第65期 #26

泥鰌

 泥にまみれて米と野菜を作り、魚を釣って暮らせたならと思い描いてきたが、本当のところは蒲団に潜って泥のように眠りながら二年余りを無駄に費やし、生産的なことを何一つせずに過ごしてきた。不甲斐ないばかりの自分に出来ることといえば唯一、記録することだけで、僕の文章と生活と写真がすべて記録として残されるためにあったのだと思えば、少しは救われる部分がある。駄目の一言で済まされる出来事が、あとで鑑賞され考察されるためにあると思えば、現在の評価など気に掛けることなく文章や写真として残し続けられる。
 当り前のことをいえば、僕は観賞魚を飼うために暮らすのではなく、その観察記録を文章にしたためるため暮らすのでもない。僕が書きたいのは、より巨視的な、といえば漠然としているが、地面の広がりについて、といえば少しは具体的になるだろうか。ならないな。物事の微細に入って執拗な描写をすることが、単に切り取って拡大したに過ぎず、全体の象徴として利用するには貧弱に終わることは多い。たとえば今、こうして文章を書いているパソコンの傍に置いているドンブリから、一本のウドンをつまみ上げたとしよう。無造作に床へ置いたとき、普通なら緩やかな曲線を描いてウドンは着地する。この曲線を、曲流する河川になぞらえて小説を書くとしようか。ウドンを両端から引っ張って直線にすることが、すなわち河川の直線化工事となる。箸を操ってウドンを千切れば、河口堰や砂防ダムのたぐいに寸断された河川となって魚の往来を妨げる。複数本のウドンを重ねれば支流または分流、ウドンを指で圧し潰せば氾濫、ウドンの端を高く持ち上げれば常願寺川、ウドンで遊び過ぎて汚れてしまえば綾瀬川。面白いかは別として、話を展開させ飛躍させることは容易であり、これを小説と標榜して鑑賞や批評に興じることもまた容易だろうが、所詮、ウドンはウドンに過ぎない。
 米や野菜、またはウドンでもいいが、何か生産的なことをしなければ、僕はこれから何も語ることができない。だから塩水と小麦粉でウドンを作ったはいいが、ここに何らかの形で異種の物事を重ねなければ小説にはならず、しかし記録からは遠ざかる。判っているのは、蒲団の中にいては何をも見出せないことで、僕が観察すべきはウドンでなく河川、田んぼ、泳ぐ泥鰌、揺れる稲穂といったものたちで、これらを記録しなければ蒲団に潜る僕自身と、眠る泥鰌と変わりがない。



Copyright © 2008 川野佑己 / 編集: 短編