第70期 #9
「どうしてなの」
そう彼女が問うた。
答えられるはずがない。
答などないのだから。
彼女の勘違いに過ぎない。
しかし、説明するのはひどく面倒だった。
無言が、彼女にさらなる疑問を呈させる。
「それは肯定なの」
ため息をひとつ。
彼女をさらに不安にさせると分かっていて
それでも、ため息をもうひとつ。
彼女は長い黒髪をかき上げる。
形のいい耳が露わになる。
それが気を奪う。
美しい、聡明な人だと思う。
けれど、僕はそれと対照的な人間だ。
彼女のように巧く言葉を操れたなら
彼女のように論理的思考ができたなら
彼女をこんなにも不安にさせることはなかっただろう。
けれど、僕はそんな人間ではない。
彼女を抱きしめたい衝動に駆られる。
それで、彼女の不安がそれで払拭できるなら
それで、この沈黙が終わるなら
そうするのに。
今度は彼女の唇からため息が零れた。
彼女の唇が艶やかに光る。
いつも、それに気を奪われる。
自分が彼女に惹かれていることを、感じる。
けれど、彼女にはそれは伝わらないだろう。
「何故、黙っているの」
哀しげな声が彼女から零れた。
そんな声を出させたくはなかった。
それでも、僕には沈黙しか方法がなくて。
聡明さが、こんな時だけ欲しくなる。
「違うんだよ」
ようやく、その言葉を紡ぎ出した。
それが、限界だった。
「何が、違うの」
「とにかく、違うんだ」
彼女の誤解を解きたくて。
でも、その術を僕は持ち合わせていなくて。
もどかしいまま時間は過ぎていく。
雨が降っていた。
美しい人は僅かに雨に濡れていた。
僕はその湿った髪を見つめていた。
そして、それは終わった。
突然に。
彼女が立ち上がり、玄関へと向かう。
僕はその背中に掛ける言葉を持たず
ただ、無言でその背中を見つめた。
彼女は華奢なミュールにその美しい脚を入れて
そして、意外にも微笑んで振り返った。
彼女は、僕の分までも、ひどく聡明で。
そして、一言、美しい唇で呟いて去っていった。
そうして、日常が戻ってきた。
不思議なことに。
僕は言葉を持たなかったのに。
彼女は、僕の隣に居続けた。
以前と変らぬままに。
聡明な彼女は、僕の一言だけで真実を信じてくれたのだろうか。
あの日、彼女は言ったのだ。
「違うならそれでいいのよ」
そんな言葉で疑惑を許せる女性を、僕は他に知らない。
そして、言葉を操る術も僕は知らない。
どうして、恋愛は、それでも成り立っていくのだろうか。
言葉を操れない僕は、それを問う術を持たない。
それでも、恋愛は通り過ぎていく。