くって言ってたから、今日は誰にも会えないかなって思ってた」
 僕も同感だった。だから彼女がここにいることに驚いて、声を聞かれてしまったのだ。
「きれいな着物って思ったけど、まさか君だったとはね。びっくりしたよ」
 彼女は僕の声を聞いて驚いたのであった。それまでは僕であることに気がつかなかったと言う。その彼女について僕も三度目の参拝をして、二人並んで階段を降りていった。
 帰り道、着物をどこで入手したのか、普段はいつも女物の服を着ているのかなどの質問が、彼女から矢継ぎ早に投げかけられた。僕はどう答えようかと黙ったまま歩くので、彼女の質問だけが山積していく。そんな時、折悪いのかそれとも良いのか、巾着袋の中の携帯電話が鳴った。
「もしもし」
『今頃あたしの振袖着てるかなと思って電話したんだけど、どう?』
「うん、ちょうど今借りてる。後でクリーニング出しとくから、今日は貸して」
 姉は電話の向こうで笑いながら、後で写真をメールで送るように僕に命じて電話を切った。
「お姉さんのだったんだ」
 電話を耳から離すと同時に、今度は彼女の声が僕の耳に入った。
「だったらさ、私がメイクしてあげる。そしたらもっと写真写り良くなるよ」
 山積した質問は撤去されて、僕は初めて彼女の家へと遊びに行くこととなった。
 四日目から平穏無事ではなくなってしまったが、今年は良い一年になりそうな予感に、僕は早速神様に感謝を捧げた。


#19

マスターよしえ

 おん歳79歳になる書道の人間国宝・よしえ師匠が、一番近い陸まで少なくとも2500kmはあろうかという沖にあらわれた。今日の師匠は『命知らず』と書かれたTシャツ一枚にジーンズという若い格好で、小さい船に乗り込み、へさき近くで”書”をしたためようとしている。こいつはどこにいても書をしたためるのである。
 海は、荒れに荒れていた。よしえ師匠のまわりには15名のボディガードがこれでもかというほど水しぶきを浴びながら円陣を組んでいたが、彼らの任務はよしえ師匠を守ることよりもむしろ、紙を守ることだった。師匠に何の心配もしないで作業を続けてもらうためには、紙を守ることが不可欠である。15人に守られている紙はすごい人件費がかかっているわけだが、どこにでもある普通の紙だし、ふとした拍子にどこかへ飛んでいってしまいそうだ。しかしこのペラッペラの紙、よしえ師匠が何か書いた途端に日本の宝である。
「マスターよしえ。あんたはその辺にあるメモ帳に『山』と殴り書きしただけで商品になるほどの一流。何もわざわざかっこつけて、こんな海のど真ん中で派手に書く必要ないじゃないか」
 とボディガードの一人、ボブが口を開いた。
「もっと私を褒めなさい」
 よしえ師匠は、褒められたところまでしか話を聞いちゃいなかった。集中力がそんじょそこらの物ではない。
「さすが人間国宝はすげえ。ボブの話を後半まるごと無視だぜ……」
 水しぶきが、まるで消防隊が山火事を消す気でいったときの放水のように勢いよく飛んできた。透明なビニール傘などを駆使して、なんとかよしえ師匠と紙を守りきるボディガードたち。
「マスターよしえ、紙は大丈夫かい」
 ボディガードが師匠と紙のようすを見ると、いつのまにか作品は完成していた。
『なるへそなるへそ』
 と書かれていた。


編集: 短編