第7期 #2

世界一不幸な男

  世界一不幸な男がいると聞いて、私はその街はずれの住所を訪ねた。
小さな湖をぐるりとまわり、丘をひとつ越えるとそこは森だった。ほどよくひらけた所に煉瓦作りの小屋があり、木漏れ日を受けてとても平和に見えた。少し心配になって戸を叩くと、憂鬱そうな男があらわれ手招きで部屋に案内してくれた。
  世界一不幸な男と酒を飲み交わし、小一時間ほどすると、期待したような話も出ないのでまた不安になってきた。なにを察したのか男は、
「腹が減ったんだろ?」といい、台所に行くと、フライパンに卵をふたつ落とした。その様を眺めていると、男は冷蔵庫からトマト・ケチャップを取り出して容器をフライパンの上の目玉焼きに向けた。すると水っぽい安物のケチャップのようにとろとろと流れ出るので私は驚いて、
「すごい。どうやったんですか?」と訪ねると、男は、
「不幸なんだよ」と答えた。
なるほどそういうことなのか、と納得したようなしないような気持ちで目玉焼きをいただくと、私は礼を言って小屋を後にした。

  家に戻る途中スーパーでトマト・ケチャップを買い、家に帰るとさっそく目玉焼を焼いてみた。それからいそいそとケチャップの容器を軽く皿の上に向けると、ケチャップは水っぽくとろとろと流れ出し、でもそれなりにおいしそうに目玉焼きをあやどった。
  もう一度男と話したあれこれを思いだしてみたけれど、とくに不幸な話はなかった。それでも男がとても不幸に見えて、目玉焼きはおいしそうに見えたので、それ以上は考えずにえいと食べてしまってからというもの、私は幸福とか不幸については考えられない人間になってしまった。


Copyright © 2003 林徳鎬 / 編集: 短編