第65期 #6

秩序を想う

 黒々と交差する電線に、高い早春の空は区切られ、すっかりと歪な多角形である。しかし、その色は正しく青いし、懐かしげな雲も二、三浮かんでいる。彼は、まあまあの気分だった。先程、けたたましく自転車のベルを鳴らして、彼の傍をかすめ抜きさった、醜い中年女のことさえ忘れれば―――少なくとも、お得意のナルシスティックな悲愴は影を潜めている。何せ気候が良かった。すずめなんかも鳴いている。
 そこへ、嗚呼、完璧なフォルムが現れた。小さな、硬いグレイである。確固としてしなやかな、空を行く一台の旅客機だ。彼はのろい歩みを止めはしないが、うっとりとそれを目で追い、その中を夢想する。

 えんじの、広く清潔そうな座席。思い思いにくつろぐ乗客は、きっと、皆身なりと品のいい大人たちである。新聞を読み、大きなスクリーンの、無声の外国映画を眺め、コーヒーを飲む。騒々しい子供などはいない。或る人は少し退屈して、背もたれのマジックテープを、考え深そうに少し剥してまた付ける。或る人は、耳の奥の圧迫に、けだるく欠伸をして、ゴムのイヤフォンを装着する。細い通路を、色々を搭載したワゴンを押して進むのは、美しいキャビンアテンダントである。その華奢な足は、揺れる床面をしっかり踏みしめ、動じない。涼しげなブルーのアイシャドウである。
 ポンと、小気味良く―――時には、気流の乱れに、シートベルト着用のランプが点灯する。皆落ち着き払って、ガシャリと金属音を立てる。悠然と、談笑しながらである。
 『おや、大丈夫だろうかね』

 信号機の発する、馬鹿げた調子の音楽に、彼はふと我に返る。青信号だ。横断歩道の縞々の上には、見なれた喧騒のみである。完璧なる秩序は、もう見えない。
 彼は思う。
―――つまらぬ。もはや、ちっぽけな春の陽気も、あれを想えば、なんともつまらぬ。上空の男と、テレポーテイションで入れ替わったなら、どんなに面白いだろう?突然の逆転にも、慌てはしない。シートベルトを締め直し、おもむろに懐の文庫本でも広げよう。行き先がロスだろうが、パリだろうが、構いやしない。片や、哀れなその男。上等のスーツに、紙コップのコーヒーだけを持って、この混沌に絶望し、立ち尽くすのだ。
『どこかしら、ここは?』
などと、一人間抜けにつぶやくがいい。
 鬱々としながらも、口の端ではにやりと男を笑う。彼は喧騒の縞々の、黒い所だけを、ピョコピョコと渡るのだった。



Copyright © 2008 森 綾乃 / 編集: 短編