第66期 #20

 私がどうしても顔をおぼえられないその彼が死んでしまい、遺影でもやはりだめで、こっそり写しておいたそれを携帯電話で確認してはほっとする。やがて何者かが夜現れるようになり、そいつは踊りのようなものを披露し終えると知らぬ間に消え、私は平常心でいるが、それはそいつの顔がわからないから。社員旅行先でも、そいつは蒲団の合間を縫って巧みに踊る、畳から足先が離れる時にべりっと音がする、起きないんだ誰も、私が目を逸らすのは、月がこの部屋を照らし出していたから、顔を見たらお終いだ、一方で空気は軋る、畳は踊る、そのことに心が奪われる。だが、帰ってすぐに携帯電話をなくす。遺影が消える。そいつも消える。



「目が見えなくなりたい」
「いいから見ろよ」
「見えなくなったら手を引いてくれる?」
「きっとおぼえられるから」
「私の顔は?」
「おぼえてる」
「その目を頂戴」
「死んじゃうよ」
「じゃあ死んで」
「化けて出るぞ」
「夜に来るの?」
「そうなると思う」
「何してくれる?」
「かんかんのう」
「何それ」
「落語に出てくるへんな踊り」
「それ、今見せてよ」
「いやだ」
「どうして?」
「俺が死んだら見せてやる」
「じゃあ、見たくない」
「俺だって見せたくない」



 携帯電話を探して、彼はとうとう浜辺へ行き着いた。月光だけが頼りの暗闇で、しかし月は水平線上にあって針の穴のようにちいさく、与えてくれるどころか目標にさえなってくれそうにない。彼は身体の中をぬっと何かが通り抜けたように感じ、すると目の前を人のシルエットが海に向かって歩いていくようなそういうのを見つけた。それはまさに見つけたという印象で、暗闇と人の形の境界が見分けられないからなのだが、しかし彼の目はきちんとそれを見分け、その瞬間、浜を覆い尽くすおびただしい数の人のシルエットの存在に気がついたのであった。それらは誰一人例外なく海へ向かっており、月とも呼べない月が坐している水平線へ向かって歩いており、しかし海だと思っていたものは海ではなく、凪いでいたのではなくて漆黒の地平で、彼がそこに足をおろせば、ひやりと冷たく、吸いついてくるようで、わずかずつではあったがどうやら沈み込んでいる。そうなると同時に眠気が彼を襲い、二の足を踏み、眠気と沈下が関係しているのだと覚った彼は、沈み込んでいく脚をなんとか引き上げ、左、右、左、と呟きながら、前へ、前へ、飽く迄も冷静に、足を動かし始める。



Copyright © 2008 三浦 / 編集: 短編