第65期 #10

仙丹

 霊佑山緋鷲洞の陋見普君(ろうけんふくん)が亡くなったという報せは、すぐに穿穴山禮水洞、璧銘真人(へきめいしんじん)のもとにも届いた。璧銘真人は天を仰ぎ一礼し、陋見普君の天寿を祝福した。兄弟子であった陋見の死に、璧銘は驚きも、悲しみもしなかった。しかし傍らで湯を沸かし、炉の番をしていた童子は違った。彼は大いに驚き、悲しんだ。
「師父、陋見老師がお亡くなりになられたというのは、本当ですか!?」
 璧銘真人は、騒がしい童子をたしなめながら、頷いた。
「老師の身に何があったというのですか? あれほどお元気でいらっしゃったのに」
 童子が仙道を学ぶため洞門をくぐってからこの方、仙人道士が亡くなるという報せは今までに聞いたことがなかった。仙人は不老不死であり、永劫生き続けるのだと童子は思っていた。璧銘は頭をふった。
「万極書巻(ばんきょくしょかん)が完成したのだ」
「万極書巻とは、なんですか?」
「この世の始まりから終わりまでを書き記した書物のことだ。起こりえた全てのこと、起こりうる全てのことも書かれている」
「その書物と、老師の死がどのように関係するのですか?」
 その問いかけに、璧銘はじれったそうに再び、頭をふる。
「書巻の完成に伴い、師兄は仙丹を呑むのをやめたのだ。大仙といえど、仙丹を呑まなければ、寿命は尽きる」
「なぜ、老師は仙丹を呑まなくなったのですか?」
「万極書巻を書き終えられ、師兄はその役目を終えられた。書巻を書くことは師兄の天数(運命)だったのだ。それを終えたのだから仙丹を呑む必要がない」
「それがなぜ仙丹を呑まず、死ぬことになるのです?」
 幼い童子には理解ができなかった。天数によって役目を終えた者が、どうして役目と同時に生きることをやめるのか。
「我々は、死ぬことを忘れているわけではない」
 璧銘真人は、眉間に深いシワを刻み童子にいった。
「果たすべきことを果たすために生きているのだ。ただ我々の場合、その果たすべきことが人間よりも少しばかり規模が大きい。そのため少し長生きをしているだけだ」
 童子は唸り声をあげながら、炉にかけてあった鍋の湯を湯呑みに移した。熱湯を少し冷ましてから璧銘真人にさしだすと、璧銘は懐の瓢箪から仙丹をとりだし、自身と童子の掌にそれぞれ一粒ずつ置いた。
 金色の丸薬はいつもより重かった。
 童子は璧銘真人の傍らでしばらく仙丹を眺めていたが、やがて、鼻をつまんで呑みこんだ。



Copyright © 2008 八海宵一 / 編集: 短編