第63期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 忙しい時の中にある優しい時間 不知火 1000
2 fffface 藤舟 528
3 穴を掘る 虚構倶楽部 997
4 秋好夕霧 233
5 潜入捜査官はだれだ? Et.was 738
6 駆け落ちの振りが都合が良い。 はなこ 601
7 ライオン宰相 壱倉柊 981
8 自由人 bear's Son 1000
9 color fengshuang 890
10 パリの紅茶 宇加谷 研一郎 1000
11 金剛 430 990
12 フアン・パラモ 三浦 863
13 母なる大地と 父なる空 楽土 823
14 擬装☆少女 千字一時物語18 黒田皐月 1000
15 聖家族 qbc 1000
16 終末農園 朝野十字 1000
17 八重のクチナシ わたなべ かおる 1000
18 SOMEBODY かんもり 981
19 ラプチャー るるるぶ☆どっぐちゃん 1000

#1

忙しい時の中にある優しい時間

いつもの道を抜け見知った町を歩き続ける。それは毎朝通勤で通る道。いつもは目まぐるしく回る日々に追い立てられゆっくり歩いた事など無かった。久しぶりの休日になぜこんな事をしているかというと、きっと間がさしたのだろう。本当は彼と久しぶりのデートだったが、急にキャンセルされたのだった。
ポケットを探り、持ち物を確認する。何も持たずに家を出たので携帯電話を忘れていた。この時取りに帰ろうと思ったが取りに帰るのをやめた。連絡があっても仕事への呼び出しだろうから。
通勤に使う道について「家から駅まで大体20分位」と不動産は言っていたが実は30分もかかる道のりである。いつもは時間との勝負なのでゆっくり歩いてなどいられなかった。
今はその道をゆっくり歩いている。暖かな風が通り抜け、ふと後ろを振り返る。ふと笑いがこぼれる嬉しいのではない。
今の自分と毎朝この道を一生懸命走っている私を比べ思わず笑ってしまった。
空を見上げる。最近の曇り空とはうって変わって海のように青い空に雪のような雲が漂っている。久しぶりに感じた青空、ゆったりと流れる時間に私は少しづつ満たされていく。
駅に近づくにつれ道端にはいろいろな店が立ち並んでいる。
こんなにたくさんの店があるのに、私はこの辺の店には入った事がなかったなと思っていると、小さな喫茶店があった。レトロな感じの喫茶店だった。
昼前という中途半端な時間のためか客は私一人だった。
カウンターに座ると「ご注文は?」と聞かれ反射的に「コーヒー」と答えていた。店長はうなずきコーヒーを抽出する作業に取り掛かる。一滴ずつ落ちていくコーヒーを眺めながら店に掛かっている時計を見た。
11時を少し回った位で家を出て40分位である。
ゆっくり歩くと駅まで40分かと考えているうちに注文したコーヒーにカップケーキを出してた。
「あの注文と・・・」と言いかけると「これはサービスですよ。といっても新メニューの試作品なんですがね。もちろん御代は結構ですよ」
「あ、ありがとうございます。」
確かにメニューには載ってなさそうなケーキだった。
コーヒーを飲みながら考える。家を出て40分位だが、かなり
長い時間をすごしたように感じていた。
世界の時間と違い今の私の中の時間はゆっくり進んでいく。
店内から外を見ると、この店の中は時間が止まっているようだった。
「明日は少し早く家をでよう。」ポツリとつぶやく。
そんな日曜日の一時だった。


#2

fffface

「人間の感情ってさ俺らが思ってたようなのとはちょっとちがうんだって。」
ほんとは何それって思ったけど黙ってわたしは続きを聞いた。
「ふつう俺らが考えるとさ、表情と感情の関係って感情が先だって思うじゃんか、楽しいから笑う悲しいから泣くみたいに。でもそれが違うんだって」

「逆なんだ。人間って笑うから楽しい、泣くから悲しいっていう感情が湧くんだって。機械で計ったらさ、表情を出す信号の方が先に出てるからわかるんだってさ。親の知り合いが言ってた…」



「おれ女の子のちょっと淋しそうな顔が好きなんだよね。」
「ふーん、…そうなんだ。」
わたしはちょっと淋しそうに答えた。
「変だろ?」
変じゃねえよ馬鹿「…普通だよ。」
「そうかな?、だって普通は楽しそうな顔とかさ、幸せそうな…笑顔とかが好きなんじゃないかな。」
「嫌いなの?笑顔」
「いや…」
「じゃあ普通じゃない」
「そうかな」

わたしがいつもどんな表情をしているのかは、私自身には見ることができない。友達とおしゃべりしているときや、やっと雲から晴れ間が見えた時、こんな風に突然彼に話しかけられたときとか。
でも後からわたしが今どんな表情をしているかを感情が教えてくれる。わたしはいま本当に嬉しそうな顔をしているに違いない。そしてたぶん…


#3

穴を掘る

 ホームセンターで買った銀色に光る新品のシャベルを地面に突き立てる。雑草の根茎がぶちぶちと切れる音がする。足でけり、地面に食い込ませ、全体重をかけて、土を掘り返す。
 旧道から離れた、川沿いの未舗装道路に車を止め、エンジンをつけたまま、ライトで暗い河原を照らした。土手を下り、穴を掘った。
 真冬のような寒さだというのに、汗びっしょりになる。コートは脱いだが、そのあとにセーターも脱いで、長袖シャツだけになった。それでも、首筋に汗が流れおちた。直径一メートルの穴を手のひらほどの深さを掘って、息があがった。
 運動など、ここ十数年していない。こういうところで、体力の衰えが露呈する。しばらく、立ったままで大きく息をして、休憩をする。けれども、やめるわけにはいかない。夜が明ければ、通勤の車がここを通る。目撃されたら、アウトだ。
 深く掘るのはもう無理だ。周囲の土が崩れて、すぐ埋まってしまう。広く浅く掘ろうと方針を転換したが、今度は生い茂る雑草が邪魔をした。とはいえ、もう時間がない。
 地平線の向こうが、明るくなってきたが、人が横たわるぐらいの広さの穴を掘った。なんとか人が入る深さだ。だが、掘った土を積み上げたところが、目立つ。だめだ。掘り返したことがばれてしまう。
 時間がない。車のトランクを開け、手首をつかむ。まだ固くはなっていない。三歳児は軽く小さい。穴にちゃんと収まる。しかし、女はそうはいかない。
 脇のしたに両手をいれて、抱きかかえる。しかし、重い。穴を掘って体力を消耗したあとでは、なおさらだ。引きずるようにして運ぶが、土手の途中で転んでしまう。転がった女の背中を持ち上げ、やはり引きずる。穴まで到着するのにずいぶん時間がかかった。もはや空は明るくなっている。鳥が鳴き始めた。
 女と子どもをおさめるには、穴は浅かった。横向きにすると、女の肩が地面から出る。仰向けにすると、足が出てしまう。横向きにいれ、足を曲げ、子どもを抱きかかえるようにするのが一番おさまりがよく、そうする。
 掘った土を山にしたところにシャベルを差し入れ、土をかける。
 その瞬間。遠くの旧道を通るトラックの音が聞こえる。もうだめだと思う。土をかけたとしても、隠せない。もっと深く掘るべきだった。しかし、もう掘れない。
 私は、女と子どもの横顔を見て、涙があふれてくる。顔にかかった土を払い、ふたりの冷たい頬にキスをする。


#4

夜半、牢乎として聳える城郭、濠の水面に月の揺蕩う。金色の三日月、竹林の鳴けば其のかんばせを歪め、凪けば其の峭刻たるを明か凛冽の水鏡に覗く。
 其の玄妙たる風情に憑かれし男一人。いかでか月を我が物にせんと欲す。
 掲げたる小太刀、月を宿し目映き白刃、此処を先途と柄を握り、臍下丹田、横一文字に切り裂けば、玉の汗、しとどに額を濡らし、流れ出ずる血潮、脈々と地を朱に染める。
 果然、月は血溜まりに揺らめきたり。返す刀、喉に打っ立って、男、莞爾と笑み軈て徒になりにけり。


#5

潜入捜査官はだれだ?

 潜入捜査と聞いて俺は顔を青くし、首を横に振った。当たり前だろう。マフィア組織の中に潜入して、内部事情を調べてくるなど危険すぎる。せっかく今まで無難に立ち回ってきて、ようやく来週に安全な部局への異動が決まったというのに最後の最後でこんな大仕事をするなんて聞いていない。しかし、上司の命令は絶対だった。俺は潜入捜査をする事を承諾せざるをえなかった。すでに一人潜入捜査をしているから大丈夫だと上司は俺を慰めた。他人事だからって、冗談じゃない。
 俺は必死でマフィアの中でうまく立ち回った。何とか素性がばれずに数月が過ぎた。もう一人の潜入捜査官というのを探してみたが一向に見つからなかった。
数月の間に俺は警察らしからぬ所業をいくつかした。徹底的にマフィアを演じるためだからしょうがない。俺はなんとか組織の中で生き抜いた。ところがある日、俺はついに殺しの仕事をする事になった。この組織では殺しにはボスの許可が必要だった、俺はボスの部屋の戸を叩いた。
「ボス、隣組の北波多のやつが目に余るんで殺しましょうか。」
俺の言葉を聞いて、ボスは額の汗を拭った。
「やや、そんな物騒な。止めておこう殺しなんて。」
意外な言葉に俺は拍子抜けした。
「そんな甘いことを言っていて良いんですか?」
俺に付き添っていた俺の兄貴分の男がボスに言った。ボスは渋々と殺しを許可した。
 その夜、俺は隠れて本部に連絡した。携帯電話を握り締め、電話番号をダイヤルする。
「どうしましょう次に殺しの仕事をする事になってしまって……。」
俺が嘆いていると近くで同じような声が聞こえた。
「どうしましょう次に殺しの指示をする事になってしまって……。やっぱり潜入捜査なんて無理ですよ。」
悩ましげに聞こえてくる声はこのマフィアのボスのものだった。


#6

駆け落ちの振りが都合が良い。

 ―逃亡には成功。駆け落ちの振りが都合が良い。
 真暗な山中の展望台に、他の客は居ないらしかった。殊に今日程に寒さが占める様だと、一層である。
「ねえ、」
貞子は呼んだ。その顔の向く先には夜闇に煌煌とさンざめく灯(アカシ)が大きな凹み(クボミ)の中に点在するのだった。成金の食い溢した金剛石やら水晶硝子(スイショウガラス)やらみたいなそれらの鏤むる(チリバムル)のに、女の類は良く悦ぶ。修平にはどうもそれが不可思議だった。然しだ、貞子はその類とは何様違う心持ちで今時(イマ)は立っていた。
「此れから如何しようか。」
修平を見もせず、貞子は深刻そうに唇を動かしたが、他の感情が含まれて(フフマレテ)有るのに、誰しろ気の付く調子であった。彼女の横顔、夜の外気の中、いつもは見えない浄衣(ジョウエ)の吐息が舞った。通った鼻筋が凛と見え、冬の夜に血色の引いた顔に、修平は少し限、震えを覚えた。
修平が返そうとした丁度だった。轟轟たる鐘聲が静寂(シジマ)を盗って、大人しく居た彼等ごと呑んだ。
「梵鐘、煩悩を諭す…か。」
差し替えに呟いた修平の片言には、落胆に似た抵抗が秘められていた。それも知らぬ儘に、貞子は惟惟じっくりと、夜に落っことされた街街を瞰臨していた。口角は、何かを得たらしく撓んで在った。
 いつからだったのか。眞個の眷戀の互いとは否と信ずる貞子の曲がらない背中が、修平には仄かな愛しみを映し出だしていたのだが…。


#7

ライオン宰相

 「……そういうわけで浜口内閣は海軍が最低条件として掲げた対英米軍艦保有比率七割を満たせず、軍縮の意向もあって、六割九分七厘五毛の保有比率で条約に調印しました。ところがこれが猛批判を浴び、浜口首相は東京駅で狙撃され、それが元で亡くなってしまいます。その後に組閣したのが政友会の犬養毅で……」
 「せんせー、犬養の“かい”の字が違いまーす」
 「ああごめん」
 指でチョークの跡を払う。後ろでは溜息交じりに、修正液を取り出す音。すまん。

 歴史という学問を構成しているのものは一体何か。二年目になって、そんなことを考えるようになった。実を言うとそんな難しいことを考えているわけではなく、ただ私は、仮にも日本史を伝える身として、たとえ「受験歴史」というセオリーに沿って言葉を連ねるとしても、なにか、“私の”セオリーとなりうるなにかを私は探しているのだ。今春、卒業式の最中、私はそれを自らに問いかけ、そして頭痛を催した。驚くことに、私は一年間の授業で自分が何を喋っていたのか、ほとんど覚えていなかったのである。

 休日、東京駅にやってきた。浜口雄幸遭難現場、その碑前に一人立ってみる。七割と六割九分七厘五毛、等しいも同然だ。その違いが原因で殺された彼は、いったい何を思ったか。「男子の本懐である」と言ったそうだが、本当にそう思っていたのか。「なんで殺されにゃならんのだ畜生」とは感じなかったか。いや、そういうことが問題ではない。情けなくも私なら心からそう思う、哭泣するやもしれない。しかし彼は違うことを言った。その違いだ。でもそれはある程度しかたないことで、私は虚勢を張ることも策士になることもせず、小難しいことも画期的なことも考えられない。少しずつ、ノミで削るように日々を連ねる。そういうわけで、私の名前が将来日本史に残るようなことは、まずないだろう。
 まあ、それでもいい。
 合掌。さようなら、浜口雄幸。

 「この間浜口首相の話をしたけど、雄幸って変な名前だと思わないか。これ、本当は“幸雄”って名前になるはずだったらしい。でも父親が酔っ払ったまま役所に届け出たもんだから、幸と雄を逆にしたんだと。ひでえ親だよなあ。試しに自分の名前を逆にしてみ。なんかこう、腰の力が抜けるような気がしないか」
 一同、きょとんとした顔。なにかが違う気もするが、まあ、たまにはこんな話もいいだろう。


#8

自由人

午前中は読書をした。卒論はまとまってきたけど、読みきれていない本に目を通す。
僕は就職するつもりだったけど決められず、今は大学院への進学でまとまってきている。就職が決まったみんなは、それぞれ周りと同じくらいに論文をまとめたようだ。でも僕は提出期限まで直しを続ける。言葉にせずとも決めていた。
そういえばこの前、先生がゼミのみんなに、遅い紅葉狩りに行きませんかと聞いていた。みんなは就職先の用事やバイトで無理だと言っていたけど、どうするんだろう。
昼になり大学へ向かった。
紅葉狩り。多分僕が出さなければ消えてしまう話。
3時に大学に着いた。学生たちが入れ違いに帰っていく。僕は遅刻者だ。
先生は、どうしましたか、卒業論文についてですかと、僕に聞いた。僕は紅葉狩りはどうするのかと思い来ましたと、そのまま言った。先生は、それはいい、では今から行きましょうと、簡単に決めてしまった。
忙しくなかったのだろうか。先生の用事も終わり、明日から連休で授業がないことも即決の一因だった。
車の助手席に座り、最寄りの観光地へ向かった。
赤の中に枯れ木も目立つ。土に近づく朽葉色の道を歩いた。川に朱色の橋が架かり、絵葉書の様子を持っている。
夫婦やカップルが多かったが、男二人、活発に話すでもなく、何も気にせずのんびり歩く。そんなところに僕も、先生の影響を受けたと感じることがある。それは嫌ではなかった。
歩くと思考がとまるようで、透き通っていくようでもある。紅葉の道をのんびり歩くことも、本を読むことも、どちらも等しく、大事に思う僕がいる。それは、就職予定だった僕に、大学の先生という職業を認めさせ、今の大学院に進みそれになろうとする僕を、肯定するようにもなっていた。
大学の先生になるのなら、僕は就職した時よりも、考え続ける人間でありたい。
雪が降り出し帰ることにした。車中、先生はいつもの調子でしゃべり始めた。
「あんな所にスーツで来ていたのは私だけですね。大学の先生というのは、はた目からは何をやっているかよく分からないものですし、実際何もやっていないような人もいます。一応土日は大学も休みだし、6時に帰れることを考えるとたいそうな職業ですよね。だからといって、自分の仕事を怠けるかは個人の問題ですけど、やはり平日にスーツを着たままふと紅葉狩りに来たと言えば、やはり私は、自由人として見られますよね」
先生は、隣の僕に優しく話してくれた。


#9

color

 少し離れた歩道橋から、スクランブル交差点を眺める。
 いっせいに動き出す人。黒・灰色・・・・・・。忙しそうに多くの人が歩いていく。
 私もほんの少し前は、あの中にいた。忙しく、わきめもふらずという言葉がぴったりと合うような、下に見える雑踏そのものだった。ほんの少し前のことなのに遠い気がするそれらは、もう私の持つべきものではなかった。
「何見てんの?」
 いつのまにか、ヒロが横にいた。私の視線の先を捉え、うじゃうじゃいるとつぶやく。
「待ち合わせ場所を歩道橋の上って、普通しないよ」
「でもいいでしょ? 色んな人がいるっていうのを、高みの見物ができる」
 ヒロがとても嬉しそうに言う。
「同じような色ばっかりだよ」
「そうかな? 歩道橋の隅で動かない人とか、おかしなくらいスカート短い高校生とか、派手なシャツの兄ちゃんとか・・・・・・」
 そういわれると、そうかもしれない。ヒロのちょっとしたひとことに、私はまだヒロ側の人間でもないと思い知る。
 完全な宙ぶらりん。振り子かブランコのように、でも振れは少なく行ったり来たり。
「オレみたいになろうと思ってる? ナナさんはナナさんでいいんだよ。ほら十人十色って言葉あるでしょ? 百人なら百色、千人なら千色」
 万とか億とかの色の区別、オレできる自信ないけど・・・と楽しそうに話す。
 ヒロの世界はいつだってカラフルで、鮮やかに見える。
「ナナさん、ほら暗くならない」
 にっこりと見せる笑顔まで鮮やかだ。
 下を見る。
 ちょうど信号が変わり、いっせいに人が動き出す。
「そろそろ行こうか」
 ヒロの方に向き直り、私はそう声をかける。
「ナナさん、珍しく積極的」
 ニコリと笑って、歩き出した。
「そうだ。あの交差点を通って行こうよ。きっと楽しい」
 ヒロがそういうと走り出した。私も小走りで追いかける。
 黒と白の多い中に、奇抜なファッションのヒロと、紫色が多がメインのそこそこ派手な服を着た私がスクランブル交差点を歩く。
 それはほんの短い時間のことだけど、多分、きっとまた違ったものがみれる。
 ヒロと同じものをもう少しみていたい。
 そう考え、私は追いかける速度を少し速めた。


#10

パリの紅茶

毎朝工場へ働きに出る前に一杯の紅茶を飲むのが男の休息だった。9時に仕事が始まり、午前様で寮に戻るとへトヘトですぐに眠る。だから朝だけは6時に起きて、2時間ぼんやりと何もせずに休む。

ある時、男は携帯電話から更新できるというブログをやってみようと思った。冬が近づいて寒くなり、少し寂しかったのである。ブログが何かもよくわかってなかったが、思いつきのまま始めてみることにした。

でも男は特に書き残すようなことがない。一日中作っている部品のことを書く気にはなれない。それで<朝、紅茶を飲む。俺紅茶好きだ>と書いた。書いてみるとスッキリした。それまで漠然としていたが男は自分が朝の時間が楽しみなのに気づいたのだ。

翌朝は5分早起きして紅茶を飲んでぼんやりし、5分ブログを書いた。

<風が冷たい。今日も紅茶がうまい>

男のブログはこの調子で続いていった。毎日同じことの繰り返しのようでいて溜ってみるとブログ内には男の朝の紅茶を飲んだ時間が残っている気がした。時々読み返してみて男は満足した。

ある日、ブログにコメントが寄せられた。それまで自分以外に読まれることを考えてなかったので男は喜んだ。

<私も紅茶好きです。いつもマリアージュで買います>

男はどう返信すればいいか困ったので何も返さなかったが、次の休日にはよそ行きの服に着替えて、久しぶりにデパートへ出かけた。生れて初めて紅茶売場へ行って驚いた。なんと種類が多く、おまけに値が張るんだろうと思った。男は工場の売店にあるリプトンのイエローバッグを飲んでいたが十分に満足していたのだ。

だが例のマリアージュフレールの缶をみつけると、それが美しかった。男にとって3千円は高級であったが夕食のビールを抜くことにして買って帰った。翌朝まで待てず、風呂あがりの晩、缶をあけてみて戸惑った……硬いフタを十円玉であけると茶葉がとびだしたのだ。紅茶はティーバックしか知らなかった。おまけに緊張して闇雲に選んだのだが、EROSというブレンドティーらしかった。

しかし一瞬の戸惑いの後、茶葉から花畑の匂いが立ちのぼってきた。

<マリアージュの紅茶買った。茶葉だったので俺の部屋では飲めない。けどいい匂いだ>

ブログに書いた。缶を冷凍庫にしまい、中から明治の板チョコレートをだして半分に割った。そのチョコレートをかじりながら、いつもの紅茶を飲んだ。窓を開けるとゆるりと風が吹いていて、いい気分になった。


#11

金剛

 彼は天才だった。偉人だった。狂人であったかもしれない。だが誰もが彼を聖人と認めた。
 争いのやまぬ苦痛に満ちた末世に彼の魂は降り立った。家禽は人々の飢えを満たすだけでなく快楽のために殺され、その血肉は富める人々だけの喉を潤し、多くの者たちが彼らの富のために隷従を迫られ、大地に干からびた者たちが溢れた。その耐え難い業に満ちた世界が、肉体である彼を金剛にまで高め上げた。金剛石は奈落の灼熱で鍛え上げられ結晶し、輝きを放つのである。
 人々は彼を敬い、救世主と讃えた。発明された物は彼の理想を誠実に表現してみせ、言葉は神託となり、聖書として記述され、後の世にいたるまでその意思は感銘を保ち続けるだろう。
 彼は世界を巡り、一世紀近く生きて亡くなった。冥福を祈る際、誰もが彼が天国へ行けると信じた。彼でなくて誰が天国へ行くのか。彼こそが神の再来であり、彼の待っている天国へむかえるようにと、人々は生前の善行に励むのだ。
 多くのものが彼の教えに従い、徳を積み重ねていった。やがて彼の存在した世代の人間がすべて生前での役目を終えた。
 果たせるかな、人々はみな天国へとむかうことができた。富める者も貧しきものも生前に罪を犯した者でさえ、万人が楽園の門をくぐることを許された。


 人々は探した。煌く救世主の魂を。

 けれども誰も、かの上人を見つけることができなかった。彼を目指し、彼にまた会うために魂を磨き上げた人々はおおいに落胆することとなった。そして極楽浄土は根本尊を欠いたままとなる。

 鮮烈に世を駆け抜けた巨星の行方を辿る――涅槃の折、彼は願った。一世紀にもわたり人々の営みを垣間見た彼は人類の巨大さをまざまざと知った。巨人は大地を耕し人という種を肥やしていったが、果てしない欲の循環は人を、大地を、海を大気を汚していたのだ。

 累々と積み上げられたる人の罪。すべての者が死後、アビスの世界から招かれるだろう――彼は宥恕を終生願い続けた。

 そして望みは叶えられた。

 九界の最果て、この世でもっとも悪しき、救いがたい魂を持つ者が堕ちるという地獄の中の地獄。人々が免罪される前、かつて地獄へ堕ちた者たちが次々と懲役を終え転生を果たす中で、人の感覚ならば無限ともいえる刑期を宣告されたかつての聖人は、償いとして今も責苦にさらされている。
 金剛の魂魄は産声を上げた業火の中に還っていくこととなったのである。


#12

フアン・パラモ

 歩いていた、私は。歩いていた、路地を。夜と、闇のけむった路地を。
 ゆれていた、月が。触れると、溶けて、消えた。風が立ち、甲高い笛の音を運び、目を戻すと、月が、またそこで、揺れていた。雨のあがった、まもなくのことだった。



 目の前の入口にさがっていた布がめくられ、アムネスがそこだけ浮かびあがっている目を細めて僕の手をとった。「遅かったのね。食事にしましょう」
 食後の酒を一杯飲み干してから、僕はアムネスに言った。
「飛んで帰ってきたんだ」
「いいのよ。こうして会えたんだから」
「それで、どこに」
「わたしは言っていた通り、あの大木に一番近い墓に埋めてもらった」



「ペドロ」と、僕の祖母だと名乗る老婆は言った。
「フアンです」
「うるさい。あんたの父親の名前だよ。もう会ってきたのかい」
「父は僕が生まれる前に死にました」
「酒場で飲んだくれてるよ。会っていきな」
「母さんは」
「あの人は、どこか遠くへいってしまった」



「とっとと出ていくんだ」と、ペドロは言った。
「はい。アムネスの葬式をすませたら働いている街へ帰ります」
「給料はいいのか」
「生きていくのがやっとです」
「これをやろう」
「なんです」
「母さんに返してやってくれ。おれと別れたがっていた」
「居場所がわからないよ」
「なに言ってる。アムネスがお前の母親だろう」



「母さんは」
「さっきふらりと出てったよ」
「どっちに」
「酒場のほう」
「そう」
「指輪、しないのかい」
「その花をもらうよ」
「しおれてるよ」
「いいんだ――あんた、死んでるんだろ」
「みんな死ぬのさ。でも、それで終わりじゃないんだよ」
「さっき気がついたんだ。おれも死んでいたんだな」
「本当は誰が生きていて誰が死んでいるかなんて、誰にもわからないものさ」



 月が欠けている。赤い花は青い花に、笛の音は狼の遠吠えに、散りそそぐこまかな滴が、欠けた月をやがて大地にもたらす。
 陽は昇らない。夜と闇が立ち籠めて私たちを放さない。口にするものは循環しない。断ち切られているから、境界は生まれない。
 気づいてしまったから、この歩みはもう――どこへもいかない。


#13

母なる大地と 父なる空

 昔々、この星に何も無い頃のこと。

 母なる大地と父なる空が出会い、キスをしました。

 二人が結ばれた事に空の彼方の星々たちは祝福し、以前にも勝る輝きを放ち、二人を祝福しました。

 それはもう、大層美しい光景だったと言います。

 大地と空の愛は、何も無い大地に緑を育みました。様々な命がこの星に芽吹き始めたのです。

 ですが、どんなに仲の良い夫婦でも喧嘩はするもの。

 大地と空もご多分に漏れませんでした。

 ある日、些細なことで二人は大喧嘩。二人は仲互いし、互いの姿が見えないように、間に深い深い雲を引いてしまいました。

 その様子を見た星々は大層悲しみました。

 その場を動くことが出来ず、二人を見守ることしか出来ない星々たちには、二人が作る地球という星が、一日一日僅かながらその姿を変えていく星を眺めることが、毎日楽しみで仕方なかったのです。

 ですが、深い雲を引かれてしまっては、二人の様子は愚か、その星の様子を見ることは叶いません。

 星々達は、そろって悲しみの涙を流しました。

 その涙は激しく、雲を破り、地球の大地まで届きました。

 雨は大地を削り川を作り、大小様々な川は合流と別れを繰り返しました。まるで喧嘩をして仲互いをしたり、再び仲直りをするかのように。

 そうして広大な海は出来上がったのです。

 ですが、その雨を身に受けても尚、二人は喧嘩を止めませんでした。

 けれど、いつしか海に様々な生命が生まれ始めました。

 いろんな生命たちは、時には喧嘩し、時には涙し、それでも皆手を取り合って強く生きていました。

 そんな姿を見て、大地は自分を恥ずかしく思い、夫である空に仲直りを申し出ました。

 夫も、大地の様子が気になっていたのでしょう、空はその申し出をさっそく受け取りました。

 二人は仲直りし、再びキスをしました。

 その折、この星に生まれ出でたのが人間だといいます。

 だから、私たち人間は、今も無数の星々に見守れながら、空と大地に愛されながら生きているのです。


#14

擬装☆少女 千字一時物語18

 事故や犯罪を、自分とは関係のないものと思ってはいけない。
 室内干しでは洗濯物が乾かない冬、アパートの軒下に干していた俺の女装用ひと揃えが、夕方にはハンガーを残してなくなっていた。気落ちしてへたりこんでいると、隣室の由香がいつもどおり夕食をねだりに飛び込んできた。目の前まで近づいてようやく力なく首を上げた俺の表情を覗きこんで、やっと由香は俺の異常に気がついた。

「できたよー」
 冷蔵庫に残っていた野菜などを煮込んで珍しく由香がカレーを作ってくれた頃には、三日月はすでに西の彼方に沈んでしまっていた。
「いただきます」
 催促する由香には敵わず、一口いただく。意外と美味いじゃないか。思わず顔を上げると、由香が嬉しそうに目を細めた。力のないものだが、俺にも笑みが浮かんだ。そんな俺に安心したのか、由香もスプーンを手に取った。

「でもさー、何で女のあたしじゃなくて男のあんたのとこから盗ってくんだろー。変じゃね?」
 いつもビールを欠かすことはない由香の差し入れで、二階の慶一も巻き込んで飲み会が始まった。
「お前は服だけ見たら男と変わりないだろうが」
 由香も慶一も俺の女装のことを知っている。このような場はその品評会になることが多く、今回もご多分に漏れなかった。
「じゃー持ってきてやろーじゃん」
 アメカジ系しか着ない由香が用意してくれたのは、プリントTシャツ、チェック柄長袖シャツ、ブルージーンズとボア付きブルゾンだった。女性にしては背の高い由香が着ると格好良いのだが、
「あはははは、子供っぽーい」
「わかっただろ。って言うか、お前笑いすぎ」
 俺が着ても背の低い男の子にしかなれない。面白くない俺は、半分ぐらい残っていた缶を一気に飲み干した。それに喝采した由香が後に続き、しばらくは三人でかなりのペースで飲み続けた。慶一が白旗を揚げた時点で飲み会は終了となり、俺は借りた服を由香に返そうとよろよろと立ち上がった。
 その時だった。相当に酔っていた俺は、ブルゾンのボアをどこかに引っ掛けて破り取ってしまった。その音に由香も慶一も振り返り、酔っていて加減のできなかった三人は、広くもない部屋に近所迷惑な悲鳴をこだまさせた。
「ごめん」
「いーよいーよー。金額分は着たしねー」
 酔いもすっかり醒めてしまった俺とは対照的に、由香は俺の肩を叩きながら大笑いしていた。
 やはり、事故や犯罪は自分とは関係のないものと思ってはいけない。


#15

聖家族

(この作品は削除されました)


#16

終末農園

 よく太った部長は私の履歴書を一瞥して言った。
「フリーターさんだね」
「いいえ派遣です」
「フリーターさんの派遣だね」
「…………」
「そう。君の仕事場は地下だよ」
 部長は私を連れてエレベータに乗り込んだ。大企業の高層ビル内の高速エレベータは足が浮くほどの速度で奈落の底へ落ちていった。地下の野菜工場管理の仕事という話だったが、扉が開くと、そこは農園だった。巨大な地下室は天井が見えないほど高く日光と変わらぬ暖かな光に満ち、畑の中の畦道を野良着姿の人たちが歩いていた。
「遺伝子改良による自律農業すなわち作物自身が管理する最先端工場だ」
 部長が老人を呼び止めた。老人は頬にトウモロコシの粒を付けていた。部長がテレビのリモコンのような装置を向け、リモコンに表示された数字を私に見せた。老人を連れてエレベーターに乗り、さらに地下にもぐった。そこは冷凍倉庫だった。部長は老人を冷凍庫にしまった。
「収穫期のトウモロコシは数字が出る。それを収穫して番号順に冷凍庫にしまうのが君の仕事だ」
「印象を悪くしたくなくて黙っていましたが、ぼくはフリーターではなくて派遣会社から派遣された契約社員です」
「うん、うん。君の住居は工場の中にある」
「前任者のことを聞いていいですか。なぜその人はやめましたか」
「うん、うん」
 トウモロコシの自律収穫を目指し人工進化を突き詰めた結果、彼らは人間に似た形態になった。彼らを収穫するのが目的であるから、彼らの遺伝子から生き延びたいという欲求を抜き去ることはできず、そして生産は続けねばならず、そのような環境の中で結果人間を装って生き延びようとする突然変異トウモロコシが優性品種として残ったのだ。部長は農園の隅の小屋に私を案内して帰っていった。私は小屋に住み農夫然としたトウモロコシを収穫する作業を続けた。会社はトウモロコシの安定供給以外に興味がなかった。トウモロコシ栽培はアウトソーシングされ分社化され株式は多様な金融商品に組み込まれ、この工場がどうなろうと本社には影響ないようだった。
 ある日私は三十過ぎの女を収穫した。彼女は口が利けた。
「私はあなたの前任の派遣社員です。この仕事に疑問を持って自らトウモロコシになったのです」
 そう訴える女を私は冷凍庫に収納した。契約は一年だが真面目に働けばさらに一年延長してもらえるだろう。雨の降らない地下室の暖かな陽射しの下で、私は部長の電話を待っている。


#17

八重のクチナシ

 八重のクチナシは実をつけない。それは八重のヤマブキが実をつけないのと同じく常識的なことだ。理由は知らない。
 うちの庭には八重のクチナシしかない。お隣の広い庭には一重のクチナシがあって、おせち作りの頃に、その実をもらうようになって、今年で3年目だった。
「ひとつあれば、栗きんとんが作れるのにねぇ」
 栗きんとんとは言うが、我が家で作るきんとんは、サツマイモを裏ごししたものだ。栗よりも水分が多いサツマイモは、栗で作るよりもずっとなめらかで、裏ごしさえすれば舌触りも良く、とてもおいしい。その鮮やかな黄色を出すために、天然着色料として、クチナシの実を使う。
 買えば済むのだが、庭にクチナシがありながら実らないというのが、やはり少し残念なのだろう。ペパーミントやレモングラスなどのハーブはもちろん、ときにはプチトマトまで育てて収穫を楽しむ母のことだ。八重のクチナシは、確かに花は美しいが、最近では緑色の大きなイモムシが葉を食い散らかして、その対応に少し閉口しているらしい。
「切っちゃおうかしら」
 そんな心にもないことを、と思うが、もしかしたら本気かもしれない。花が大好きな母だが、枯れ始めた切り花を捨てる潔さは、本当に好きなのかと疑いたくなるほどだ。グロテスクなイモムシを一掃するために、クチナシを株ごと抜いてしまっても不思議はない。そういえば、十年ほど前に、カミキリムシの巣と化したイチジクの木を切り倒す決断を下したのも、父ではなく母だった。
「でも、八重は実らないんだよ。ヤマブキだってそうじゃん?」
 私は必死で、けれどさりげなく、フォローしてみる。
「そうねぇ」
 そんなことを言っても、母は、切ると決めたらきっと切るだろう。
 私はそれ以上、何も言わなかった。

 その年の秋に、奇跡起きた。
 我が家のクチナシが、実を結んだのだ。
 たったひとつ。けれど確かに、八重のクチナシに実がなっていた。最初は半信半疑だったが、日に日にふくらんでくる実を、母はとても喜んだ。
 私は、こんなことがあり得るのかと、理科の先生に訊いてみた。
「お母様の愛情が、クチナシにまで届いたのね」
 夢見る乙女のような理科教師は、本気とも冗談ともつかぬことを言った。
 ──私には、愛情というよりも、執念に思えます。
 喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。

 結局、八重のクチナシは切られることはなかった。
 だがその後、実をつけたことも、ない。


#18

SOMEBODY

 夜中、辺りを見渡しても何もない国道沿いをバイクで走っていると、一軒だけ明かりが着いている建物が目に入った。こじんまりとしたその建物に近づくと看板が見える。どうやらバーか何かのようだ。ちょうど休む場所を探していたのと、ついでに近くに泊まれる場所がないか聞きたかったので立ち寄ることにした。
 その店には「SOMEBODY」と書かれた看板が出ている。どうやら店の名前らしい。中に入ると誰もいなかった。
「すいません」
声をかける。カウンターの奥から男が出てきた。「はい、いらっしゃいませ」どうやらマスターのようだ。まだ若い。料理とコーヒーを注文し、荷物を降ろした。
 運ばれてきた料理を食べながら、マスターにこの辺に泊まれる場所がないか尋ねると、「こんな時間だから、どこも閉まっている」と言われた。しばらく沈黙が続いた後、マスターが質問してきた。
「一人旅ですか?」
「ええ、バイクで。自分探しってやつです、恥ずかしい話ですが」
マスターは笑いもせず、視線を落としたままグラスを磨いている。
「恥ずかしいことないでしょう。実は私も昔一人旅をしたことがありましてね、縁があって今、ここで働いているんですよ」
コーヒーを飲みながら相づちを打って、聞いてみた。
「見つけられたんですか、「自分」は?」
マスター少し笑って首を横に振る。
「私の場合、結局「自分」なんてものははじめからいなかったんですよ。今はここで働くということが自分の存在価値だと思ってます。何かの役割を誰かに与えられてそれに没頭する、誰かがやらきゃいけないこともあるし、いつまでも何者でもないというのは大変です」
 しばらく会話が途切れた。
「……俺たちはみんないつかはスターになるんだ、ってテレビに教えられてきた」
コーヒーを置いてから、ゆっくりとそう言った。
「何ですか、それ?」
「映画のセリフですよ」
そう言うと、マスターは笑った。またしばらく沈黙が続いた後、マスターが言った。
「……良かったら、ここに泊まっていきませんか?」
「いいんですか? でも……」
「大丈夫、明日朝起きたら、私がいなくて、あなたがここで次に誰か来るまで働かなければならない、なんてホラーな話はありませんよ」
「何ですか、それ?」
「テレビの話ですよ」

 店のソファを借りて眠る。少し何かわかった気がした。明日家に帰ろう、少しシミが付いた天井を見ながら、そう思った。


#19

ラプチャー

 壊れたギターを引きずりながら海岸線を歩く。
 時折じゃらん、じゃらん、と調子はずれの音がギターから聞こえる。
 どこまでも続く砂浜を、壊れたギターを引きずりながら歩く。
 ひどく遠くに人影が見えた。
 スキンヘッドで黒い服を着ていて、顔に五線譜のいれずみがしてあった。
「そのギター」
 スキンヘッドが男に話しかける。
「そのギター、良いのか?」
「さあな」
「弾かせてもらっても良いかい」
「ああ、構わないぜ」
 スキンヘッドはギターを受け取りペグを確かめたりした後、じゃらじゃらと弾いた。
「ひでえ音だな」
「そうだな」
「がらくただ」
「そうだな」
「これ、良かったら貰ってやるよ」
「いや、結構だ」
「そうか」
 ギターを受け取り男はまた歩き続ける。ずるずると壊れたギターを引きずりながら。ずるずると何処までも続く海岸線。
 波打ち際にピアノが置いてあった。長い綺麗な黒髪で、白いドレスを着た少年がその前に座っていた。
 悪魔だ。
 悪魔の前に男は立つ。
「いくらだ」
「手なら500、口なら800、バックなら1000」
「高いな」
「まあね」
「持ち合わせが350しか無い」
「そう。じゃあそのギターをくれない?」
「それは無理だ。これはビンテージものの名品で、何十年も前からいろいろなミュージシャンが使ってきたものだ」
「でも壊れてしまっている」
「そうだな。だがそれでもまだこれはギターだ。音だって出る」
「350で良いよ」
「そうか」
 男のペニスを取り出し、悪魔はそれをしゃぶる。
 ピアノの脇には大量のがらくたが置いてあった。スネアドラム。シンバル。シンセサイザー。コンピュータ。スピーカー。TVモニター。ギター。五線譜の男ががちゃがちゃとやりだした。
「ひでえもんだな」
 悪魔の口の中で男は果てる。350を払い、男はペニスを仕舞う。
「ピアノ、弾かないのか」
「ぼくはラプラスだからね。ラプラスの悪魔だから」
 五線譜の男とラプラスの悪魔と三人でコンサートへ行った。観客たちは熱狂的に叫び、踊り、手を振っていた。
 巨大スクリーンには巨大な天使が映し出されている。がらくたに囲まれたピアノの前に座り、そして単純な旋律の曲を繰り返し繰り返し弾いていた。

 海岸線を歩き続ける。葬儀の会場で、五線譜の男と再会した。タバコを一本もらう。
「ひでえ空だ」
 雨が降っている。
 ラプラスの悪魔の葬儀の日。
「ひでえもんだぜあの若さで」
 今日はラプラスの悪魔の葬儀の日だった。


編集: 短編