第65期 #8

早春賦

「おおーいおおーい、おおーい、だーれかーいないのかー、だーれか、へんじを、しておくれー」
 もう何度も叫んでる言葉を、さらにこれでもかと続けるが、俺の声に応えてくれるのは相変わらず誰もいない。すでに陽は大きく傾き、背後に漆黒の闇が近づきつつある。
「だれかぁー、だれでもいい、こたえてくれー」
たしか目覚めたのが昼過ぎだったから、かれこれ半日近くも叫びながらこの街を徘徊している事になる。飲まず食わず、空腹で目が回りそうになりつつも、もし、ここで声を途切らせてしまったならば、俺の存在自体も霧消してしまいそうなそんな不安感に包まれ、叫び続けるのを止められずにいた。
「おおーいおおーい、うおおーい……」
のどが焼け付くように痛む。認識したくない現実が、するり脳のヒダへすべりこんでくる。
俺は。この世にひとりぼっち。
まぶたを閉じれば、みなで朝まで歌い踊り明かしたあの日、そして彼女と愛を語らい幸せを分かち合った日々が、まるで昨日のことのように脳裏に蘇ってくる。すべてが夢だったとでもいうのか、はたまた今のこの状態が夢なのか。俺は両の手のひらで、汗と涙と鼻水でぬめぬめになった顔面を、バチバチ二度三度と叩く。ぢっと手を見て、やがて伝わりくるその痛さと同時に、俺の不安は絶望へと追いやられていく。
「うおおーい……ぉぉぉぉぃぃ……」
 疲労と空腹が極限に達し、ついに俺は声を枯らし道端にうずくまる。一夜にして、世界に俺ひとりだけになることなどあるだろうか、ヘタな映画じゃあるまいし、絶対に何かがおかしい。仲間がいない、ということを除けば、世間は何ら変わってやしない。風に揺れる木々も、俺を威圧してくる山肌も、すべてが記憶の中の風景そのままだ。
 凍てついた冷気の矢が、うずくまる俺の背中に次々と幾本も突き刺さる。このまま誰に会うこともなく、そして別れの、言葉もなく、この生涯を、終える、のか、悪い、こと、なんて、なに、ひとつ、して、や、い、な、……、…



「こら、寒いからはやく窓を閉めなさい」
「ちがうよ、パパ、んとね、さっきまで、カエルさんがひとりケロケロ鳴いていたんだよ」
「まさか、いくらなんでもこの時期に……」
私のつぶやきをかき消すように、キッチンからの妻の声。
「ごはんが、できましたよー。今日は、おでんでーす」
「やっほーっ、おっでんっ、おっでんっー」
私は、開け放たれたベランダの窓をそっと閉め、はしゃぐ娘の後に続いた。



Copyright © 2008 さいたま わたる / 編集: 短編