第65期 #5

瀬戸際の主

限りなく死に近い匂いが、此処にはある。


古臭い木目の扉を開けると、廊下まで漏れていたテレビの音が一層大きくなる。そのテレビの前のベッドに横たわっている人に、自分は月に一度、会いに来ている。
「ばあちゃん」
努めて大きな声で呼びかける。しかし、反応はない。
今度はベッド脇まで行って、手をかざしてこちらへ注意を促す。
「ばあちゃん」
この時、ばあちゃんは体をびくっとさせてから、硬直する。
いきなり視界に割り込んできた人間が、誰だか瞬時に判断できないからだ。そのため自分が「久し振り、元気?」と大きな声で話しかけてやってようやく「ああ、あんたかね……」と安心した表情を見せる。
枕元のリモコンを拾い、テレビの音量を下げる。下げても、自分にはまだ大きいくらいの大きさだ。
「あんたぁ……、いつ来たの?」
寝そべったままばあちゃんが、顔をこちらに向けて聞いてくる。耳元まで顔を寄せてから「さっきだよ」と言ってやった。さっき?と聞き返してくるので、大げさに頷き返してやる。
大学に入学してから、この月に一度の習慣が始まって、もうすぐ一年が経つ。春も夏も秋も超えて、今は冬。しかし、すべての季節を終えようとしているのに、この部屋にだけその兆しは見えない。
いつだったか気付いた。この部屋には「変化」が無い。ばあちゃんは一年間ほとんど同じ寝間着をまとっているし、毎週毎日、同じテレビ番組を観る。部屋を一歩出れば様々な変化は嫌でも感じるが、この部屋に飾ってあるお見舞いの造花のように、ばあちゃんのいるこの部屋は変わらない。ばあちゃんにしても、自分の朽ちてゆく体以外に、何の変化もないだろう。
何ら変わることのない世界。
果たしてそれは現実世界だろうか。ここは本当に世界の一部か?もしやあの扉から異世界につながっているんではないか?
もしもそうだとしたらなんてすごいことだろう。今では自分の子どもたちからさえ、粗野な扱いをされているばあちゃんは、実はこの異世界の主だったのだ。
そんな倒錯めいた考えを巡らしていた時、壁にかかった時計がボーンボーンと帰宅時間を告げた。
「また来るからね」とばあちゃんに声をかけて、自分は立ち上がる。一歩一歩、現実への扉へと近づく。
そうして扉を開けて、普段の世界へ戻った。
廊下を歩いて、突き当たりの階段を降りようとしたとき、なんとなく、その古めかしい扉を振り返る。
あの向こうの世界が、いつまでもそこにあればいいと思った。



Copyright © 2008 柊葉一 / 編集: 短編