第67期 #2

小鳥と宗教

 梅田のファーストキッチン、昼下がりのオープンテラスに座るのは、一組の若い男女。さっき見た話題の映画は、ひどく退屈だった。男はポテトを食べて塩っぽい指を舐めた。同時に、今朝はインコの水を取り替えないのを思い出し、少し心配した。女がアイスコーヒーに注いだミルクは、繊細な模様を描いた。女はそれを煙に喩え、レース編みに喩えてから、飽きてかき混ぜ一口飲んだ。そして、おもむろに言う。
「ヒホウカンに行こうか」
 女の口から零れた『ヒホウカン』が、男の中をしばし漂う。良い響きだ、と男は思った。悲報感?
「秘密の宝に、お館」
 女がじれた様子で続ける。かちっとピントの合う快感と、どうしようもない違和感。温泉地にひっそり佇む、18禁の娯楽施設。突飛だがなかなか面白い冗談だと、男はにやりと笑いかける。しかし、女の鈍く光る眼は応じなかった。
「最寄のだと、淡路島」

 電車は空いていた。高架の上をがたがたと走る。二人はボックス席で差し向いに腰掛け、窓の外を吹き飛ぶ民家・看板・街路樹・電線・畑を眺めた。男は時々、女の睫毛を草食動物の慎重さで盗み見る。女の濡れた眼が、突然男を捕らえた。
「見て」
 女は、ゆっくりとかざした手で、窓の下側四分の一を丁寧に隠した。
「こうするとね、銀河鉄道になるよ」
 男はしばし考え、倣って手をかざし、納得する。四分の三になった窓から見えるのは、機嫌のよい青空と、ちぎって口に入れたくなるような幾つかの白雲。意識的に自らを騙せば、ちょっとした浮遊感が味わえる。
「本当だ」
 満足そうに笑い、女は言う。
「私ね、仏教の高校に通ってたんよ。毎朝、校内放送で般若心経が流れてた。今でも空で唱えられるよ」
「へぇ、それは初耳。ちょっとやってみてよ」
「またの機会にね。朝の読経中は、いつもこっそり『空飛ぶ教室』遊びをしてたの。こうやって。一度だけ担任に怒られた」
「あたりまえだよ」
「私はクリスチャンだから、読経しなくてもよかったはずなのに」
「それも初耳だ」
「嘘だからね」
「そうだろうね」
 二人を乗せた銀河鉄道は今、輝く海峡を渡る。

 淡路の海風が、女のゆるく巻いた髪を乱暴に弄ぶ。ようやく到着すると、閉館時間を五分過ぎていた。入り口付近の、男根を象った巨大な石像が、夕日を背に輝く。なにか神聖な気分になった男は、思わず小さく手を合わせた。女が澄まして吹いた口笛が、風に歪む。男は、孤独なインコの呼び鳴きを思った。



Copyright © 2008 森 綾乃 / 編集: 短編