第69期 #10

お楽しみはこれからだ!

 丸窓や四角い縦長窓、屋根裏部屋の明かり窓の配置が最初、女の目に留まった。壁面のスクラッチタイルも、ねじり柱にもムードがある。仕事帰りに何年も通ってる道なのに気づかなかったなんて……と古いビルを見上げていた女は、エントランスから出て来た翁と目があった。翁は生々しい猿の剥製を抱いていて、女は少しひいてしまった。

「ペパーミント・ソーダ飲まないか」

「え?」

「それとも珈琲……どうだい我がビルヂングから夕暮れを一緒にブレイクしないかい」

「え?」

 女は翁からナンパされていたのだったが、剥製の猿に魔法をかけられたかのように、ついていってしまった。そして驚いた。翁の部屋に入ると、彼は自分の顔を両手で掴み出して、瞬く間に青年に変身したからである。

「実は、変装してたんだ、ごめんよ……でも……目から鼻に抜けるような色男じゃなくてもっとごめんよ」

「あ、うん」

 男は太い眉が繋がっていて、お世辞にも二枚目から遠く離れていた。我にかえった女は急に現実に引き戻された気がして、どうしてここにいるんだろうと思っていると、台所から男が盆を持って戻ってきた。珈琲だった。

「窓際に椅子があるんだ、一緒に飲もうよ」

「うん」

 珈琲を飲んでみると紅茶のように飲みやすかった。女はほっと一息ついて、さっきまで翁だった三枚目顔の男に少し親しみをおぼえた。

「眉……カットしてあげる」

 失礼かな、と思ったものの女は口に出していた。男は苦笑いして「たのむよ」と言った。そういえば夫の眉さえやったことがない、と女は思った。しばらくすると男の印象はさっきより爽やかになったので、女は自分のことのように満足した。

「僕は昔、足つぼマッサージ師だったんだ。足を触ると話さなくてもその人を感じる。眉のお礼に足を揉ませてくれないか」

 返事のかわりに女は長靴下を脱いで、椅子に突き出した。シェフがトリュフを見極めるような仕草で自分の足裏を触っているのが女には恥ずかしいような可笑しいような気がしたけれども私も眉を触ったんだから、と思うと平気だった。

「君のくるぶしは美しい。いいくるぶしをしている」

 男が芝居気たっぷりに言うので、女は思わず「チャタレイ夫人!」とはしゃいだ。すかさず男は「そう、君は実にいい尻をしている……歴史上のちょっといいセリフだね、吉田健一も褒めてた」

 女はここで男が文学好きなのがわかって弾んできたが、もう帰らなければいけない時間だった。




Copyright © 2008 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編