第64期 #9

The Little House

 舞台の上の螺旋階段を、彼女は軽やかに駆けあがり、ベランダの柵をつかんで両足を踏ん張る。そして観客席の三列目の中央にいる僕に、視線を向ける。天井にぶら下がる照明の光を反射して、彼女の大きな漆黒の瞳がふたつ、その暗闇をいっそう際立たせる。
「わたしは木でできた人形。鼻の低いピノキオ。いつか人間になれる、いつか幸せになれると信じている、悲しい人形」
 彼女は言った。叶わぬ恋の台詞を。
 リハーサルは完璧だった。しかし彼女だけはそう思わなかった。スタッフが帰り支度を始めたころに、もう一度、と言ってきた。役者がやる気を見せてくれるのは演出家にとって幸せなことだ。彼女とふたりだけで、やることにした。
 バージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」の翻案は、いささか衒学的だが台本もよく、スタッフの仕事も充実していた。
「そして、あなたはピグマリオン。あなたは、わたしに自分の幻想を映して、ついには溺れ死んでしまうのよ」
 僕は立ち上がり、相手役の台詞を言った.
「真実か、それとも虚言か。そんなことはどうでもいい。私はおまえに、溺れてしまった」

   *

 半年間も誰も住んでいなかった家は静かで、空気すら眠っているようだった。わたしの生まれる、ずっと前に建てられた家は、歩くたびに床板がギシギシと鳴った。
 幼い頃、いつもミルクティーとお手製のパンケーキを振る舞ってくれた、おばあちゃん。わたしを膝にのせ、きれいな声で絵本を読みきかせてくれた。そのときには気がつかなかったけれど、今思えば、たしかにそれは女優の声だった。
 突然、轟音が響き、地面が揺れる。庭の一角をショベルカーが掘り返している。ベランダから庭を見つめる父に、わたしは声をかけた。
「あの大きな樹も切っちゃうのね」
「仕方がない。移動するにも金がいる」
 女優として華やかなときを過ごした祖母も、晩年は質素で、この小さな家だけが残った。そして、それも明日には取り壊されてしまう。マンションを建てることに父は反対だったが、結局、周囲に押し切られてしまった。
「ここにあるもの全部捨てちゃうの?」
「ああ」
「アルバムも?」
「当然だ」
 わたしはアルバムから写真をこっそりと抜き取ってポケットに入れる。若くて美しい祖母のとなりに、父とそっくりの男性が笑っている写真だ。
「おばあちゃん、どうして結婚しなかったの?」
 父はそれには答えず、絵本を一冊だけ持って、外に出ていった。



Copyright © 2008 虚構倶楽部 / 編集: 短編