第65期 #12

男は今年で60才になり会社でもそこそこの役職に付き
妻と二人の子供に恵まれ平凡ながら幸せな家庭を築いていた。
二人の子供は数年前に親元を離れ地方で各々の生活を送っている。
十数年ぶりとなる妻と二人だけで過ごす生活に初めは戸惑いも
感じていたが次第にその生活にも慣れ満喫している。

バス停まで徒歩10分、電車で50分の片田舎からの
片道およそ1時間の会社への通勤も残すところあと数年という所になり
最近、老後について考えることも少なくない


吐く息も白くなり始めたその日
男は会社のちょっとしたトラブルに会い残業を余儀なくされていた
気が付けばもう時間は終電の電車を残すのみとなっている
夕方から降り出した雨の勢いは衰えを見せていない
そういえばあまりの忙しさのせいで家には連絡を入れていなかった
もう妻は休んでいる頃だろう

終電の電車に揺られ雨の降り続く窓の向こうに光るネオンを見つめながら
男は深いため息を一つついた

疲れ
安堵
充実感
寂しさ
むなしさ
……

吐き出した、ため息をかき消すかのように電車のアナウンスが
到着を告げた。
この時間ではもうバスは無い
男は携帯をスーツの内ポケットからだしタクシーを呼ぼうとした。

「あなた……」

「!」

改札口の影から男を呼ぶ声がする。
「あなた、お疲れ様……」
ただそう言って妻は男に傘を渡した。
男はその傘を閉じ、妻の傘の下で
そっと手を取った
今まで二人で生きた時間の分だけ
私を支え続けてくれた小じわ交じりの細い手を
決して放さぬよう
寄り添い
手をつないだ……



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