第67期 #10

空を飛ぶ

 翼をつけず空を飛びたいという父親の夢を叶えてあげたいと思うことは今までにも幾度ということなくあった。ただ単に空を飛びたいというだけなら気球だってあるだろうしもちろん飛行機っていう手もある。
 ―ハングライダーだってある。
 僕がそういったとても一般的なことを勧めると、決まって父親はことさら短絡的で邪道で無意味な答えだと云って僕のことを鼻で笑った。温度差か重力、あるいは風力に抵抗することで浮かび上がるというのは飛んでいるとは云わない。そういった意味では鳥だって飛んでいない。若かった父親の頑固ないつもの口癖だった。
 「…」
 理由などなかったが、かく言う父親を見ていると反発の反面、幼心にどうしてもそんな意味深長を共有したくなるから罪なものだ。翼をつけず空を飛びたいとは何か。幼い僕は二階の屋根に上がっていっそひと思いにと何度足を踏み込んだか分からない。結局、実行に移したことは無い。いつかそれなりに大人に成長してもいつまでも父親を越えられないと思い込んでいる。    
 ―あの父親なら飛ぶのかも知れない。
 馬鹿げた妄想を、心から永遠に消すことが出来ない。
 いつからか、父親が一度でも飛びさえすれば、きっと僕も飛べるようになるはずと勝手に思い込むようになった。とても横柄でひとりよがりで、甘えた考え方だが幼いとはそういうことだ。父親はなるほどと云い、そしてニヤリと笑ってみる。
 ―じゃあ、飛ぼう。
 真に受けた父親の、階段をのぼるその勢いの、腕を引っ張り足をひっぱり「やめてくれ。やめろよ」とすがりつく、結局は怖気づく僕がいる。いつまでたっても一枚上手、僕のコンプレックスは計り知れない。
 父親も結局は、年老いた。空飛ぶ夢は語らなくなったし、若い頃、邪道だと言い放った飛行機にもその後バンバン乗るようになった。突っ込んでみても惚けるだけ。
 ―お前が飛べば万事、それで済むだろ?
 でも、飛べない。飛び越えられない。
 「パパあ」
 いつか僕自身の子供も大きくなって、僕の父親は死んでしまって、僕はある日、あまりにも素晴らしいから屋根に上がって空を見上げてみた。透き通った空気を鼻で大きく吸いこんで、そしてゆっくりとゆっくりと吐いてみた。
 ―青空。
 真っ青な青。今ならばきっと父親の気持ちが分かる。たぶん分かる気がする。僕は空を飛びたい。僕はたった今でも空を飛びたい。飛びたい。大きく羽ばたいてあの青になりたい。



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