第67期 #20

飴玉と珈琲

硬いと客。硬すぎるぞ、この牛舌、お前食ってみろ、え、食ってみろ、と荒げるので、恋人たちのささやきも消え酒場は静まった。

バーテンダーは、では、と客が一度噛んだ牛舌を口にいれた。申し訳ございません、仰るとおりでした、と彼は頭をさげた。客は「気に入った、ボトルいれるわ」と満足した。ありがとうございます、と微笑んだバーテンダーは以後彼の喉に牛舌を飼う。

場末時代を経て銀座で働く今も、喉の奥で黒い舌に血を吸われている気分になる。客に悟られないよう唇を噛んでグラスをふいた。

その日カウンターで女がシェリーを飲んでいた。いい女だ。凛とした英国風トレンチコートを羽織ったままだった。新調したばかりで嬉しいのかもしれない。よく似合っていた。額が広く、目に力がある。バーテンダーは内なる牛舌を忘れ、女が次に飲むにふさわしい酒を考えるのが楽しかった。

女はシェリーのイエローを眺めていた。そうしていると子供に返るのだった。思い出すソーダ水へのときめきが、色濃い日々を薄めてくれる。

ビー玉を持った友達が、女王様とよんだら緑と黄と赤をあげようと言ったことがあった。

「女王様」

即座に三色ビー玉を手にしたのは親友だった。彼女は「大臣とよんだら赤あげる」と言った。「いらない、よばない」とそっぽを向いて一人だけ帰ったのが少女時代のカウンターの女だった。親友が許せなかった。本当はビー玉も欲しかった。

そんな思い出さえ甘美となって、女はシェリーを飲んでいた。今はそれが欲しくなくても、相手がどんなに嫌でも、王様、いや、社長、とニッコリ呼ばなければならない。

まもなく猿の着ぐるみ男が来て女の隣に座った。その組合せをバーテンダーは訝しがった。「ビールください!」と威勢がいい。「私も!」と女も元気になって二人してビールをぐびぐび飲み始めたのでバーテンダーは面食らった。そのうちに花見帰りの常連達がやってきた。

「プライドってどんな味だろね」
「まずいんだ。ホコリだもん」
「ハハ」

空しさを笑いで紛らわせようとする常連も普段は一匹狼達だった。その呟きをみんなが聞いて、それぞれ溜め息をついた。

からん、と丸い缶を鳴らした猿男がみんなに飴玉を渡していった。

「どーぞ。梅干なのに甘い、玉なのに三角。これぞエータロの梅ぼ志飴でござい」

その飴を舐めながら珈琲を皆で飲んだ。猿男もどんぐりでも食えと投げつけられたことがある。飴玉と珈琲は彼ら酔客を潤していった。



Copyright © 2008 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編